Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡

2018年01月08日 | 身辺雑記
 今年の正月は家ですごしたが、その後、瀬戸内の旅に出かけた。まずは呉へ。呉に行ったのは、亡父が戦争中に海軍工廠で働いていたから。それがどこか、確かめたかった。実はもう何十年も前に、広島に行った際に、呉に寄ってみたが、なんの準備もしていなかったので、右も左も分からなかった。亡父が生前、音戸の瀬戸の話をしていたので、それだけ見て帰った。

 海軍工廠があった場所は、今はジャパンマリンユナイテッドの造船所になっている。写真(※)がその場所。写真にはドックに入っている船が写っているが、それは自衛艦「かが」だそうだ(タクシー運転手の話)。その左に倉庫のような建物が見える。実はそのさらに左に(写真には写っていないが)、もっと大きな建物がある。そこが戦艦「大和」を建造したドックだ。

 亡父はそこで働いていた。「大和」を造っているとき、「今度の船はでかいな」と驚いたそうだ。末端の職工だったろうが、「大和」を造ったという話は、幼いわたしに何度も聞かせた話だ。

 亡父は晩年の一時期、俳句を作っていた。100句ほどをノートに清書して、わたしにくれた。生涯の想い出を、思いつくままに、俳句にした、という趣なので、自分史といえるほどのものではないが、わたしには亡父の生涯をうかがう手掛かりだ。

 各句には簡単なコメントが付いている。その中の一つに「峠を越えて呉市に映画を見に行くとき(以下略)」というくだりがある。わたしは「峠?」と疑問に思っていた。どこに住んでいたのか?と。

 今回、その疑問が解けた。海岸沿いの道を走っていたタクシーの運転手が、「戦争中はこのあたりは海軍工廠だったんで、一般人は入れなかったんです」と教えてくれた。そうだとすると、亡父が住んでいたのは、その向こうの山側のあたりだったはずで、そこから海軍工廠を迂回して、市内に出る道を「峠」といっていた可能性がある。

 翌日、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で昭和10年代の古地図を見ると、海軍工廠一帯は「海軍用地」として白紙になっていた。軍事機密だったことの生々しい証言。

 わたしは亡父を、生前、「呉に行ってみようか」と誘わなかったことを悔やんだ。自責の念にかられているうちに、亡父の生年が大正6年だったことを思い出した。大正6年=1917年。生きていれば今100歳。平成10年に80歳で亡くなった。今年は没後20年。わたしは亡父に誘われたのか?と思った。

(※)画像のアップロードをやり直しました。すみませんでした。

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30 コメント

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自分の父も呉に居ました (フランツ)
2018-03-16 15:42:39
Eno様
突然の書き込み失礼いたします。
ブログ拝見して、おそらく、お父様は、造船部と云う部署におられたと推察します。自分の父は、造機部と云うエンジン部門でした。平成24年から父の呉海軍の足跡を調査して、一冊の本に纏めております。題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」(自費出版・非売品)と云います。
東京都内は、都立、13箇所の区立図書館、町田市、日野市、あきる野市・・全国では、140箇所の図書館に登録されております。
この本は、カラー版、200ページの読みやすい本です。呉海軍工廠に集まった方々の記録です。
是非御覧ください。
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フランツ様 (Eno)
2018-03-16 17:07:11
御著書のご案内、ありがとうございます。ぜひ読ませていただきたいと思います。近隣の図書館を調べてみたところ、大田区立図書館に所蔵されていましたので、今度借りてきます。まずはお礼まで。
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呉海軍工廠所縁の方々に読んで欲しい本です (フランツ)
2018-03-16 17:47:12
Eno様
早速ありがとうございました。大田区界隈では、大田区、世田谷区、渋谷区に登録されております。最近、「この世界の片隅に」の大ヒットで、当時の呉海軍工廠への関心が高まっております。また、お父様は、宿舎が音戸の堤(つつみ)寮だったかもしれません。
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フランツ様 (Eno)
2018-04-01 15:24:26
先日はご著書のご紹介、ありがとうございました。先週、大田区立図書館から借りてきました。立派な装丁の本なので、びっくりしました。ご尊父様の足跡をたどって大変な努力を傾けられていることに感服しました。私の亡父については、手元になんの手掛かりもありませんので、ご著書に結びつく点は、今のところ発見できていませんが、たとえば「呉海軍工廠の回想画」の「18.寮内の生活」など、亡父もこのような生活をしていたのかと、しみじみ拝見しました。原爆投下時にはまだ海軍工廠にいて、工員仲間で「広島に見に行ってみようか」と話していたそうです。仲間の中には、新型爆弾が「原爆」だと知っている人がいたとも言っていました。亡父はヴァイオリンをやっていて、ラジオに出たことがあると言っていました。アマチュア音楽会みたいな番組があったのかもしれません。ともかく、ありがとうございました。まずはお礼まで。
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ありがとうございます (フランツ)
2018-04-02 10:59:11
Eno様
早速お読み頂きまして、誠にありがとうございました。お父様の部署さえ分かれば、さらに詳細も分かると思うのですが・・。
おそらく、戦後、旋盤技術を生かされておられることを考えると、造船部のぎ装工場、父の造機部、水雷部の所属だったと思われます。
バィオリンの特技をお持ちだったら、海軍工廠では評判だったのではないでしょうか?
当時の学徒動員の回想に、水之江滝子(ターキー)さんの慰問団が来た話が出て来ます。
とにかく、調査開始の時点(平成24年8月)で、68年の歳月の流れでしたが、何とか判った次第です。幸い本は、カーリングの北見市から鹿児島まで登録されましたので、呉海軍所縁のお身内の方々に読んで頂きたいです。
父の造機部の関係者に行き着けたら❔嬉しい限りです。
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フランツ様 (Eno)
2018-04-02 21:29:08
ご教示、ありがとうございます。たしかに、私の亡父の所属部署は、造船部のぎ装工場だったかもしれないと、その可能性はあるなと思いました。生前に、「今度の船はでっかいな」と思ったと言っていましたので(一号艦=戦艦大和のことです)、ぎ装で携わったのかもしれません。
私の亡父は大正6年5月13日生まれで、名前は榎本栄蔵といいます。出生地は東京の羽田です。小学校を出た後、歯医者の書生をやりながら、麻布中学に通ったけれど、続かなかったと言っていました。
その後、どういう経緯で呉の海軍工廠に行ったのかは、残念ながら聞き漏らしました。
敗戦後、東京に戻って見合いをして、昭和26年に私が生まれました。
万が一、ご尊父様の足跡をたどる中で、それらしい人物が引っかかってきたら、大変恐縮ですが、一言教えていただけると幸甚です。
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一瞬驚きました👀‼ (フランツ)
2018-04-02 22:57:07
Eno様
お父様の名前を拝見してびっくりしました。
確か、昭和の時代の青梅市長のお名前も❔榎本栄蔵さんだったはずです。
青梅市がドイツのボッパルト市と姉妹都市を締結した時の市長さんの名前です。ボッパルトは、ゲーテの学校があるので知ってました。

