今年の正月は家ですごしたが、その後、瀬戸内の旅に出かけた。まずは呉へ。呉に行ったのは、亡父が戦争中に海軍工廠で働いていたから。それがどこか、確かめたかった。実はもう何十年も前に、広島に行った際に、呉に寄ってみたが、なんの準備もしていなかったので、右も左も分からなかった。亡父が生前、音戸の瀬戸の話をしていたので、それだけ見て帰った。
海軍工廠があった場所は、今はジャパンマリンユナイテッドの造船所になっている。写真(※)がその場所。写真にはドックに入っている船が写っているが、それは自衛艦「かが」だそうだ(タクシー運転手の話)。その左に倉庫のような建物が見える。実はそのさらに左に(写真には写っていないが)、もっと大きな建物がある。そこが戦艦「大和」を建造したドックだ。
亡父はそこで働いていた。「大和」を造っているとき、「今度の船はでかいな」と驚いたそうだ。末端の職工だったろうが、「大和」を造ったという話は、幼いわたしに何度も聞かせた話だ。
亡父は晩年の一時期、俳句を作っていた。100句ほどをノートに清書して、わたしにくれた。生涯の想い出を、思いつくままに、俳句にした、という趣なので、自分史といえるほどのものではないが、わたしには亡父の生涯をうかがう手掛かりだ。
各句には簡単なコメントが付いている。その中の一つに「峠を越えて呉市に映画を見に行くとき(以下略)」というくだりがある。わたしは「峠?」と疑問に思っていた。どこに住んでいたのか?と。
今回、その疑問が解けた。海岸沿いの道を走っていたタクシーの運転手が、「戦争中はこのあたりは海軍工廠だったんで、一般人は入れなかったんです」と教えてくれた。そうだとすると、亡父が住んでいたのは、その向こうの山側のあたりだったはずで、そこから海軍工廠を迂回して、市内に出る道を「峠」といっていた可能性がある。
翌日、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で昭和10年代の古地図を見ると、海軍工廠一帯は「海軍用地」として白紙になっていた。軍事機密だったことの生々しい証言。
わたしは亡父を、生前、「呉に行ってみようか」と誘わなかったことを悔やんだ。自責の念にかられているうちに、亡父の生年が大正6年だったことを思い出した。大正6年=1917年。生きていれば今100歳。平成10年に80歳で亡くなった。今年は没後20年。わたしは亡父に誘われたのか?と思った。
(※)画像のアップロードをやり直しました。すみませんでした。
海軍工廠があった場所は、今はジャパンマリンユナイテッドの造船所になっている。写真(※)がその場所。写真にはドックに入っている船が写っているが、それは自衛艦「かが」だそうだ(タクシー運転手の話)。その左に倉庫のような建物が見える。実はそのさらに左に(写真には写っていないが)、もっと大きな建物がある。そこが戦艦「大和」を建造したドックだ。
亡父はそこで働いていた。「大和」を造っているとき、「今度の船はでかいな」と驚いたそうだ。末端の職工だったろうが、「大和」を造ったという話は、幼いわたしに何度も聞かせた話だ。
亡父は晩年の一時期、俳句を作っていた。100句ほどをノートに清書して、わたしにくれた。生涯の想い出を、思いつくままに、俳句にした、という趣なので、自分史といえるほどのものではないが、わたしには亡父の生涯をうかがう手掛かりだ。
各句には簡単なコメントが付いている。その中の一つに「峠を越えて呉市に映画を見に行くとき(以下略)」というくだりがある。わたしは「峠?」と疑問に思っていた。どこに住んでいたのか?と。
今回、その疑問が解けた。海岸沿いの道を走っていたタクシーの運転手が、「戦争中はこのあたりは海軍工廠だったんで、一般人は入れなかったんです」と教えてくれた。そうだとすると、亡父が住んでいたのは、その向こうの山側のあたりだったはずで、そこから海軍工廠を迂回して、市内に出る道を「峠」といっていた可能性がある。
翌日、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で昭和10年代の古地図を見ると、海軍工廠一帯は「海軍用地」として白紙になっていた。軍事機密だったことの生々しい証言。
