Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

戦後を生きて(1):原風景

2025年02月19日 | 身辺雑記
 2月にしては暖かい日曜日。大田区立龍子記念館を訪れた。日本画家の川端龍子の作品と高橋龍太郎の現代美術コレクションのコラボ企画をみるためだ。みた後で記念館の向かいに建つ川端龍子の旧宅(写真↑)を見学した。白梅がきれいに咲いていた。帰路、近くの公園で一休みした。お昼時だった。ベンチに座って、往きに買ったどら焼きを食べた。

 小さな公園だった。少し離れたベンチに労働者風の二人の男性が腰かけて、缶ビールか缶酎ハイを飲んでいた。とくに話もせずに、のんびり過ごしていた。小さな音でトランジスタラジオをかけていた。わたしは二人を見るともなく見て、「おれにもこんな人生があったかもしれないな」と思った。

 わたしは1951年(昭和26年)に東京の羽田で生まれた。父は町工場の旋盤工だった。わたしの家から町工場のある馬込まで、毎日自転車で通った。約30分はかかっただろう。晴れの日はともかく、雨の日はたいへんだったと思う。馬込の町工場の手前に坂がある。じつは龍子記念館はその坂の下にある。父が出勤のときは上り坂だ。あの坂を自転車で上るのはたいへんだっただろうと思う。

 父はわたしが高校に入るころに町工場をやめた。ボール盤を買って自宅で仕事を始めた。そのうち借金をして旋盤を買った。だれも雇わずに一人で仕事をした。仕事は細々と続いた。父はわたしに仕事を継がせようとは思わなかった。わたしもそんなことは考えたことがなかった。わたしはやがて大学に行き、そして就職した。

 わたしはベンチに座って缶ビールか缶酎ハイを飲む二人の男性を見て、わたしも人生のどこかで違った選択をしていれば、あのような人生になったかもしれないと思った。それも幸せだったかもしれない。そのほうがお似合いだったかもしれない、とも思った。でも結局、それはわたしの人生ではなかった。

 前記のように、わたしは1951年(昭和26年)の生まれだ。原風景が3~4歳のころに見た風景だとすれば、1950年代のなかば(昭和30年前後)の風景がわたしの原風景だ。それは町工場がひしめく京浜工業地帯の一角の風景だ。溝には町工場の廃液が浮いていた。工員たちは溝で立小便をした。だがわたしは汚いと思ったことがなかった。そこがわたしの生まれ育った場所だ。

 今年は戦後80年だ。わたしの人生は戦後のかなりの部分と重なる。戦後とはどんな時代だったのか。それをわたしの人生から振り返ってみたい。大上段に構えずに(そんなことは柄ではない)、個人史として、不定期に、思いつくままに。話がアットランダムに飛ぶだろう。申し訳ない。
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