さて、呉海軍工廠の一部の工員の方々の名前をざっと見てみました。榎本姓の方は、お一人おられましたが、電気部と云う部署の仕上げ工場です。この方は、凡そ100歳と思われますが、残念ながら栄蔵さんではありません。
おそらく、お父様は、外部から呉海軍工廠に来られた徴用工と呼ばれたグループの方ではないでしょうか?事務職から自動車の運転まで多岐にわたります。
徴用工員の方だと・・例えば、2年前にこんなことがありました。ある工員さんが陸軍から召集され、武運長久の寄せ書きを、呉の上官はじめ電気部の仲間から貰ってました。その息子さんとネットで小生の本を見て貰い、ある集合写真の名前と寄せ書きのサインが一致❗お父様の所属が判ったのでした。
榎本栄蔵さんは、終戦まで工員としておられたので、そうした寄せ書きからの奇蹟はないですが、何か手がかりは❔短歌の中に、部署の手がかりはないですか❔
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フランツ様 (Eno)
2018-04-03 16:50:31
いろいろと、ありがとうございます。私の亡父が徴用工員だったことは、十分あり得ると思います。そうだとすると、東京にいたはずの亡父が、横須賀ではなく、なぜ呉の海軍工廠に徴用されたんだろうと、これまた新たな疑問が湧きます。亡父の生前に何も聞かなかった親不孝ぶりに、忸怩たる思いです。

亡父が最晩年に残した100句ほどの俳句を、もう一度読み直してみました。呉時代の想い出と思われる句が、5句ありました。お読みいただくほどの句ではありませんが、一応書き写させていただきます。各句には注釈が付いていますので、それも書き写します。
「月夜道来た道行く道帰る道」(峠を越えて呉市へ映画を見に行くときなど、ふと考えたものである)
「むぎふみのコツ教わりし夜なべかな」(広島も瀬戸内海に沿った地方は寒い地方とは違うのである)
「松かさの白きほのほや湯のたぎり」(松かさ一升で米一升が炊けるといわれている)
「風呂をたく扱葉(こくば)松の葉ばかりなり」(扱葉(こくば)は松の落葉、中國、四國地方の方言、特に松かさは油があるのでよい燃料)
「扱葉(こくば)さで松の林は草もなし」(さで、本来は叉手網(さであみ)、転じて落葉を集めること、おちばがき)

結構、呉での生活を楽しんでいたのかもしれません。お笑いください。
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時系列で見ると? (フランツ)
2018-04-03 19:47:57
Eno様
お父様の「今度の艦はでかいぞ・・」の言葉
・・。つまり、大和の建造前に呉工廠に赴任していたことになります。
戦艦大和は、昭和12年(1937年)11月4日から建造開始❗つまり、お父様は、21歳❗
東京エリアは、確かに、横須賀鎮守府管轄ですが、大和は、巨大プロジェクトですから、全国規模で徴用工員を集めた可能性があります。原則、呉鎮守府は愛知県辺りまでの管轄でした。
おそらく、18歳の頃には呉におられたかも?
厚生省に照会したら、呉海軍工廠時代の履歴が分かるかもしれません。小生の本のP53の記述を参考にして下さい。
ここに登録があれば、お父様の工廠の部署が記録されているはずです。
松ノ木の俳句・・当時の造船部のぎ装工場、造機部のエリアには松林は確かにあったようです。
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フランツ様 (Eno)
2018-04-04 18:15:05
ご助言、ありがとうございます。本日さっそく厚生労働省に電話をしてみました。亡父の軍歴証明の発行を依頼したところ、申請書類を送ってくれるとのことです。やれるところまでやってみようと思います。
もう一つ思い出したのですが、亡父は生前、時々、岡山県の「総社」という地名を言っていました。それがなんだったのか、行ったことがあるというのか、どうなのか、まったく覚えていないのですが、もしかしたら、なにかのツテで、そこで働いていたことがあるのなら、そこから呉の海軍工廠に徴用されたことはあり得ると思いました。
今にして思えば、亡父に「私の履歴書」のようなものを書いておいてもらえばよかったと悔いています。
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