Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ダッハウ強制収容所自由通り

2016年08月16日 | 身辺雑記
 「ダッハウ強制収容所自由通り」(エドモン・ミシュレ著、宇京頼三訳)を読んだ。ダッハウ強制収容所はミュンヘン郊外にあるナチス・ドイツの施設。現在も保存・公開されている。ミュンヘン中心部から電車とバスで簡単に行ける。今から何年も前だが、わたしも行ったことがある。小学生や中学生くらいの生徒たちが、先生に引率されて大勢来ていた。

 著者ミシュレは第2次世界大戦中レジスタンスの活動に加わり、ゲシュタポに捕らえられて、ダッハウ強制収容所に収容された。本書はその経験を書いたもの。

 ダッハウ強制収容所はアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなく、レジスタンス、共産主義者、聖職者、その他ナチスへの抵抗勢力を収容していた。

 絶滅収容所ではないとはいっても、暴力が支配し、飢餓が慢性化し、衛生状態が悪くて伝染病が蔓延したことに変わりはない。死と隣りあわせの毎日。明日は自分が死ぬかもしれない不条理な日々。それがいつまで続くか見通しも立たない絶望的な日々。

 だがミシュレは、そんな日々にあっても、人間性を失わなかった。驚くべきことに、収容所のバラックの中では、SS(ナチス親衛隊)の目を盗んで、司祭が秘密裏にミサをあげていた。ミシュレも熱心にミサに参加した。ミシュレの精神的な支柱は信仰にあった。また文学、歴史、その他の広範な教養もミシュレを支えた。

 ミシュレは典型的なヨーロッパ精神の持ち主かもしれない。ヨーロッパ人といえども、だれでもミシュレのように身を処すことができるわけではないので、その最良の部分を体現する人物といった方がよいかもしれない。日本人のわたしには、理解はできても、真似ることは難しい。

 ダッハウを生き抜いたミシュレは、解放直後の1945年、シャルル・ド・ゴールに要請されて、臨時政府の国防大臣に就任する。政治的にはまったく無名だったミシュレなので大抜擢の人事だ。以後ミシュレはド・ゴールとともに戦後政治を歩み、重要閣僚を歴任した。

 原著が出たのは1955年。それから約60年経った2016年1月に翻訳が出た。なぜ今頃になって翻訳が出たのだろう。翻訳者あるいは出版社に何かメッセージがあったのだろうか。わたしはあったと思う。翻訳者の「あとがき」を読むとそれが分かる。一言でいうと、今の時代にミシュレの「それでもドイツを憎まない」という寛容の精神を伝えたかったようだ。
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