Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

クラーナハ展

2017年01月07日 | 美術
 ルーカス・クラーナハ(父)(1472‐1553)は、アルブレヒト・デューラー(1471‐1528)とともに、ドイツ・ルネサンス期を代表する画家の一人だ。他にマティアス・グリューネヴァルト、アルブレヒト・アルトドルファー、ハンス・ホルバイン(子)などが輩出したこの時期のドイツは、イタリア・ルネサンス期と比肩する豊かな実りをもたらしている。

 ドイツのどんな都市の美術館に行っても、大抵はクラーナハの作品がある。デューラーその他の画家の場合は、ベルリンとかミュンヘンとか、概ね大都市の美術館に行かないと、その作品にお目にかかれないのとは対照的だ。

 結局はそれだけクラーナハが多くの作品を産み、しかもドイツ中に流通したことの証しなのだが、なぜそれが可能になったのかを解き明かした展覧会が本展である、という見方もできる展覧会だ。

 その秘密は工房にあった、というのが本展で示された解だ。クラーナハは工房を経営していた。多くの画工を使って大量の注文をこなした。工房で制作された膨大な作品は、クラーナハ・ブランドを身にまとってドイツ中に広まった。もちろん、たとえばデューラーも工房を持っていたが、クラーナハのほうが大規模だったのかもしれない(これはわたしの推測だが)。

 わたしは通常は、どこかの美術館でクラーナハを見る場合、それが工房作であることを意識しないが、本展を見ているうちに、工房作であることと‘作者性’との間には、どんな関係があるのだろう、という考えが芽生えてきた。

 本展の目玉はチラシ(↑)に使われている「ホロフェルネスの首を持つユディト」(ウィーン美術史美術館所蔵)だが、本作と同一の作品が、ドイツのシュトゥットガルトの州立美術館にもある。そのこと自体は、工房作でなくても起こり得るが、本展を見ていると、工房との関係でも考えてみたくなった。

 その意味では、まちがいなく‘真筆’と思われる作品があった。「フィリップ・フォン・ゾルムス=リッヒ伯の肖像習作」だ。眉間のしわ、頬の筋肉、こめかみの窪み、鋭い目、頑丈な鼻など、どこをとっても迫真性がある。わたしが本展で一番感銘を受けた作品はこれだった。

 でも、‘真筆’であるかどうかを問うこと自体が問われているのが本展かもしれない。本展は思いがけない問題提起に揺さぶられた展覧会でもあった。
(2017.Ⅰ.5.国立西洋美術館)

(※)本展のHP

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