秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

向井理ナビのオランダ紀行ふたつ

2012-03-17 | 旅・オランダとベルギー
NHK世界遺産「時を刻む」のナビゲーター向井理さんのオランダの旅。
やっぱり行ったことがあるところは身を乗り出してみてしまうもんです。

実は1週間前にBSで同じシリーズ「堤~水を包み水と生きる~」を見ました。
同じかと思ったら3割ぐらい編集が違ってた。

どちらもそれなりに面白かったけど、BSのほうはご覧になられなかった方も多いかもしれないのでレポートしておきます。

NHKの番組解説によると
世界遺産 時を刻む「堤~水を包み水と生きる~」
【ナビゲーター】向井理
「こうやって水を押し上げるんだ」と向井理さんが感心した風車。
海面より低い土地を堤防で囲んで作られた干拓地を、冠水から防ぐ。
伝統を支えるのは風車守と住民の連携だ。
首都アムステルダムには、17世紀に世界一の港湾都市に発展した時に築かれた運河や町並みが健在。
「これは技術だ、技術は歴史だ!」と驚く運河の街の知恵と工夫。
それはモダンな住宅にも継承されている。
オランダの「人と水」を巡る向井さんの旅。




キンデルダイクの風車です。
とても風の強い所で、風車が役に立つのはよくわかりました。

そしてそのときは、自転車道がちゃんと別になってるのが印象に残った。
以前にもご紹介した画像↓


干拓により国土を拡大してきたオランダ
水深のそれほど深くない湾や入り江、湖泥に水の流れを締め切る堤防を築き、風車で内側の水を海へ排出していたのです。

レンブラントのお父さんも風車守だったとガイドさんから聞きました。

この干拓地で農地を持つ人は、水路の掃除が義務付けられてるそうです。
干拓地に住む自由を得るためには義務を果たさないと
ココが湿地帯に戻らないよう整備維持するのは当然だと、農夫が語る場面が映っていました。

この場面はサイクル紀行ではカットされてて残念に思いました。


現在は風車だけでなく、大掛かりな排出機械もありました。

あともう一つ、カットされてて印象に残ったものは、
アムステルダム運河の跳ね橋の管理をしている場面です。



大きな船が通るときは、跳ね橋が真ん中で二つに割れます。
これをコントロールしているおじさんたちを見て、
向井さんが「これは技術だ、技術は歴史だ!」とつぶやく様が実に良かった。

「自然がつくったものは自然が淘汰、片づけをしてくれるけど、
人間がつくったものは、人が維持メンテナンス、そして最後は人の手で片付けないと」
この一人言風につぶやいた向井さんの言葉、重いです。
原発にまで意識が飛びましたモン。


2013年アムステルダムの運河ができてから400年を迎えます。

17世紀のオランダは、冬は厳しく運河も干潟もお濠も一面凍ってしまうことがたびたびだったようです。
凍った運河の上でにぎやかに遊びに興じている人々を描いた絵

ヘンドリック・アーフェルカンプ(Hendrick Avercamp 1585~1634)
オランダの冬景色を色彩豊かに巧みに描写しています。





Waternetで検索していて見つけた記事によれば
2011年8月17日Amsterdams Stadsblad

アムステルダム運河Waternetの浮遊ごみの清掃員は、1年に約12千台の自転車を運河から引き揚げています。
つまり、1日に約33台の自転車が運河の底に沈んでいっていることになります。
清掃員が引き揚げているのは自転車だけではないようです。
他にも1年に約700台のショッピングワゴン、80千キロの木材、5千キロの自動車のタイヤが引き揚げられています。
そしてごくまれに1年に0~3台の自動車も運河から引き揚げられています。



やっぱり柵がないと落ちる可能性は高いですよね。

落ちるのも自己責任!
さすがオランダは日本とはエライ違いです。

堤を築き水を制御し干拓し、運河を造り海運業で栄えたオランダ。
そして今、水を楽しみ水とともに生きる暮らしをはぐくんでいる。
アムステルダムは都会だけれど、村のように住民が声掛け合って共に暮らす。
水辺の暮らしがとても自由で自然と共生できててうらやましく思われました。

