Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

石原吉郎「望郷と海」

2020年09月13日 | 読書
 アウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする「強制収容所」は、人間が生きるもっとも過酷な条件の一つだった。そこでは、生きるために、人間の本性がむき出しになった。人間が人間であるギリギリの線、その線を越えると人間の姿をした別のものになる場所がそこだった。そんな「強制収容所」から生還した人々がいる。それらの人々が書いた回想録は人間の本質とは何かを考える教材のようなものだ。

 そのような回想録でわたしがまず思い浮かべるものは、アウシュヴィッツ強制収容所から生還したプリーモ・レーヴィ(1919‐1987)の「これが人間か――アウシュヴィッツは終わらない」(1947)と「溺れるものと救われるもの」(1986)だ。それらの2作はわたしがいままで出会った書物の中でももっとも大切なものだ。他にはフィリピンのレイテ島で捕虜収容所に収容された大岡昇平(1909‐1988)の「俘虜記」(1949)と、シベリアに抑留された石原吉郎(1915‐1977)の「望郷と海」(1972)とが思い浮かぶ。

 以上の著作はどれも第二次世界大戦を背景としている。わたしが自分のルーツを探るとき、言い換えるなら、わたしとは何ものか、どんな時代に生まれたのか、というようなことを考えるとき、父母の生きた時代に目が向くのは当然の成り行きかもしれず、その時代に目を向けると、否応なく第二次世界大戦と向き合わざるを得ないのだ。

 上記のレーヴィの2作品と大岡昇平の「俘虜記」については、すでにこのブログで書いたことがあるので、今回は石原吉郎の「望郷と海」について書いてみたい。石原吉郎は敗戦時に満州にいた。ソ連軍に捕らえられ、シベリアへ送られた。しかも(シベリアの中でももっとも過酷といわれた)シベリア鉄道の支線「バイカル・アムール鉄道」(通称「バム鉄道」)の建設現場へ送られた。厳しい労働、飢餓、劣悪な衛生状態、そして死が支配するその地は、アウシュヴィッツと似た環境にあった。そこで何があったのか。その意味は何かを考察した著作が「望郷と海」だ。

 「望郷と海」は13篇のエッセイと1篇のシュールな短編小説、そしてノートの断片からなる。短編小説以外はみな容赦なく自分を問い詰める内容だ。他者を責めるのではなく、自分を問い詰める。そこに本書の特徴がある。その考察の、あまりにも求道的でストイックなために、わたしはしばしば息が詰まり、しばし本を閉じた。

 「望郷と海」に収められたそれらの文章のほとんどは、1969年から1971年にかけて書かれた。凝縮した集中的な仕事だ。石原吉郎は1953年に日本へ帰還した。帰還後、シベリア抑留の経験を考え続けた。そして自らの内部に地下水のように溜まったものが、その3年間で突如吹き上げたように見える。それは蒸留水のように濁りがなく、怜悧で、透徹したものになった。わたしはその言葉を前に声も出ない。
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