橋下徹氏発言の背後にある人権侵害肯定価値意識
焦点は国権と人権との位置付けである。
国民を国家の一部=手段=道具と見なし、国民を国家のために活用することを肯定する立場と、国民と国家との間には、根源的な緊張関係があり、国民の権利に対する国家の介入に最大の警戒を払う立場との間には天地の開きがある。
これが国権と人権の問題だ。
この問題に敗戦後の日本が示した究極の回答がこれだ。
日本国憲法
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
基本的人権は、
「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」
であり、
「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」
と規定した。
国権ではなく人権重視、なのである。
そして憲法は、国家権力=国権が人権を侵害しないよう、国家権力を縛るために制定される。
これが立憲主義の考え方である。
日本国憲法は第11条にも次の条文を置く。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
橋下徹氏の
「従軍慰安婦は必要だった」
発言は、人権に対する国権の優越を是認する橋下氏の判断を示すものである。
そもそも、戦争そのものが国権による人権の侵害である。
安倍晋三氏は靖国参拝を正当化する理屈として、
「国家のために命を捧げた英霊に敬意を表し、その御霊を敬う行為」
と主張するが、国家のために命を失った人のほとんどは、基本的に国家によって不本意に命を奪われた人々である。
戦争行為そのものが、もっとも深刻な人権侵害行為である点を見落としてはならない。
長崎の原爆投下で被曝しながら、被爆者の救済に命を捧げた永井隆博士が「花咲く丘」に記した次の言葉。
「戦争はおろかなことだ!戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」
沢木耕太郎氏はクリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」に込められた真のメッセージが次のものであると批評する。
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」
そして、クリント・イーストウッド監督は、
「ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている」
と語る。
戦争は国と国の間で行われるものではない。
安全な場所にいる戦争指揮者と前線の兵士・民衆との間で行われるものである。
国家権力は、前線の兵士も前線の従軍慰安婦も、そして前線の市民も、敵味方の区別なく、権力の所有物として、その尊厳と命を踏みにじってきたのだ。
橋本徹氏、石原慎太郎氏、安倍晋三氏に共通する特性は、国家の権力の名の下に、民衆=人民=国民を虫けら同然に扱う、権力者の傲慢と高慢を濃厚に備えていることだ。
彼らは、戦争を煽り、戦争を創作し、人民を虫けら同然に扱う。
その一方で、戦争を美化し、虫けら同然に扱った人々を祀る施設を、英霊を讃える場所として美化する。それは、戦争遂行の道具として、虫けらの人民を再生産する必要があるからである。
さらにいま、憲法を改正して、永久不可侵であるとする基本的人権に関する記述を大幅に削除し、国家権力のためには基本的人権を制限できるとする新しい憲法を導入しようとする。
その立ち位置には決定的に重要な特徴がある。
それは、彼らが、常に、一般大衆の側にではなく、一般大衆を支配する権力者の側に居続けるとの前提が置かれていることだ。
彼らの頭のなかには、二つの種類の人間が存在する。
支配する者と支配される者である。
彼らは、自らを支配する側に所属する者として認識し、これとは無関係の、他者としての、支配される側の存在として一般大衆を位置付ける。
支配者にとって、一般大衆は、自らの利益、自らの目標を達成するための道具に過ぎない。
この道具を再生産し続けるために、使い捨てた一般大衆の死者を祀る施設を美化し、参拝を続けるのだ。
橋本徹氏や石原慎太郎氏の言葉は、従軍慰安婦制度を肯定する以前に、戦争そのものを肯定している。
従軍慰安婦制度が人権侵害であると同時に、戦争そのものが人権侵害であるという、根本的な事実に対する認識が完全に欠落している。