Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フルシャ/都響

2016年12月20日 | 音楽
 フルシャ/都響のAシリーズ。20世紀の苦難の歴史を生きた2人の作曲家マルティヌー(1890‐1959)とショスタコーヴィチ(1906‐1975)のプログラム。

 まずはマルティヌーの交響曲第5番(1946)から。フルシャは師匠のビェロフラーヴェク譲りなのか、マルティヌーの演奏に使命感を持っているので、フルシャならではの選曲。演奏機会がまれなこの曲を聴く得がたい機会だ。

 精妙なリズムの絡み合い、浮遊する半音階など、いかにもマルティヌーらしく、マルティヌーでなければ書けない(書かない)曲だ。苦渋に満ちた第3番(1944)、喜びにあふれた第4番(1945)は、いずれも第2次世界大戦と関連する曲だが、第5番はそこから脱して、一種の抽象化の進行が感じられる。

 最後に悲劇的なトーンが忍び込むのはなぜだろう。うっかりすると聴き落としかねない暗い影。外的な条件としては、チェコスロヴァキアに共産党政権ができるのは初演の後だし、ましてやプラハの春への弾圧はもっと後だ。マルティヌーはなにを感じていたのだろう。芸術家らしい予感か。

 演奏は正確に音をとったものだが、惜しむらくは推進力に欠けた。もっと闊達な演奏であってほしかった。少し慎重過ぎたか。

 プログラム後半はショスタコーヴィチの交響曲第10番(1953)。本年9月にはロジェストヴェンスキー/読響の名演があったが、フルシャ/都響も別の意味で名演だった。

 冒頭の低弦の音にふくらみがあり、さらに他の弦が順次入ってくると、豊かな音が(まるで絨毯のように)織り上げられていく。主部に入ると、クラリネット、フルートのソロが意味深く演奏され、音が激しく炸裂する箇所では、音が混濁しない。第2楽章の猛スピードも、アンサンブルの乱れがないことは当然として、音の汚れがない。

 第3楽章はロジェストヴェンスキー/読響に分があるような気がした(あれはロジェストヴェンスキーならではの、テンポを落した、空前絶後の演奏だったと思う)。第4楽章の自暴自棄の闘いとアイロニカルな‘勝利’の狂騒は、フルシャ/都響も負けてはいなかった。

 ロジェストヴェンスキーとかラザレフとか、生きているショスタコーヴィチを敬愛してきた世代とは違って、フルシャの世代はスコアがすべてだ。今回はその高水準の演奏例だったと思う。
(2016.12.19.サントリーホール)
コメント (2)
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