オランダの教育

2012-03-08 | 旅・オランダとベルギー
オランダ人の食事は毎食ハムとチーズとパン、そして珈琲。
ハレの日もケの日も、お客さんが来ても家族だけでもそうなんだと、現地ガイドさんから聞きました。

その割には、体格がでかいし、サッカーも強い。
街もきれいし、デザインも素敵だし、食べ物とは関係ないのかな。


最初の画像と、この画像はオランダの政治的な都市ハーグです。
マウリッツハウス美術館でフェルメールを見た帰りに撮影しました。
国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約で、ハーグと耳にするたびにこの街の静かなたたずまいを思い出しています。



オランダはオランダ語でネーデルランド、低い土地の国という意味です。
国土の4分の1が海面より低いと聞いたような…(正確な数字ではありません)
運河が縦横にはりめぐらされ、子供達は服を着て泳ぐ練習をすると昔聞いたことがあります。


アムステルダムでの最終日、1時間ほど船で遊覧しました。

確かに運河の周りに、柵のないところがほとんどだった。
これならうっかり落ちることもあるだろう。

そして自転車だらけだ。



今晩NHKの番組でオランダの教育を取り上げていたのを興味深く視聴した。

オランダも日本同様、割り算とかができない落ちこぼれが増えてどうしようもなくなり、今から40年前に教育改革が英断されたそうです。

昔は、ある年齢になれば小学校に上がり、教室で机を並べ一斉授業を受ける形態だった。

しかし今は違う。
4歳になれば、いつでも小学校に入学できて、全員が一緒ではない。
人それぞれ個性があり、能力も違えば、習熟度も異なるからだ。
自分で選んだ時に自分が選んだ学校に上がり、自分の決めたカリキュラムで、自分のペースで学ぶ。
卒業する時には一定のレベルに達していないといけないので、留年もある。
そして自らの意思でも留年することができる。
自分で選ぶことは責任を伴う。
自立がオランダの教育の基本理念であるらしい。

このオーダーメイド教育により、子供達は生き生きとし始め、ストレスはなくなったそうだ。
宿題もないし、塾もない。
9割の子供が学校が好きで楽しんでいるという。
それでいてレベルが落ちたわけではなく世界のトップレベルなんだそうだ。

小学校を卒業する12歳までに、将来どのような職業につきたいかを考えて、それに見合った進路をセレクトし、成就に向けて努力する。
教師や家族はそれを見守り、サポートする。

自らの意思で動機付けができれば、自ずから学ぶようになるのだという。





16世紀頃からの建物が今なお使用されているオランダ。
隣り合わせの建物がお互いを支えているのだそうだ。

自転車道といい、美術館のあり方といい、いろいろ考えさせられますね。

コスター・ダイヤモンド

2012-01-23 | 旅・オランダとベルギー
2010年7月に世界最古のダイヤ コイ・ヌール(光の山)という記事を書きました。
こちら

コイ・ヌールKoh-i-Nur(ペルシャ語で光の山)
英国王室エリザベス皇太后の王冠についていて、ロンドン塔のJewel Houseに飾られてます。


もともと186カラットもあった世界最古のダイヤモンドを、当時のヴィクトリア女王がインドのカットはダサいということでアムステルダムの腕きき職人に再研磨させた。
その研磨工場がコスターダイヤモンドなんだそうです。

オランダツアーの最終日、朝一番でこのダイヤ研磨工場見学がありました。

別にダイヤモンド買いたくないし見学もいいのに、と前夜ツアー客大勢で申し出た。
しかし運河をめぐるツアーを仕切っているのがこのダイヤモンドの会社だとかで外せないとか聞きました。

コスターダイヤモンドの見学者数は年間およそ35万人。
30ヶ国以上の外国語ガイドがダイヤモンドが研磨される過程を詳しく説明し、見学後はショールームに案内されます。



部屋の入り口は施錠され、その部屋に閉じ込められて説明を受けます。
ツアー客の数人が購入の意志を示したので、他の関心ない客は部屋から出してもらえてやれやれでした。

国立博物館とファン・ゴッホ美術館の間という大変立地が良いところにあります。
すぐ前の広場みたいなところは、開放的なスケートリンクになってました。



そしてこのあと、アムステルダムの運河めぐりに・・・続く

オランダのデザイン

2012-01-17 | 旅・オランダとベルギー
去年今頃、オランダとベルギーでアートな旅をしていました
どちらの国も芸術性高く、歴史的建造物も多く残り、これが冬でなかったら、雨が降ってなかったらもっと景色も楽しめたことと思います。

