Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2018年10月25日 | 音楽
 シュレーカーとツェムリンスキーという大野和士らしいプログラム。まずシュレーカーの「室内交響曲」から。シュレーカーというとオペラ作品を思い浮かべるが、この曲は純器楽曲。でも、その音楽はオペラを彷彿とさせる。室内オーケストラの編成だが、大規模なオーケストラによるオペラの、そのエッセンスを抽出したような曲だ。

 大野和士の指揮は、めまぐるしく変わる音楽(オペラでいえば心理や事件)に機敏に反応して、音楽との一体感を感じさせた。

 大野和士は東京フィル時代のオペラコンチェルタンテ・シリーズで「はるかなる響き」を取り上げたことがある。シュレーカーが好きなのだろう。新国立劇場では難しいかもしれないが、いずれどこかの劇場で、思う存分シュレーカーを振れるポストに就くとよいが。

 次にツェムリンスキーの「抒情交響曲」。ソプラノ独唱はアウシュリネ・ストゥンディーテ、バリトン独唱はアルマス・スヴィルパという歌手。ストゥンディーテは細かい音符によく声が乗り、劇的表現も豊かなのだが、ドイツ語の発音がはっきりしない。その点、スヴィルパのほうが明確で聴きやすかった。

 この曲の白眉ともいえる第3曲(バリトン独唱)と第4曲(ソプラノ独唱)の沈潜した音楽では、大野和士/都響の集中力ある演奏と相まって、見事な成果をあげた。

 とはいえ、わたしは大野和士が好きで、その音楽的志向を支持しているので、あえていうが、大野和士の意欲が先行して、前のめりの感じがした。オーケストラと十分にかみ合っているのかどうか危惧した。

 その関連で思い出したのは、先日聴いたブロムシュテット指揮N響のAプロとCプロの演奏だ。ブルックナーの交響曲第9番などを演奏したAプロでは、コンサートマスターにライナー・キュッヒルが入った。顔を真っ赤にして演奏するキュッヒルに率いられて、N響は我を忘れたような熱演を繰り広げた。一方、マーラーの交響曲第1番「巨人」などを演奏したCプロでは、コンサートマスターに伊藤亮太郎が入り、N響はいつものペースに戻って沈着冷静な演奏をした。

 大野和士の指揮は、キュッヒルがコンサートマスターに入ったときのN響のような、熱く燃えるオーケストラが相応しいのではないか。だが、日本のオーケストラにはアンサンブル重視の冷静な体質があるので、齟齬が生じるおそれがあると思った。
(2018.10.24.東京文化会館)
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