EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

さよなら寝台特急日本海

2012年03月17日 | JR西日本

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 3月16日の運転をもって寝台特急日本海が引退となりました。長い間日本海縦貫線の顔として君臨してきた日本海号。お疲れ様でした。長躯大阪と青森を長らく結んでいたにも関わらず、24系客車に置き換わって以来食堂車の連結もなく、A寝台の連結は一部あったにせよ、華やかな東海道筋やJR発足後の北斗星などに比べると地味な印象は否めない列車でした。大阪に住むものにとっては新大阪発着の九州夜行とともに歯がゆさを感じる列車でもありました。青函トンネル開業時に日本海は1往復が函館まで運転されるようになりましたが、モノクラス編成は継続。豪華な編成は後に登場するトワイライトエクスプレスに譲り、日本海はあくまでも開放B寝台主体の編成。JR東日本持ちの2・3号にA寝台がつき、後に西日本持ちの1・4号にも瀬戸から転用されたA寝台シングルDXも連結されるにようにはなりましたが、長距離を走る列車にしては単調な編成であったことは否めません。B寝台主体で運転されていたのは団体利用が多かったり、寝台列車の中でも乗車率が高かったため、定員を減らせないという理由があったようですが、見ているファンとしては少々物足りない編成でした。

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 私は日本海には1度だけ乗車したことがあります。秋田→大阪間で、かつての2号のスジで乗車しました。北海道遠征帰りに利用したのですが、この時は行きにも日本海利用を考えていたものの、1号に乗り遅れて、3号に振り替えて貰おうと思ったら3号が満席だったといういわくつきの話です。3連休前の週末の便だったと記憶していますが、当時の日本海は1・4号は比較的空いているものの、2・3号は結構人気が高く、多客期には寝台が取れない列車だったようです。秋田から大阪まで乗ったものの、同じコンパートメントのおばちゃんが上段への昇り下りがきついとかなんとか言われて、下段と交代させられた記憶が残っています。下段寝台でまったり弁当を食べている時に言われたのでちょっとムカっとしたのを記憶しています。上段に移らされて結局景色を楽しむも何もなくなったので道中はあまり覚えていません。日本海乗車の思い出はこれだけなのでないに等しいと言っても過言ではありません。

 日本海と言えば、中学生の頃だったかにNゲージにはまっていて、81+24系寝台で日本海の編成を組成したことがありました。お年玉などをためてハネをやたらと購入したのを思い出します。模型屋のおっちゃんに“日本海でも作るんか”と言われた記憶があります。まさにその通りです。普通は東海道筋のブルトレを組成するのですが、なんでかあの頃は変わったことをするのが好きでした。今でも同じかもしれませんが・・・。

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さよなら急行きたぐに

2012年03月17日 | JR西日本

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 3月17日のダイヤ改正で急行きたぐにが引退しました。急行きたぐには何度か乗車しており、初めて乗った夜行列車でもあったので馴染み深いものがあります。子供の頃から583系が好きで、プラレールのおもちゃでも485系より583系の方が欲しかったのをよく覚えています。客車時代のきたぐには乗ったことも見たこともありませんが、北陸本線の本に北陸トンネルでの火災事故を起こした列車として記載されていたのをよく覚えています。初期の頃はきたぐにと言えば北陸トンネル火災事故という印象が強いです。82年11月改正で当時の客車急行列車のスタンダードと言える14系寝台+座席車の編成に置き換わり、20系急行が全盛期だった時代なので新しい形の急行列車として印象に残っています。もっともこの頃はバリバリの小学生なので、見たり乗ったり撮ったりということはなく、ただ単に本の中での世界であったのは確かなところです。

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 きたぐにへの思い入れが強くなったのは国鉄最後の謝恩フリーきっぷで同列車に乗ってからです。その頃は583系原色使用で、ダイヤは今とほぼ同じで京都を0時過ぎに発車するため、3月31日のみ有効の謝恩フリーきっぷを有効活用するにはうってつけの列車でした。自由席なら大阪~京都間の運賃と急行料金を支払えば、京都からはフリーきっぷ使用で行けるのでこの列車に目をつけて大阪から乗ることにしました。考えることはみな同じで大阪駅は昼間から長蛇の列ができていました。謝恩フリーきっぷを買った時は夜の2時から並びましたが、それにも匹敵するぐらいの行列でした。これだけ並んでもまともに席を確保することはできず、車内はやりたい放題になり、自由席なのに勝手に寝台を組み立てるファンが続出して、車内は下段は座席、中段、上段は寝台と言うまさにお祭り状態になっていました。今なら確実に問題視される行為ですが、当時の国鉄は特にお咎めなし。本来であればきたぐにが利用者で溢れているため急遽設定した後続の臨時に乗らせればよいものなんですが、このあたりは時代といい国鉄の体質といい悠長なところがあったのでしょうね。ただ、臨時で運転された急行アルペンのスジで走った臨時きたぐにには485系雷鳥編成が使用され、和風だんらん車まで解放されていたのを後になって知って無理にきたぐにに乗らなきゃよかったと後悔しました。

Notokitaguni その後、ボックス席で寝るのが苦手だった私は学生時代もリクライニングする座席がある夜行列車を選んで乗っていたのできたぐには敬遠していました。夜行アレルギーが治りつつあったので、JR西日本の正月のフリーきっぷを利用して乗り潰しに出かけたときに久しぶりにきたぐにに乗りました。謝恩フリーきっぷの時と同様に時間を有効に使うために、金沢から能登に乗って直江津へ出て、直江津できたぐにに乗り換えるという夜行のはしごで時間を有効に使うという芸当です。見事にはまりました。2年ぐらい年越しを能登で迎えたことがありました。当時は直江津で能登ときたぐにが顔を並べると言うファンとしては美味しいシチュエーションもあり、なかなか楽しい思い出となっています。ボックス席での夜行を漸く克服できた感があったのもこの時期ぐらいからです。この後は、東北方面へののり潰しのため新潟まで2回ほど乗り、583系の寝台車も初体験しました。撮影の為早朝高岡で降りて延々と西高岡の撮影地まで歩いたこともありました。さすがに北陸方面への撮影できたぐにを使ったのはこの1度だけです。他では長野からの帰りに直江津経由できたぐにに乗って帰阪したこともありました。昔ならちくまを使うところですが、きたぐにの寝台でぬくぬくと大阪まで戻った記憶があります。そして昨年末。お別れ乗車のつもりはなかったのですが、引退が決まる前に取った寝台が実質的にお別れ乗車となってしまいました。東北遠征の都合で往復とも急行きたぐに乗車としたのは奇遇とはいえ結果的によかったなと思える行程となりました。

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