不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

石川淳「八幡縁起」「修羅」

2018年10月09日 | 読書
 振り返ってみると、6月から9月まで、まず石川淳の小説を読む時期があり、次に宮本常一の著作を読む時期があったが(さらに宮本常一に関連して網野善彦の著作を読んだが)、それらに通底するテーマがあって、それが常に頭の隅に引っかかっていたようだ。今までそれについて触れてこなかったので、備忘的に書いておきたい。

 そのテーマはなにかというと、被差別民のこと。石川淳の「紫苑物語」を読んだ後で、同じ文庫本(講談社文芸文庫)に収められた「八幡縁起」と「修羅」を読んだのだが、文体の緊張感では「紫苑物語」は別格であり、奇跡的とも思うが、テーマのおもしろさでは他の2作もひけをとらないと思った。

 「八幡縁起」は木地師(木地屋ともいう)をテーマとして、その起源にさかのぼる神話的な物語。全10章のうち後半の2章は後世の出来事を扱っているが、わたしがおもしろく思ったのは、前8章の神話的な物語のほうだ。

 木地師の存在は、今では一般の人々に知られるようになったのかもしれないが、わたしは知らなかった。「八幡縁起」を読みながら、インターネットで検索したら、驚くばかりの話だった。一言でいって、山中に住んでいた非定住民。山から山に移動しながら、木を伐って椀や皿を作り、里の人々に売っていた。里の人々には謎の存在だった。明治時代に入ってから徐々にその生活形態が知られるようになった。

 一方、「修羅」には民が登場する。応仁の乱を背景に、民と、当時の無法者集団である足軽と、武家と、公家と、それらの各階層が入り乱れて争う乱世が描かれる。民はメインキャラクターの一つだ。

 木地師とか民とか、ともに社会のアウトローともマイノリティーとも思われている(あるいは、思われていた)人々だが、わたしはその姿に強い印象を受けた。そして次に宮本常一の著作に移ったとき、再びそれらの被差別民の姿をそこに見出して、わたしは興奮した。

 木地師にかんしては「山に生きる人びと」で独立した章を設けて、まとまった考察が行われている。民にかんしては、むしろ網野善彦の「宮本常一『忘れられた日本人』を読む」の中に、宮本常一の記述を敷衍する形で、まとまった考察がある。

 調べてみると、木地師も民も、その他あらゆる被差別民について、柳田国男がすでに触れており、宮本常一や網野善彦がそれを深め、今はさらに研究が進んでいるようだ。自分の不勉強さに恥じ入った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする