Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「私の一ヶ月」

2022年11月03日 | 演劇
 わたしは演劇も好きだが、コロナ禍もあって(それ以上に、出不精になっているからだが)しばらくご無沙汰していた。そんなわたしだが、昨晩は久しぶりに新国立劇場の「私の一ヶ月」に出かけた。演劇の空間が懐かしかった。

 須貝英の作、稲葉賀恵の演出。プログラムに載ったプロフィールにはお二人の年齢は書かれていないが、経歴を見ると、中堅の働き盛りの方たちのようだ。

 本作は凝った作り方をしている。3つの時空間が同時に進行するのだ。一つは2005年11月に「泉」がある地方都市の家で日記を書いている。もう一つは2005年9月にその地方都市で「拓馬」が両親の経営するコンビニを毎日訪れ、買い物をする。三つ目は2021年9月に都内の大学の閉架書庫で「明結」(あゆ)がアルバイトをする。当初はバラバラに見えるこれらの3つの時空間が、劇の進行とともに次第につながる。

 ネタバレ厳禁なので、ストーリーの展開には触れないが、最後に明らかになる全体像は、須貝英がいう「喪失と再構築」(プログラム所収のインタビューより)で胸を打つ。喪失だけにとどまらずに、再生へ向けて一歩を踏み出す作品だ。若い明結は一ヶ月で多くのことを経験し、大きく成長する。わたしはそんな明結が眩しかった。一方、一ヶ月で人生が崩壊する人もいる。その対比が本作だ。

 問題点もなくはない。2005年9月の「拓馬」の場面と2021年9月の「明結」の場面が同時に進行するので、その間の16年の隔たりが意識化されず、拓馬が明結の兄のように見えることだ。劇の後半で、そうではないことが明らかになるのだが、ヴィジュアル的にしっくりこない。併せて、拓馬が毎日コンビニに買い物に来るときの「両親」の拓馬への言葉が、拓馬を明結の兄のように見せている点も否めない。

 もうひとつの問題点は、「ある地方都市」の方言がわたしには難しかったことだ。もちろん方言は本作には必須の要件なので、仕方ないといえば仕方ないのだが。そしてまた、これは演出上の意図があるのだろうが、発声が日常会話に近く、演劇としては小声に属する(と思える)ことだ。そのためわたしは、台詞の中の重要な言葉を聞き取れていないのではないかという危惧につきまとわれた。

 役者の中では、明結を演じた藤野涼子の初々しさが印象的だった。また両親のうちの父を演じた久保酎吉もさすがに味があった。舞台装置は、最初は3つの時空間を明瞭に分けているが、最後はその境界線が崩れてひとつになる。加えて、最初は具象的な舞台装置だが、最後は抽象的になる。いつでもなく、どこでもないシンプルな物語に収斂する。
(2022.11.2.新国立劇場小劇場)

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