新国立劇場の「ウェルテル」。今シーズンの3本の‘新制作’の内、唯一の自前の新制作(なお他の2本はレンタル)。観客の一人としては、自前の制作であれば、否が応でも力が入る。さて、どういう出来か。
演出は、長らくトゥールーズ・キャピトル劇場の芸術監督を務め、最近ではパリ・オペラ座の総監督も努めたニコラ・ジョエルによるもの。今の時代から見て、かなり保守的な演出だ。新たな発見とか、問題提起とかはない。ストーリーをそのままなぞった演出。正直に言って、最初は時計の針が20年ほど逆戻りしたような感覚を持った。
演出はそうだったが、舞台美術はそれなりに面白かった。第1幕は大法官の屋敷の入り口が舞台。緑したたる森が大きく映し出される。自然を賛美するウェルテルのソロに対応するものだ。第2幕はドイツのヴェッツラーの街角が舞台。遠くに高い山が見える。開放的な野外の情景。
心理的なドラマが深まる第3幕は、シャルロットが嫁いだアルベールの屋敷の中が舞台。窓から降りしきる雪が見える。自然の描写はそれだけ。ウェルテルが自殺する第4幕は、天井まで届く書棚が立ちはだかる。自然から切り離された閉鎖的な空間。
というように、ドラマの読み込みという点では、とくに目新しいものはなかったが、舞台装置はそれなりに用意されていた。あとは歌手が持てる力を発揮するだけ。さて、個々の歌手はどうか。と、そんな方向に興味を向ける演出だ。
歌手では、なんといっても、ウェルテル役のディミトリー・コルチャック。第2幕のソロと第3幕の「オシアンの歌」で情熱ほとばしる歌唱を聴かせた。シャルロット役のエレーナ・マクシモアは、声の素質はよいと思うが、フランス語の発音がはっきりしなかった。アルベール役のアドリアン・エレートは、鼻母音がフランス語的だった。ソフィー役の砂川涼子は、わたしは大ファン。今回も健闘した。
指揮者は、代役の代役でエマニュエル・プラッソン。よかったのではないかと思う。情熱の渦が巻き上がるような部分があった。半面、第1幕のウェルテルとシャルロットとの二重唱では、音楽に生気が出てこないもどかしさがあった。その他の部分では問題を感じなかった。高齢の父君よりも、かえってよかったと思う。
来シーズンの‘新制作’も3本。自前の制作は「ルチア」だけだが、今度はモンテカルロ歌劇場との共同制作だ。期待して待ちたい。
(2016.4.13.新国立劇場)
演出は、長らくトゥールーズ・キャピトル劇場の芸術監督を務め、最近ではパリ・オペラ座の総監督も努めたニコラ・ジョエルによるもの。今の時代から見て、かなり保守的な演出だ。新たな発見とか、問題提起とかはない。ストーリーをそのままなぞった演出。正直に言って、最初は時計の針が20年ほど逆戻りしたような感覚を持った。
演出はそうだったが、舞台美術はそれなりに面白かった。第1幕は大法官の屋敷の入り口が舞台。緑したたる森が大きく映し出される。自然を賛美するウェルテルのソロに対応するものだ。第2幕はドイツのヴェッツラーの街角が舞台。遠くに高い山が見える。開放的な野外の情景。
心理的なドラマが深まる第3幕は、シャルロットが嫁いだアルベールの屋敷の中が舞台。窓から降りしきる雪が見える。自然の描写はそれだけ。ウェルテルが自殺する第4幕は、天井まで届く書棚が立ちはだかる。自然から切り離された閉鎖的な空間。
というように、ドラマの読み込みという点では、とくに目新しいものはなかったが、舞台装置はそれなりに用意されていた。あとは歌手が持てる力を発揮するだけ。さて、個々の歌手はどうか。と、そんな方向に興味を向ける演出だ。
歌手では、なんといっても、ウェルテル役のディミトリー・コルチャック。第2幕のソロと第3幕の「オシアンの歌」で情熱ほとばしる歌唱を聴かせた。シャルロット役のエレーナ・マクシモアは、声の素質はよいと思うが、フランス語の発音がはっきりしなかった。アルベール役のアドリアン・エレートは、鼻母音がフランス語的だった。ソフィー役の砂川涼子は、わたしは大ファン。今回も健闘した。
指揮者は、代役の代役でエマニュエル・プラッソン。よかったのではないかと思う。情熱の渦が巻き上がるような部分があった。半面、第1幕のウェルテルとシャルロットとの二重唱では、音楽に生気が出てこないもどかしさがあった。その他の部分では問題を感じなかった。高齢の父君よりも、かえってよかったと思う。
来シーズンの‘新制作’も3本。自前の制作は「ルチア」だけだが、今度はモンテカルロ歌劇場との共同制作だ。期待して待ちたい。
(2016.4.13.新国立劇場)