ブロムシュテットは今年7月11日の誕生日で91歳になったそうだ。高齢でお元気な指揮者が時々いるが(我が国では朝比奈隆がそうだった)、ブロムシュテットも、杖を使わずに歩き、椅子に座りもせずにブルックナーのような大曲を指揮する。その音楽は少しも老いを感じさせない。
当日のプログラムはモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」とブルックナーの交響曲第9番という堂々たるもの。わたしが聴いたのは2日目だが、初日の演奏にかんしては絶賛の声が飛び交っていた(わたしはいつも、自分で聴く前は、他の方のツイッターは見ないようにしているのだが、どうしても一部は目に入ってしまう)。
1曲目のモーツァルトは、その完璧なピッチとアンサンブルで、音の構造体が透けて見えるような演奏だった。その代り、音楽の愉悦のようなものは、あまり感じられなかった。そんなものを目指したのではなく、音を見つめた演奏。
そう感じたのは、弦の編成が10-10-6-4-3だったことも、多少影響しているかもしれない。通常の10型よりも高音の比重が高い。木管は2管編成なので(クラリネットを欠いている)、中音域が薄めだ(金管はホルンとトランペットが各2)。もちろんブロムシュテットの意図あってのバランスだろう。
2曲目のブルックナーは、モーツァルトとは対照的に、音の厳しさよりも音楽の情動に身をゆだねた演奏。ブルックナーの激しい精神を渾身の力で表現した。わたしは第1楽章コーダでブルックナーの高揚した熱い涙に触れたように感じた。
だが、その一方で、ピッチは緩めだった。音の荒々しさがすべてを呑みこんだ。その結果、怒涛のようなブルックナーが現れた。
ピッチのことは、ブロムシュテットが高齢になったからか、とも思った。ブロムシュテットも、N響を振りだした1980年代の頃は、厳しいピッチだった。もっとも、今回のモーツァルトは厳しいピッチだったので、一概にはいえないが。
当日はコンサートマスターにライナー・キュッヒルが入った。その効果は大きかった。コンサートマスターが変わると、オーケストラの音が変わるといわれるが、キュッヒルが入ったときの変わりようは、普通のレベルを超えている。ヴァイオリン群の音に艶が出て、音楽に熱が生まれる。それが全体に伝播する。キュッヒルが真っ赤になって弾く姿が、オーケストラを引っ張った。
(2018.10.14.NHKホール)
当日のプログラムはモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」とブルックナーの交響曲第9番という堂々たるもの。わたしが聴いたのは2日目だが、初日の演奏にかんしては絶賛の声が飛び交っていた(わたしはいつも、自分で聴く前は、他の方のツイッターは見ないようにしているのだが、どうしても一部は目に入ってしまう)。
1曲目のモーツァルトは、その完璧なピッチとアンサンブルで、音の構造体が透けて見えるような演奏だった。その代り、音楽の愉悦のようなものは、あまり感じられなかった。そんなものを目指したのではなく、音を見つめた演奏。
そう感じたのは、弦の編成が10-10-6-4-3だったことも、多少影響しているかもしれない。通常の10型よりも高音の比重が高い。木管は2管編成なので(クラリネットを欠いている)、中音域が薄めだ(金管はホルンとトランペットが各2)。もちろんブロムシュテットの意図あってのバランスだろう。
2曲目のブルックナーは、モーツァルトとは対照的に、音の厳しさよりも音楽の情動に身をゆだねた演奏。ブルックナーの激しい精神を渾身の力で表現した。わたしは第1楽章コーダでブルックナーの高揚した熱い涙に触れたように感じた。
だが、その一方で、ピッチは緩めだった。音の荒々しさがすべてを呑みこんだ。その結果、怒涛のようなブルックナーが現れた。
ピッチのことは、ブロムシュテットが高齢になったからか、とも思った。ブロムシュテットも、N響を振りだした1980年代の頃は、厳しいピッチだった。もっとも、今回のモーツァルトは厳しいピッチだったので、一概にはいえないが。
当日はコンサートマスターにライナー・キュッヒルが入った。その効果は大きかった。コンサートマスターが変わると、オーケストラの音が変わるといわれるが、キュッヒルが入ったときの変わりようは、普通のレベルを超えている。ヴァイオリン群の音に艶が出て、音楽に熱が生まれる。それが全体に伝播する。キュッヒルが真っ赤になって弾く姿が、オーケストラを引っ張った。
(2018.10.14.NHKホール)