Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カミュ「誤解」

2018年10月18日 | 演劇
 アルベール・カミュの演劇「誤解」を観た。戯曲は読んだことがあるが、舞台を観たのは初めて。戯曲に関しては地味な印象が残っていたが(同じ文庫本に入っていた「カリギュラ」を読んで衝撃を受けた後だったからかもしれない)、舞台は驚くほどおもしろかった。

 まずストーリーを紹介すると、場所はヨーロッパのどこかの田舎町。母と娘が経営する小さなホテルに、ある男が泊まりに来る。その男は20年前に失踪した息子だった。息子は経済的に成功し、母と妹を幸せにするために戻ってきたのだが、名前を明かさない。母と妹もその男が息子(兄)だとはわからずに応接する。

 母と娘には秘密があった。宿泊客を殺害して、金品を盗むこと。母はそのような生活に疲れているが、娘は田舎町から脱出し、海と太陽の地に行くことを夢見て、その男を殺そうとする――。

 今回、舞台がおもしろかったのは、名前を明かさない男と、見知らぬ男として(=その晩殺害するつもりの男として)応接する母と娘との、思惑のすれ違いが、綿密に描かれていたからだ。表情の変化や、気まずい、ちぐはぐな空気感が、丁寧に描出され、ドラマにふくらみがあった。

 もう一つ特筆すべき点は、娘のキャラクターの悲劇性が、崇高なまでに表現されていたことだ。もちろん、感心できるキャラクターではなく、まして共感などとんでもないが、その「石」のような心が、ギリシャ悲劇のような悲劇性を帯びる場合があり得ることが表現された。

 娘(マルタという)を演じたのは小島聖(こじま・ひじり)。わたしは何度かその舞台を観たことがあるが、今回ほど感銘を受けたことはない。

 演出は稲葉賀恵(いなば・かえ)。以前日生劇場のピロティで上演された「マリアナ・ピネーダ」(ガルシア・ロルカ作)を観たことがあり、今でも鮮やかな記憶が残っているが、そのときの演出家だったようだ。今回その実力を認識した。

 本作は1944年6月にナチス・ドイツ占領下のパリで初演された。舞台を観ていると、当時の暗い閉塞感が伝わってくる。同時期にサルトルの「出口なし」やアヌイの「アンチゴーヌ」も初演された。占領下といえども活発に演劇活動が続いていたわけだ(むしろ占領下なので演劇活動が活発化した、といえるかもしれない)。ナチスも文化統制までは手が回らなかったようだ。
(2018.10.17.新国立劇場小劇場)
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