観音霊験記真鈔25/33
西國二十四番摂州仲山寺十一面像御身長五尺二寸(157㎝)
釋して云く、十一面観音經に云、若し又人有りて千萬億那由多の諸佛名號を暫くも如かず至心にして我の名号を稱念せば福を得る事彼に勝る(十一面神呪心經「若有稱念百千倶胝那庾多諸佛名號。復有暫時於我名號至心稱念。彼二功徳平等平等。諸有稱念我名號者。一切皆得不退轉地。離一切病脱一切障一切怖畏。及能滅除身語意惡。況能於我所説 . . . 本文を読む
弘仁十四年823四月二十四日は大師(50歳)が「天長皇帝の即位を賀したてまつる表」をお書きになった日です。大師は天皇陛下とも近しい関係であられましたが、当然満濃池や四国88所の開創など庶民の救済にも大尽力されています。現代人は権力に近ずくのをよしとしませんが、大師は密厳国土の創出・庶民救済のためにも天皇とも近しい関係となられています。「天長皇帝の即位を賀したてまつる表沙門空海言す。空海聞く、四序代 . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔24/33
西國二十三番勝尾寺千手像御身長八尺(2.4m)。
釈して云く、従来未だ観音の三十三身を明かさず。最も聖観音の示現なりと云へども本一躰の分身なれば千手の像の處にて挙げて失なき者歟。観音普門品に云く、一には佛身、二には辟支佛身、三には聲聞身、四には梵王身、五には帝釈身、六には自在天身。七には大自在天身、八には天大将軍身、九には毘沙門身、十には小王身、十一には長者身、十二に . . . 本文を読む
涅槃経には「福を求めれば禍もついてくる。愚人は福を求めて禍も蒙るが、菩薩は禍福共に求めない」とあります。逆に言えば俗世の垢にまみれた我々は禍福を逃れることはできない、ということでしょう。まさに「漢書 賈誼伝」に「それ禍と福、何ぞ糾える纆に異ならん。」といい、「史記 南越伝」「禍によりて福となす、成敗の転ずること、譬れば糾える纆のごとし。」というのもこのことでしょう。
「女人有りて . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔23/33
西國二十二番摂州総持寺千手像、御身長三尺。
釋して云く、復千手観音經に云く、一切人天常に供養すべし。専ら名号を稱すれば無量の福を得て無量の罪を滅せん。命終して阿弥陀の國に往生せん(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「汝等大衆諸菩薩摩訶薩梵釋龍神。皆應恭敬莫生輕慢。一切人天常須供養專稱名號。得無量福滅無量罪。命終往生阿彌陀佛國。佛告阿難。此觀世音菩薩所説神呪眞 . . . 本文を読む
発菩提心論和訳を載せます。発菩提心論は、金剛頂瑜伽経にもとずき菩提心を発起し月輪観・三密観・五相成身観等により完全な覚りを求めるべきことを説いています。
発菩提心論(金剛頂瑜伽の中に阿耨多羅三藐三菩提心を発す論または瑜伽忽持教門に菩提心の観行を修持することを説く義と名づく)龍猛菩薩造。大興善寺の三蔵沙門大広智不空 奉詔訳。
「大阿闍梨(金剛薩埵)云は . . . 本文を読む
◎三島多聞師(中村久子女史顕彰会代表・真宗大谷派真蓮寺住職)の龍谷大学でのお話から大意龍谷大学でのお話、「中村久子さんは、両手両足のない人生を、喜びをもって生きた方です。中村久子さんは、私たちからすれば身的障害の不自由さはありました。しかし我々は共に人間として「障害」を持っている、ということがいえるのだと思います。正しい宗教の認識とは、久子さんの言葉を借りて言えば、「業の深さが胸のどん底に沁みてこ . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔22/33
西国二十一番丹州穴穂寺聖観音御身長三尺
釋して云く、聖観音とは安養浄刹に御座す處の観音なり。
問、聖観音の聖の字、世上の聖正の二字を用ゆ。邪正ありや。
答ふ、倶舎頌疏に曰く、聖とは正なり。言は心正しければ即ち聖人となる故に云。心正しければ以て邪を避つべし。喩ば日月正しく天にあるときは草木に邪影なきがごとし。故に正は聖と云。宗教録第三十四に見たり(宗鏡録卷第三十四「 . . . 本文を読む
今日は頼朝が高野山で平氏追善法要を行った日です。文治二年(1186)四月二十二日、頼朝は高野山根本大塔で平氏怨霊追善大法要を行いました.。
高野春秋に「(文治二年(1186)四月)二十二日、平氏怨霊追薦の大法事を大塔に於て執行。是宣に依る也。院宣に偁ふ、平氏の一類、滅亡せむ處自己逆心の為と雖も、且く遺恨を含む歟。其の怨霊を宥めんが為、高野山に於て御帛の法事執行せしむべき云々。・・大師曰く、我が法 . . . 本文を読む
今日は遊行寺開山忌です。
遊行寺のホームページです。「春季開山忌とは当本山を創建された遊行4代他阿吞海上人のご遺徳を偲び、 4月22日(土)・23日(日)の2日間にわたって営まれる忌日法要です。・・14時踊念仏法要・・」
http://www.jishu.or.jp/event/%E6%98%A5%E5%AD%A3%E9%96%8B%E5%B1%B1%E5%BF%8C%E3%81%AE%E3% . . . 本文を読む
弘安7年の今日、4月21日、後宇多天皇が叡尊上人より受戒されました。(後宇多法皇年譜)後宇多天皇は後に密教僧となられていますが、叡尊には特に私淑されこの後も10月には叡尊より梵網経古述談義を受け十重禁戒を受けられたり、弘安9年8月には叡尊が参朝して菩薩戒宗要の法義をし、同9月には叡尊が京極院御国忌をし、正安2年7月3日には叡尊に(後伏見天皇より)興正菩薩號を宣下されています。
密教大辞典には「後 . . . 本文を読む
大石 順教尼は 1968年4月21日80歳で死去されています。元大阪堀江の芸妓・妻吉といいました。養父が乱心して「堀江六人斬り事件」を起こし、両腕を切断されますが旅芸人として巡業。カナリアが嘴で雛に餌をやるのを見て、口で書画を書く技法を習得。1933年(昭和8年)に高野山金剛峯寺にて稀代の名僧金山穆韶猊下のもと得度、名を「順教」と改める。京都山科勧修寺に日本で初めての身障者厚生施設「自在会」を設立 . . . 本文を読む
護国寺に綱吉・桂昌院が揃って参詣した日は十三回ほどあります。現役の将軍が13回もお参りするというのは護国寺への信仰がよほど篤かったとみえます。
以下護国寺史に依る
天和三年1683二月二十九日、桂昌院始めて護国寺に参詣。
・・
元禄六年1693十月三日、綱吉・桂昌院共に参詣。
元禄七年1694十月十八日、綱吉・桂昌院共に参詣。
元禄九年1696四月五日、綱吉・桂昌院共に参詣。
元禄九 . . . 本文を読む
天正十四年1586、4月21日は奥の院御廟が落成した日です。
高野春秋に「(天正十四年)夏四月廿一日、御廟落慶、大曼荼羅供を勤修。導師検校来宗、色素六十口。快真拝礼。」
(高野春秋に、御廟は前年から十穀快真の行脚による財施で建て替えを始めたとあります。「天正十三年九月二十七日、奥の院御庿造り変え始まる。是則ち護摩堂十穀快真検校坊達、諸人勧化の財施故也」) . . . 本文を読む