わたしは亡父を、生前、「呉に行ってみようか」と誘わなかったことを悔やんだ。自責の念にかられているうちに、亡父の生年が大正6年だったことを思い出した。大正6年=1917年。生きていれば今100歳。平成10年に80歳で亡くなった。今年は没後20年。わたしは亡父に誘われたのか?と思った。
(※)画像のアップロードをやり直しました。すみませんでした。
本日、大田区の図書館から「ポツダム少尉」第4版を借りてきました。140頁の地図で場所を確認しました。昨年1月に呉を訪れたときに「アレイからすこじま」にも行きましたが、その近くにあったんですね。できればもう一度行ってみたいと思います。亡父の働いていた場所が今までつかめなかったのですが、これでかなりはっきりしました。お礼の申し上げようもありません。
昨年来のご指導の顛末について、ブログにまとめたいと思います。近々アップしますので、ご笑覧いただけると幸いです。
あと一つ・・お父様の働いていた場所の位置ですが、「ポツダム少尉」第4版のP140の紫色のエリアが製鋼部ですが、
丁度、砲貢部「弾丸工場」との境界に、縦に、「器械造修工場」「甲甲鉄板機械工場」とあります。拡大ルーペで、何とか見れますが、この辺りで働いていたはずです。昭和20年6月22日(金)の大空襲では大変な被害があったと思われます。丁度、近くの電気部の飛び地のエリアの防空豪では、悲劇が起こりました。
ありがとうございます。総社ということも気になっておりました。東京の羽田で生まれ育った亡父が、なぜ総社に?と思っていましたが、あるいはそういうこととも関係があるかもしれませんね。生前の亡父になぜもっと突っ込んで聞いておかなかったのか‥と、今になると悔やまれます。
お父様が、岡山県の総社と言ってたのは、ここが、希少金属のタングステンがあったことと疎開工場の建設の話もあったからかもしれません。
津和野高女の方に電話までしていただき、本当にありがとうございます。お礼の申し上げようもありません。このたびの電話はもとより、そもそものご指導、ご教示そして励ましの数々、いくらお礼の言葉を重ねても重ねきれるものではありません。お蔭さまで、亡父の生きた証しが、思いもかけず、過去の厚い堆積の中から浮き上がってまいりました。私の人生の中で大変重要な一部分になりました。
ご著書の「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶」は大田区立図書館に予約を入れましたので、近々届くと思います。再読させていただくのを楽しみにしております。
「この世界の片隅に」のワンシーン・・港湾の船をスケッチしようとしたすずさんが、偶々、憲兵に見つかってしまうシーン❗そうした管理下ですから、当時の詳細な現地の写真は、大空襲もあり破壊、紛失・・全貌は、各自の記憶のままですが、貴重な記録です。
造修工場の回想は、この御方の資料のみです。確かに、当時は、男女の間は厳しかったようですが、指導官と動員の女学生は、色々話をしていたようです。
津和野高等女学校の方は、3年前お話ししましたが、今日、Eno様のお父様の話が聞けないか❓と思って電話したのですが、電話が現在使われておりません・・でした。本当に残念です。
とにかく、意外にも具体的な事実も分かり、本当に嬉しい限りです。
こちらも持っている情報が、点から線になりました。ありがとうございました。
「つわぶき第48号」のご紹介、ありがとうございます。さっそくネットで検索して、読んでみました。「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」をお書きになった上田冨枝様の配属先「製鋼部造修二機」に亡父がいた可能性はたしかに高いと思いました。その職場で旋盤を使う亡父の姿が見えるような気がします。
また、玉音放送を聞くために、製鋼部本部で、先頭に軍人、その後ろに工員、そして末尾に学徒が並んだというその工員の中に亡父がいたことはまちがいないと思います。そのリアルさに、驚くというよりも、恐ろしくなりました。
さらに、上田様が広島への原爆投下の際にキノコ雲を見たとお書きになっていることも、亡父が生前語っていたことと一致します。亡父は原爆を知らなかったそうですが、工員仲間に「あれは原爆だ」と言った方がいたと言っていました。「広島に見に行くか」と話したそうですが、結局行かなかったと言っていました。