撮影した写真がどれも暗いので、旅行記全部完了せずにそのままになってたのでした。

ゴッホやレンブラント、フェルメールなどの絵画を見てきたことはすでに報告ずみですが、街角で見かけたデザインも素敵だったことを紹介します。

最初の画像は、アムステルダムの街で撮影。
空港ではセグウェイで移動する警察官か警備員を見かけたのですが、あっという間で撮影できなかったのは残念でした。


イルミネーションのデザインも変わってます。


とある店の壁面の絵、これはハーグの街中だったような。


ダイソン社の洗った手を乾燥させる機械の風力はスゴイ。


オランダの男子トイレは便器に蜂の絵とかが描かれていて、そこを目指して用を足すとまわりに飛び散らない工夫がされていると聞いていた。
このトイレは陶器の町デルフトのお店で撮影したもので、単にデザインものです。


どこのホテルか忘れました。


エソラにお土産に買いたいなぁ~と思ってみていたキッズ食器。




さすがチューリップの国です。


キンデルダイクの風車を見に行った時に撮影。


傘で示した先は

2011-03-09 | 旅・オランダとベルギー
ベルギーン首都ブリュッセルの中心だそうです。
現地ガイドの藁谷さん、わらがいと読むって珍しいですね。

連翹(れんぎょう)の花も咲き始め 春に近づいているとメール下さいました。

3/25(金)と4/1(金)の夕刻6時から
Wowowにて「レールウェイ・ストーリー」のベルギー編
が放送されます。
(4/9と4/10の朝7時から再放送があります。)
そのBGMに私の音楽が使われているそうです。
宜しかったらご覧になって下さい」 と案内下さいました。
残念ながら我が家のTVはWowowの契約してなくて見れません。



ブリュッセルの観光は冷たい冬の雨の中を歩きました。
ギャルリー・サン・チュベールというアールヌーボーのアーケードを通り、飲食街で小便少女を案内してもらいました。
続いて市庁舎から少し歩いたところに有名な小便小僧の像がありました。
さすが世界3大ガッカリの一つ、しょぼかった。




またグランプラスに戻りました。


フランスから亡命して来たヴィクトル・ユゴーが「世界一美しい広場」と讃えたグランプラス。
「王の家」と呼ばれる建物の右側の建物あたりに住み、広場を眺めながら執筆活動をしていたそうです。



四方をギルドハウスが取り囲み壁面のレリーフや屋根の飾りが素晴らしい。
ジャン・コクトーは「絢爛たる劇場」と表現しました。

やっぱり雨はすべてのエネルギーを奪ってしまい、ただただぼ~っと眺めていただけ。

15世紀のゴシック建築・市庁舎の鐘楼の画像をツレにもらいました。
彼女のカメラは日本時間が表示されてます。
現地ベルギーでは1月13日の午前中でした。

フリット革命

2011-02-18 | 旅・オランダとベルギー
チュニジアから始まった政権異変、次々と飛び火していて、
中東諸国の現状を伝えるニュースが毎日見られます。

なんとベルギーでもデモってました。

チュニジアの「ジャスミン革命」に対抗して
ベルギーの一連の抗議行動を名物のフライドポテト「フリット」にちなんで「フリット革命」と名付けてるそうだ。

1/23首都ブリュッセルで「新政権、早くつくって」と3.4万人がデモ行進。
SHAME(不名誉)と書かれた横断幕を掲げデモ行進
   

2/17内閣不在249日、ベルギーが世界最長記録を達成。
イラクの248日を超えて最長記録達成、これからも更新し続けて行くのですね。

名物のフライドポテト「フリット」をシンボルとしたデモが行われ、
大勢の若者たちがフリットを食べたり下着姿になって政治家らに抗議した。
AFP通信のサイトで下着姿でデモに参加する若者たちの画像がみれます。
残念ながらgooブログではこのニュース画像を利用できない。
こちら


