山田和樹指揮読響の定期演奏会へ。1曲目は矢代秋雄の交響曲。オーケストラ・ファンには(わたしもその一員だ)、矢代秋雄の交響曲、ピアノ協奏曲そしてチェロ協奏曲は大切な曲目だ。今回も心して出かけたが、十分には満足できなかった。なぜだろう。それは異様に緊張した演奏だったからかもしれない。音楽というものは、演奏のどこかに余裕がないと、聴き手は中に入りこめないものらしい。
快い緊張であればよいのだが、今回は表情がこわばった感覚があった。そのためなのかどうなのか、色彩に乏しい印象があった。
久しぶりに聴くこの曲は、第1楽章は「春の祭典」の「生贄の踊り」を、第3楽章はメシアンのなにかの曲を想起させる。日本の先人たちの作品の中にはそのような例も散見されるが(つまり西洋音楽の既存の曲をモデルにしたと思われる例だ)、矢代秋雄にしてもそうなのかと思った。もちろんいまの作曲家はもうそこから脱却しているが。
2曲目はシュトラウスの「アルプス交響曲」。なるほど、矢代秋雄の交響曲で聴き手を緊張の極みにさそい、「アルプス交響曲」で一気に解放する作戦かと思った。たぶんそうだったのだろうが、それにしてはアンサンブルが緩かった。聴き手だけではなく、オーケストラも解放してしまったのではないかと思った。手綱を緩めずに、締めるべきところは締め、それでいて解放感のあるサウンドを作るのは、意外に難しいのかもしれない。
驚いたことには、バンダが2階客席の後方のロビーから聴こえた。その位置から聴こえるバンダは初めてだ。たぶん小ホールの演奏会がなかったからできたことだろう。派手な演出だが、効果的だった。
それにしてもこの曲は、前半(登り始めてから頂上に着くまで)はいろいろな出来事があるが、後半(下山を始めてから日が暮れるまで)は、出来事といえば嵐に遭うくらいで、嵐が去った後は荘厳な夕映えがずっと続く。その作りは「英雄の生涯」に似ている。シュトラウスの手の内に入った作劇術だろう。
周知のように、山田和樹は1月の読響で3種類のプログラムを振った。一つ目はチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」をメインに据えたもの。二つ目はマーラーの交響曲第6番をメインに据えたもの。そして三つめが今回の「アルプス交響曲」だ。どれも重量級のプログラムだ。一つ目と二つ目はおおむね好評をもって迎えられたようだ。はたして今回の「アルプス交響曲」はどうなのか。わたしは正直言って、もっとギリギリまでサウンドを磨き上げてほしかったが。
(2023.1.19.サントリーホール)
快い緊張であればよいのだが、今回は表情がこわばった感覚があった。そのためなのかどうなのか、色彩に乏しい印象があった。
久しぶりに聴くこの曲は、第1楽章は「春の祭典」の「生贄の踊り」を、第3楽章はメシアンのなにかの曲を想起させる。日本の先人たちの作品の中にはそのような例も散見されるが(つまり西洋音楽の既存の曲をモデルにしたと思われる例だ)、矢代秋雄にしてもそうなのかと思った。もちろんいまの作曲家はもうそこから脱却しているが。
2曲目はシュトラウスの「アルプス交響曲」。なるほど、矢代秋雄の交響曲で聴き手を緊張の極みにさそい、「アルプス交響曲」で一気に解放する作戦かと思った。たぶんそうだったのだろうが、それにしてはアンサンブルが緩かった。聴き手だけではなく、オーケストラも解放してしまったのではないかと思った。手綱を緩めずに、締めるべきところは締め、それでいて解放感のあるサウンドを作るのは、意外に難しいのかもしれない。
驚いたことには、バンダが2階客席の後方のロビーから聴こえた。その位置から聴こえるバンダは初めてだ。たぶん小ホールの演奏会がなかったからできたことだろう。派手な演出だが、効果的だった。
それにしてもこの曲は、前半(登り始めてから頂上に着くまで)はいろいろな出来事があるが、後半(下山を始めてから日が暮れるまで)は、出来事といえば嵐に遭うくらいで、嵐が去った後は荘厳な夕映えがずっと続く。その作りは「英雄の生涯」に似ている。シュトラウスの手の内に入った作劇術だろう。
周知のように、山田和樹は1月の読響で3種類のプログラムを振った。一つ目はチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」をメインに据えたもの。二つ目はマーラーの交響曲第6番をメインに据えたもの。そして三つめが今回の「アルプス交響曲」だ。どれも重量級のプログラムだ。一つ目と二つ目はおおむね好評をもって迎えられたようだ。はたして今回の「アルプス交響曲」はどうなのか。わたしは正直言って、もっとギリギリまでサウンドを磨き上げてほしかったが。
(2023.1.19.サントリーホール)