上田様はまだご存命かもしれませんね。もちろん女子の学徒と工員とがお互いの名を知ったり、話をしたりすることなど、仕事の指導を除いて、ありえなかったと思いますが。
なるほど・・色々なことが明らかになりますね。
おそらく、お父様の職場は、「製鋼部造修二機」と云う旋盤作業のエリアと思われます。
鉄を溶かして砲身などを製造していたようです。
実は、森鴎外先生の生誕の地 島根県津和野にあった津和野高等女学校のある女学生の回想録が、「つわぶき 第48号」に掲載されています。動員先は、お父様の製鋼部です。
この動員先は、お父様の配属先のはずです。
サイト検索で、「つわぶき 第48号」と入力されれば、この動員の記録を読むことが出来ますので、是非ともお読み下さい。
おそらく、同じ職場と思われます。
昨年、ご著書の「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶」を読ませていただいたとき、たしかに回想画が載っていたことを覚えております。そのときも、興味深く拝見したのですが、もう一度大田区立図書館から借りて、「製鋼部」という視点で見てみたいと思います。幸いにも、大田区立図書館に収蔵されているご著書は第3版と第4版ですので、幸運でした。
亡父の呉海軍工廠での履歴がわかりましたが、採用が昭和16年2月23日ということですので、亡父が生前「大和を見たことがある。今度の艦は大きいなと話した」と語っていたのは、建造中の大和を見たということではなくて、進水後の艤装中の大和を見たということだったかもしれませんね。
話はずれますが、広島高等師範の学生がシューベルトの「菩提樹」をドイツ語で歌っていたという証言との関連で、想い出すことがあります。
私の義母が生前よく「菩提樹」をドイツ語で歌っていました。どこで覚えたかというと、(義母は大正3年生まれで、亡父よりも3歳年上、京都で生まれ育ちましたが)女学校で教わったと言っていました。当時の学校では「菩提樹」をドイツ語で教えたのかもしれませんね。
当時の製鋼部には、休憩の合間に、広島高等師範の学生が、製鋼部近くの潜水艦桟橋で、シューベルトの菩提樹をドイツ語で歌っていた証言もあります。
待望の記録が届いて良かったです。
なるほど・・製鋼部だったのですね。
製鋼部は、昭和20年6月22日(金)の大空襲で大変な被害が出た場所です。アニメ映画「この世界の片隅に」で、すずさんが不発弾の爆発で、右手に重症を負ったあの空襲です。
実は、大田区、世田谷区、渋谷区に登録されている小生の拙本「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟」第3、第4版には、当時の製鋼部におられた学徒動員の学徒のお一人が、書かれた回想画を掲載しております。
当時のお父様の職場がイメージ出来ますので、是非ともご覧下さい。
しかし、昭和16年からの呉海軍工廠の勤務は、劇的な体験だったことでしょうね。
こちらこそありがとうございました。
本日(2月28日)厚生労働省から亡父の「旧海軍の履歴」についての回答が参りました。亡父の履歴は次のとおりでした。
昭和16年2月23日 国民徴用令ニ依リ徴用
同日 呉海軍工廠製鋼部普通工員ニ採用
昭和20年9月15日 徴用解除(解傭)
また、同封されていた「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」によれば、「所属」は「部」が「鋼」、「工場」が「修」、「職」が「機」となっていました。
亡父の名が載っているその名簿を見たとき、亡父が生きていた記録がこの国に残っていたのだなと、感慨深いものがありました。
ここまでたどり着けたのはフランツ様のお陰です。
度重なるご教示と励まし、ありがとうございました。
深く感謝申し上げます。
また、旧海軍の名簿を継承・保管してくれている厚生労働省にも感謝したい気持ちです。
亡父の名が載っている名簿を前にして、その重みを感じております。
いろいろとご指導と励ましをいただき、ありがとうございます。その後、亡父の除籍謄本等の必要書類がそろいましたので、本日厚生労働省に軍歴紹介を提出いたしました。どの程度のことがわかるか、心許なくもありますが、結果を待ちたいと思います。結果はまた報告させていただきます。