1月中旬ベルギー観光で、現地ガイドの藁谷さんから聞きました。
去年6月の総選挙から8か月以上たっても新しい政権が発足していないと。

たいがい日本も訳のわからん状態が続いていますが、
ベルギーがそんな状態にあるとはつゆ知らず、で驚きでした。

それまではまったく興味がなかったのに、
たまたま観光に行ったというだけで、人間の関心度って不思議なものです。

昨年12月以後、ベルギーの国債がポルトガルやスペイン、イタリアなどの南欧諸国とともに売り込まれていて、
累積の財政赤字はユーロ圏諸国17カ国で、ギリシャ、イタリアに次いで3番目に悪いそうだ。
政情不安の影響が経済にも及んでいます。


日本もこの先どうなるのやら…

一向一揆とか、幕末のええじゃないか運動とか、
一般民衆が決起するってことはないのかな。

ゴッホのイエロー

2011-02-18 | 旅・オランダとベルギー
アートなてんこもりツアー、オランダ・ベルギーの旅の記録を書いていて、
レンブラントのレッド
フェルメールのブルー
どちらも現地の美術館で説明受けたときに聞きました。

なるほどと思って見ていて、
そしたらゴッホの印象的な色はイエローかなと思われました。
でも私独自の感じ方かもしれないので、そのタイトルにしないで
クレラーミュラー美術館で記事エントリーしました。

この美術館はフラッシュたかなければ撮影可能です。





先日AFP通信のサイトで、ゴッホのイエローを見つけました。
今後もっと年数が経過すると、イエローが金茶色に変化するかもしれません。

「ゴッホの絵画の特徴である鮮やかな黄色が茶色く変色してしまう
原因を欧州の研究チームが化学的に解明した研究結果が
14日、米化学専門誌「Analytical Chemistry」に掲載された。

ベルギーのアントワープ大学などが参加する研究チームが、
超高感度のX線顕微鏡でゴッホの絵画を分析したところ、
絵の具とニスが混ざり合った部分が日光にさらされると化学変化が引き起こされることが分かった。

フランスのグルノーブルの欧州シンクロトロン放射線研究施設で行ったX線分析でも、
バリウムと硫黄の化合物が存在すると、黄色い絵の具に含まれるクロムの劣化が顕著であることが確認された。

こうした結果から、研究チームは白と黄色の絵の具を混ぜて使用したゴッホの技法が、
黄色を変色させる要因となったと考察。
貴重なゴッホの作品を変色させないために、作品を紫外線や日光から守るよう勧めている。」

スマートフォン世界出荷74%増加

2011-02-09 | 旅・オランダとベルギー
2010年のスマートフォン出荷台数は、世界で3億260万台、前年度比74.4%だと発表された。
1位は、ノキアで1億30万台(シェア33.1%)
おなじみアイフォーン4は4750万台でシェア15.7%と世界3位らしい。
先月妹も携帯壊れてアイフォーンに変えたと話してた。
私の携帯も3年が過ぎぼちぼち機種交換の時期にきています。
おばちゃん達もスマートフォンを持つようになり、すごい勢いで世界中に広がっているのですね。

チュニジアに始まった新しい革命はフェイスブックやツィッターが引き金となり、それはエジプトはじめあちこちの中東諸国や北アフリカに影響を与えています。
利用料がそれほど高くなければ、携帯型モバイルパソコンあったらそりゃあ便利だろうと思います。
簡単につながり発信もできるのです。


最初の画像はアントワープの世界最古の証券取引所です。
中庭の角に建つ塔は、港に入ってくる船を見張るためのものだそうだ。
当時は、それぞれの船にはどういう品物が積まれているかを示す旗を立てていました。
その旗をこの塔から見ていて、船が入港し荷揚げを始める前に商取引を始めたんだそうです。

16世前半のアントワープの街中には、各国の商人達がこのような塔をおよそ30本ほど建てていたようです。

500年前にはこうした高い塔から見張ってたのが、今やインターネットや携帯電波が網羅している世界。
目には見えないけど、恐ろしい世の中になったなとつくづく思います。


