まずエッセン歌劇場でリゲティの「ル・グラン・マカーブル」を観た。2月14日プレミエの新制作だ。客席はガラガラだった。意欲的な公演が多いこの歌劇場でも、現代オペラでは集客は難しいのだろうか。
演奏には気合が入っていた。とくに感心したのはオーケストラだ。指揮はディマ・スロボデニゥクDima Slobodenioukという若い人。どういう人かは、プロフィールが載っていなかったので、分からないが。ともかく、オーケストラからは、ガラス細工のように繊細で透明な音が出ていた。
現代音楽に慣れている指揮者のような感じがした。もっとも、このオペラは1975~77年にかけて作曲されたので(その後1996年に大幅に改訂されたが)、作曲からもう40年近く経っている。若手指揮者には現代音楽の‘古典’のようなものかもしれない。
このオペラの日本初演は2009年だった。今でも記憶に新しい。東京室内歌劇場が日本初演した。あのときの指揮はウリ・セガルだった。がっちりと構築された骨太の演奏だった。ごつい感じがした。エサ=ペッカ・サロネンのCDで馴染んでいたので、まったく違うタイプの演奏だと思った。
今回の演奏はサロネンのCDよりもさらに繊細・透明で、かつ滑らかだった。それと比べると、サロネンはもっと尖っていた。世代の違いだろう。
歌手も同様だった。あの跳躍の多い音楽を難なく歌っているように聴こえた。リズムもピタッときまっていた。もちろん今でもこれは至難の音楽なのだろうが、それを感じさせなかった。ネクロツァールを歌った歌手はHeiko Trinsinger。普段はなにを歌っている人だろう。ゲポポ/ヴェーヌスはSusanne Elmark。この人の名前は聞いたことがある。
演出はMariame Clement。この人のプロフィールは載っていたが、フランスの女性だ。このオペラのエロ、グロ、ナンセンスを几帳面にやっていた。でも、どこか優等生的で、野卑なヴァイタリティは感じられなかった。旧約聖書のヨハネ黙示録を茶化したこのオペラのとんでもなさは、あまり感じられなかった。
細かい点では、アマンドとアマンダは「ばらの騎士」のオクタヴィアンとゾフィーのパロディ、2大政党に牛耳られるゴーゴー侯の執務室はアメリカ大統領の執務室という具合に、アイディアはふんだんに盛り込まれていた。
(2015.3.4.エッセン歌劇場)
演奏には気合が入っていた。とくに感心したのはオーケストラだ。指揮はディマ・スロボデニゥクDima Slobodenioukという若い人。どういう人かは、プロフィールが載っていなかったので、分からないが。ともかく、オーケストラからは、ガラス細工のように繊細で透明な音が出ていた。
現代音楽に慣れている指揮者のような感じがした。もっとも、このオペラは1975~77年にかけて作曲されたので(その後1996年に大幅に改訂されたが)、作曲からもう40年近く経っている。若手指揮者には現代音楽の‘古典’のようなものかもしれない。
このオペラの日本初演は2009年だった。今でも記憶に新しい。東京室内歌劇場が日本初演した。あのときの指揮はウリ・セガルだった。がっちりと構築された骨太の演奏だった。ごつい感じがした。エサ=ペッカ・サロネンのCDで馴染んでいたので、まったく違うタイプの演奏だと思った。
今回の演奏はサロネンのCDよりもさらに繊細・透明で、かつ滑らかだった。それと比べると、サロネンはもっと尖っていた。世代の違いだろう。
歌手も同様だった。あの跳躍の多い音楽を難なく歌っているように聴こえた。リズムもピタッときまっていた。もちろん今でもこれは至難の音楽なのだろうが、それを感じさせなかった。ネクロツァールを歌った歌手はHeiko Trinsinger。普段はなにを歌っている人だろう。ゲポポ/ヴェーヌスはSusanne Elmark。この人の名前は聞いたことがある。
演出はMariame Clement。この人のプロフィールは載っていたが、フランスの女性だ。このオペラのエロ、グロ、ナンセンスを几帳面にやっていた。でも、どこか優等生的で、野卑なヴァイタリティは感じられなかった。旧約聖書のヨハネ黙示録を茶化したこのオペラのとんでもなさは、あまり感じられなかった。
細かい点では、アマンドとアマンダは「ばらの騎士」のオクタヴィアンとゾフィーのパロディ、2大政党に牛耳られるゴーゴー侯の執務室はアメリカ大統領の執務室という具合に、アイディアはふんだんに盛り込まれていた。
(2015.3.4.エッセン歌劇場)