ご無沙汰しておりました。なるほど・・理解しました。😺
お父様も呉海軍工廠造機部に籍を置いているのではないか❔❗
こうしたやり取りの出来る方々か少なくなっていますので、第三者の立場でも興味津々です。
朗報をお待ちしております。
おはようございます。その後の進展状況をご報告もせずに申し訳ありません。実は頓挫しております。そのことがいつも気になっていました。厚生労働省に電話をして、軍歴紹介に必要な書類を確認したまではよいのですが、必要書類の亡父の除籍謄本と私の戸籍謄本を取り寄せることを怠っております。そんなものはさっさと取り寄せて厚生労働省に送ればよいのですが、そこが生来のぐずで、早くしなければならないと思いながら、実行せずにおります。あれだけフランツ様にご教示とご指導をいただきながら、申し訳なく、穴があったら入りたい思いです。これを契機にやってみたいと思います。厚生労働省から回答が来ましたら、あらためてご報告させていただきます。
ご無沙汰しておりますが、お元気でお過ごしのご様子何よりです。
しかし、昨年は、7月の大水害で、呉市も甚大な被害を被り、なぜ❔と云う想いです。
そんな中で、enoさんのお父様の軍歴照会を思い出した次第です。
当時の足跡で何か分かったことはありましたか❔
貴重な情報を得られることを祈っております。
軍歴照会は、年々増えているとのことです。
自分が照会した5年前は、概算1ヶ月と言われましたが、意外と早く届いた記憶があります。
先方様も予備の期間を見込んでいると思うので、2ヶ月程度で届くのでは・・と思います。
さて、昨日、当時の造船部の第2ぎ装工場で働いていた方88歳と久しぶりに話が出来ました。ぎ装工場は、4つの工場がありました。ターレット旋盤を操作して、部品加工に従事・・。12時間の2交代勤務でした。お父様の御名前をお聞きしましたが、とにかく、固有名刺で、記憶に残っているのは、「松前」と云う名前の熟練工・・渾名は、「棒芯(ぼうしん)」
お父様の俳句 「麦ふみのコツ教わりし夜なべかな」は、おそらく、、夜勤の合間の休憩時間などの情景を俳句にしたのかもしれません。
厚生省への申請のイメージが具体化して良かったですね。
おそらく、お父様は、最初は、例えば、海軍工作科予備補習生などで、呉海兵団に入隊して、それから、専任の工廠工員になったのではと思っています・・。総社と云うのは、岡山県の総社市です。当時の総社界隈からもかなりの方々が、呉海軍工廠へ働きに行っています。そんな事情で、小生の本も、岡山県内は、総社市をはじめ14都市に登録して頂きました。おそらく、お父様が、総社・・とおっしゃったのは、同僚の何方かが、総社出身で馴染みがあったのではないでしょうか?あるいは、当時の総社には、レアメタルのタングステンの鉱山もあったようです。
しかし、総社は、橋本龍太郎さん、大二郎さんのお祖父さんの生まれ故郷です。また、倉敷が近いので、当時の水島の三菱発動機工場の疎開工場もあったかもしれません。最近亡くなられた星野仙一さんのお父様もこの工場におられたようです。
いずれにしても、厚生省で何かが判明することを祈っています。意外にも、詳細に分かるかもしれませんね。
朗報を待っております。(^ω^)
もう一つ思い出したのですが、亡父は生前、時々、岡山県の「総社」という地名を言っていました。それがなんだったのか、行ったことがあるというのか、どうなのか、まったく覚えていないのですが、もしかしたら、なにかのツテで、そこで働いていたことがあるのなら、そこから呉の海軍工廠に徴用されたことはあり得ると思いました。
今にして思えば、亡父に「私の履歴書」のようなものを書いておいてもらえばよかったと悔いています。
お父様の「今度の艦はでかいぞ・・」の言葉
・・。つまり、大和の建造前に呉工廠に赴任していたことになります。
戦艦大和は、昭和12年(1937年)11月4日から建造開始❗つまり、お父様は、21歳❗
東京エリアは、確かに、横須賀鎮守府管轄ですが、大和は、巨大プロジェクトですから、全国規模で徴用工員を集めた可能性があります。原則、呉鎮守府は愛知県辺りまでの管轄でした。
おそらく、18歳の頃には呉におられたかも?
