Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

影のない女

2010年05月24日 | 音楽
 新国立劇場の新制作のオペラ「影のない女」は、23日(日)と29日(土)の2回分のチケットをとっておいた。このオペラは重層的な意味内容をもっているし、故意に曖昧にされている部分も多いので、1回では演出意図を把握できない可能性があると思ったから。昨日はその1回目に行った。結果的には、これは1回で十分だと思った。これはなにも語りかけてこない演出だった。

 演出だけでなく、美術、衣装、照明のすべてを担当したのはドニ・クリエフ。その人がプログラム誌で語っていることを引用すると、「さて、このオペラで私が最も重要視するのは、影の有無に関係なく、「女性」そのものです。ドラマの本質は、貧しい一市民の女が抱くフラストレーションと欲求不満です」とのこと。

 このオペラの中心人物はバラクの妻だというわけだが、それはこのオペラのとらえかたとして、単純化しすぎてはいないだろうか。
 私だって、一番身近に感じるのはバラクの妻だけれど、それは幾重にもわたって張り巡らされている線の一本にすぎず、そこだけに照明を当ててしまうと、物語の多層性が損なわれてしまうのではないか。奥深い層の一つとして存在することによって、はじめて光を放つ性質のものではないだろうか。

 結局この演出では、バラクの妻はともかくとして、皇后が描けていない脆弱さがあった。一言でいうなら、平板な舞台だった。

 もう一つ――こういっては悪いけれど――空間造形にセンスが感じられなかった。バラクの家の板壁と、カイコバートの居城を連想させる石壁が、終始あちこちを動き回るのだが、そこには造形性がまるで感じられない。朝日新聞など一部のメディアで酷評がでた4月の「愛の妙薬」では――書物や文字が動き回るが――きちんと空間が造形されていた。

 一方、声楽陣はよかった。皇帝、皇后、乳母、バラク、バラクの妻の外国勢は一級品だ。これならどの劇場にもひけをとらない。視覚的にはバラクが妻よりも年下にみえて、ちょっと珍しい現象だったが、まあたいしたことではない。
 エーリッヒ・ヴェヒター指揮の東京交響楽団も、アンサンブルとしてよくまとまっていた。もっと豊麗に鳴ってほしい場面もあったが、それはまあよい。

 最後に、これは演出家の意図か、指揮者の判断か、あるいはそれ以外の要因だったのかはわからないが、第2幕と第3幕に細かいカットが散見された。その結果、試練にあっている登場人物たちの焦燥感が弱くなってしまった。
(2010.5.23.新国立劇場)

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