Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

(続)多和田葉子「献灯使」

2021年05月08日 | 読書
 多和田葉子の「献灯使」を読み、その感想を書いたばかりだが、言い足りないことがあるので、補足しておきたい。前回書いたのは「献灯使」のテーマについてだったが、今回書きたいのは技術的な面について。

 書きたい点は二つあるのだが、一点目はイメージの飛翔の奔放さ。本作は全編、言葉遊びに満ちている。一例をあげると、物語の開始早々、こんな記述がある。主人公の義郎は、今履いている靴が気に入っている。その靴は岩手県の会社の製品だ。靴のなかに「岩手まで」と書いてある。「まで」? 前回のブログで、原発事故で汚染された日本が鎖国政策をとっていることを書いたが、それに伴い外国語も禁じられている。そこで「英語を習わなくなった世代が「made in Japan」の「made」を自分なりに解釈した結果できた表現だった」と。思わず笑ってしまう。

 そんな言葉遊びが張り巡らされている。笑いは本作の本質だ。著者もそれを楽しんでいる。ときには冗長に感じられる箇所もあるが(たとえば汚染された東京23区の特産品を開発するくだりなど)、そこを通り抜けると、物語はまた進み始める。

 題名の「献灯使」は、義郎が書いている小説「遣唐使」のもじりだが、そのようなもじりは数限りなくある。しかも日本が有為な人材を唐に送った遣唐使と、近未来の日本が特殊な能力を備えた子どもをインドに送る献灯使とは、イメージが重なる。さらにいえば、義郎の曾孫の無名(むめい)の、その奇妙な名前は、未明(みめい)と音が似ている。未明は、本作に頻出する「日の出前に起きて」蠟燭に火をつける描写とイメージが重なる。また暗闇に灯をともす「献灯使」のイメージとも重なる。

 そのようなイメージの飛翔に、もっといえばその飛翔の奔放さに、本作を動かすエネルギーが潜んでいるように思われる。

 書きたい点の二点目は、視点の移動だ。本作は「義郎は〇〇した」という三人称の文体で書かれている。視点は義郎にあり、安定している。だが、物語の三分の二を過ぎたあたりで(文庫本では95頁から)突如視点は義郎の妻の鞠華(まりか)に移る。わたしは一瞬混乱した。それは103頁まで続き(かなり長い)、また元に戻る。だが、視点はその後も部分的に鞠華に移り、不安定になる。さらに112頁からは無名に移る。それは113頁で元に戻るが、114頁からは無名の一人称の文体になる。それは119頁で元に戻る。以下、視点は義郎と無名とのあいだを行ったり来たりする。ときには無名の一人称も混在する。

 わたしはそれらの視点の移動に翻弄された。だが、それは物語のカタストロフィに向かうダイナミクスを反映したものだったことに、読了後のいまは気づく。

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