インキネンの振るシューベルトとブルックナーというプログラム。楽しみにしていた定期だ。1曲目はシューベルトの交響曲第5番。今年6月の定期で演奏したメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」が名演だった。それと同じスタイルの演奏。だが、軽い音は同じだが、その音にふくらみが欠けていた。羽毛のような感触がなかった。
ブルックナーの準備に全力投球したのか、と思った。そのブルックナーは交響曲第9番。今月はブロムシュテット/N響も取り上げるし、他の方のツイッターを拝見すると、(今月かどうかはわからないが)他のオーケストラも取り上げるらしい。
演奏が始まると、やはり意気込みが違った。陳腐な表現で恐縮だが、大伽藍のような演奏だ。それは、インキネンらしく、デフォルメした部分のない、譜面を素直に鳴らした演奏。そうだからこそ、演奏が進むにつれて、その充実度が増した。
注目すべき点は、これまでのインキネンと違って、オーケストラの鳴らし方が豪快だったことだろう。インキネンの指揮は2008年の日本フィル初登場(横浜定期でチャイコフスキーの交響曲第4番他を振った)以来10年間聴いているが、今回は従来のイメージに変更を迫るような豪快さが加わった。
第1楽章、第2楽章では、その成長とも、進化ともいえる変貌ぶりに目を見張ったが、第3楽章になると、オーケストラが息切れしたのか、単調に流れる部分があった。じっくり作り込まれている部分もあるのだが、前2楽章のような一貫した緊張感は薄れた。
結論的には、シューベルトもブルックナーも、完全には満足できなかった。そのため、ブログは書きにくいので、今回は止めようかと思ったが、感じたままを書いてみようと思い直した。
他の方はどう感じたのだろうと、皆さんのツイッターやフェイスブックを拝見したら、当然、感じたことはひとさまざまだが、それらの中に「二日目はもっとよくなるだろう」というご意見が散見されることが気になった。それはプロの批評家も、わたしのようなアマチュアも、だ。
日本フィルは、昔から、そのように言われることが多い。でも、それは、プロのオーケストラにとって、恥ずべきことではないだろうか。今は、そのような言われ方に甘んじないで、奮起すべきときではないか。一度定着した世評をくつがえすのは容易ではなく、時間もかかるが。
(2018.10.12.サントリーホール)
ブルックナーの準備に全力投球したのか、と思った。そのブルックナーは交響曲第9番。今月はブロムシュテット/N響も取り上げるし、他の方のツイッターを拝見すると、(今月かどうかはわからないが)他のオーケストラも取り上げるらしい。
演奏が始まると、やはり意気込みが違った。陳腐な表現で恐縮だが、大伽藍のような演奏だ。それは、インキネンらしく、デフォルメした部分のない、譜面を素直に鳴らした演奏。そうだからこそ、演奏が進むにつれて、その充実度が増した。
注目すべき点は、これまでのインキネンと違って、オーケストラの鳴らし方が豪快だったことだろう。インキネンの指揮は2008年の日本フィル初登場(横浜定期でチャイコフスキーの交響曲第4番他を振った)以来10年間聴いているが、今回は従来のイメージに変更を迫るような豪快さが加わった。
第1楽章、第2楽章では、その成長とも、進化ともいえる変貌ぶりに目を見張ったが、第3楽章になると、オーケストラが息切れしたのか、単調に流れる部分があった。じっくり作り込まれている部分もあるのだが、前2楽章のような一貫した緊張感は薄れた。
結論的には、シューベルトもブルックナーも、完全には満足できなかった。そのため、ブログは書きにくいので、今回は止めようかと思ったが、感じたままを書いてみようと思い直した。
他の方はどう感じたのだろうと、皆さんのツイッターやフェイスブックを拝見したら、当然、感じたことはひとさまざまだが、それらの中に「二日目はもっとよくなるだろう」というご意見が散見されることが気になった。それはプロの批評家も、わたしのようなアマチュアも、だ。
日本フィルは、昔から、そのように言われることが多い。でも、それは、プロのオーケストラにとって、恥ずべきことではないだろうか。今は、そのような言われ方に甘んじないで、奮起すべきときではないか。一度定着した世評をくつがえすのは容易ではなく、時間もかかるが。
(2018.10.12.サントリーホール)