厚生省に照会したら、呉海軍工廠時代の履歴が分かるかもしれません。小生の本のP53の記述を参考にして下さい。
ここに登録があれば、お父様の工廠の部署が記録されているはずです。
松ノ木の俳句・・当時の造船部のぎ装工場、造機部のエリアには松林は確かにあったようです。
亡父が最晩年に残した100句ほどの俳句を、もう一度読み直してみました。呉時代の想い出と思われる句が、5句ありました。お読みいただくほどの句ではありませんが、一応書き写させていただきます。各句には注釈が付いていますので、それも書き写します。
「月夜道来た道行く道帰る道」(峠を越えて呉市へ映画を見に行くときなど、ふと考えたものである)
「むぎふみのコツ教わりし夜なべかな」(広島も瀬戸内海に沿った地方は寒い地方とは違うのである)
「松かさの白きほのほや湯のたぎり」(松かさ一升で米一升が炊けるといわれている)
「風呂をたく扱葉(こくば)松の葉ばかりなり」(扱葉(こくば)は松の落葉、中國、四國地方の方言、特に松かさは油があるのでよい燃料)
「扱葉(こくば)さで松の林は草もなし」(さで、本来は叉手網(さであみ)、転じて落葉を集めること、おちばがき)
結構、呉での生活を楽しんでいたのかもしれません。お笑いください。
お父様の名前を拝見してびっくりしました。
確か、昭和の時代の青梅市長のお名前も❔榎本栄蔵さんだったはずです。
青梅市がドイツのボッパルト市と姉妹都市を締結した時の市長さんの名前です。ボッパルトは、ゲーテの学校があるので知ってました。
さて、呉海軍工廠の一部の工員の方々の名前をざっと見てみました。榎本姓の方は、お一人おられましたが、電気部と云う部署の仕上げ工場です。この方は、凡そ100歳と思われますが、残念ながら栄蔵さんではありません。
おそらく、お父様は、外部から呉海軍工廠に来られた徴用工と呼ばれたグループの方ではないでしょうか?事務職から自動車の運転まで多岐にわたります。
徴用工員の方だと・・例えば、2年前にこんなことがありました。ある工員さんが陸軍から召集され、武運長久の寄せ書きを、呉の上官はじめ電気部の仲間から貰ってました。その息子さんとネットで小生の本を見て貰い、ある集合写真の名前と寄せ書きのサインが一致❗お父様の所属が判ったのでした。
榎本栄蔵さんは、終戦まで工員としておられたので、そうした寄せ書きからの奇蹟はないですが、何か手がかりは❔短歌の中に、部署の手がかりはないですか❔
私の亡父は大正6年5月13日生まれで、名前は榎本栄蔵といいます。出生地は東京の羽田です。小学校を出た後、歯医者の書生をやりながら、麻布中学に通ったけれど、続かなかったと言っていました。
その後、どういう経緯で呉の海軍工廠に行ったのかは、残念ながら聞き漏らしました。
敗戦後、東京に戻って見合いをして、昭和26年に私が生まれました。
万が一、ご尊父様の足跡をたどる中で、それらしい人物が引っかかってきたら、大変恐縮ですが、一言教えていただけると幸甚です。
早速お読み頂きまして、誠にありがとうございました。お父様の部署さえ分かれば、さらに詳細も分かると思うのですが・・。
おそらく、戦後、旋盤技術を生かされておられることを考えると、造船部のぎ装工場、父の造機部、水雷部の所属だったと思われます。
バィオリンの特技をお持ちだったら、海軍工廠では評判だったのではないでしょうか?
当時の学徒動員の回想に、水之江滝子(ターキー)さんの慰問団が来た話が出て来ます。
とにかく、調査開始の時点(平成24年8月)で、68年の歳月の流れでしたが、何とか判った次第です。幸い本は、カーリングの北見市から鹿児島まで登録されましたので、呉海軍所縁のお身内の方々に読んで頂きたいです。
父の造機部の関係者に行き着けたら❔嬉しい限りです。
早速ありがとうございました。大田区界隈では、大田区、世田谷区、渋谷区に登録されております。最近、「この世界の片隅に」の大ヒットで、当時の呉海軍工廠への関心が高まっております。また、お父様は、宿舎が音戸の堤(つつみ)寮だったかもしれません。
突然の書き込み失礼いたします。
ブログ拝見して、おそらく、お父様は、造船部と云う部署におられたと推察します。自分の父は、造機部と云うエンジン部門でした。平成24年から父の呉海軍の足跡を調査して、一冊の本に纏めております。題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」(自費出版・非売品)と云います。
東京都内は、都立、13箇所の区立図書館、町田市、日野市、あきる野市・・全国では、140箇所の図書館に登録されております。
この本は、カラー版、200ページの読みやすい本です。呉海軍工廠に集まった方々の記録です。
是非御覧ください。