アムステルダムの港には、18世紀の東インド会社が所有していたアムステルダム号が復元されて海洋博物館になっています。

前記事の宗教改革の続きです。
16世紀、海外に多くの植民地を獲得していたスペインとポルトガルは世界の富を独占していた。
特にポルトガルはインド洋の香辛料貿易を独占していたが、1580年にポルトガルを併合したスペイン王フェリペ2世は、ネーデルラントとの貿易を制限して経済的な締め付けを行った。

この状況を打破するために、オランダは直接香辛料を買い付けようと独自の交易ルートを開拓して船団をインドネシアまで派遣した。
1602年VOC(連合東インド会社)誕生。
アムステルダム、ロッテルダム、デルフト、ホールン、エンクハイゼン、ミデルブルグの6つの都市が共同出資して設立した世界初の株式会社だった。

これを契機として、オランダは海外に多くの植民地を獲得しポルトガルやイギリスを香辛料貿易から締め出していく。
16世紀に世界の海を支配したスペインとポルトガルにとって代わり、17世紀はオランダが世界最大の貿易国家として黄金時代をむかえた。

確かに、鎖国している日本が交易を行なっていたのはオランダだった。

やがて幕末の咸臨丸を製造したのは、風車で有名なキンデルダイクの造船所だったそうだ。


そして東京駅はアムステルダム駅を模したことはあまりにも有名です。

ルーベンスの3大祭壇画

2011-02-07 | 旅・オランダとベルギー
15~16世紀にかけて繁栄を謳歌したアントワープ。
1352年に建設が始まり1521年に完成したノートルダム大聖堂の鐘楼で、
7分半毎に鐘がなります。
あまりにしょっちゅう鳴るので、今何時かよくわからなかった。

この教会の中にルーベンスの3大祭壇画があります。
「聖母マリアの被昇天」


「キリストの昇架」


「キリストの降架」


日本でおなじみの「フランダースの犬」のネロとパトラッシュが、
硬く抱き合ったまま凍死していたのが、このルーベンスの最高傑作とされる「キリストの降架」の祭壇画の下でした。

宗教改革以後の北ヨーロッパにおいて、
カトリックが宗教美術を大量に必要としていた時代に、
ルーベンスは躍動感あふれる劇的な表現で非常な人気を得ました。

  



中世のヨーロッパって文盲率が高かったらしい。
カトリック教会では、ミサにおいてラテン語が使用され一般大衆には理解できなかった。
そして聖職者が「この免罪符を買えばあなたも天国にいけます」っていう。

各地域の教会税はバチカンの収益となっていたが、
近代国家の誕生とともに、自国の富がバチカンに流れることがばからしくなった。
そしてそれぞれの地域の教会がローマと絶縁することを積極的に後押しした。

そして1517年、マルチン・ルターの宗教改革が始まる。
ルターは聖書を学者の手から一般人の手に取り戻した。
「免罪符を買ったら天国に行けるなんて聖書のどこにも書いてない」ということを知らしめた。
宗教改革は、15世紀中盤にグーテンベルグが活版印刷を発明し、聖書が安く大量に普及してきていたことが前提にあった。

1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。

ちょうどその年、フェリペ2世がスペイン王に即位。
あの無敵艦隊のスペインが強かった時代です。
フェリペ2世は厳格なカトリックであり、ネーデルランドはスペインの支配化にあった。

スペインの過酷な支配に対してネーデルランド八十年戦争が勃発。
1581年にはネーデルラントの北部7州(オランダ)がスペイン支配からの独立を宣言、
以後、ネーデルラントの南部10州はスペインの支配下に留まった。

しかしアントワープで暮らしていたプロテスタントの多くはオランダのアムステルダムに移住した。
移住者の中には知識人や技術者が多くいて、
彼らを追放したアントワープは衰退し、代わって彼らを受け入れたアムステルダムが黄金時代へ向かうことになる。

フェルメールのブルー

2011-02-04 | 旅・オランダとベルギー
「真珠の耳飾りの少女」たしか2000年初夏に大阪市立美術館で並んで見ました。
青いターバンとじっとこちらを見ているつぶらな瞳が印象的でした。

あれから月日が流れ、今度はオランダのハーグにあるマウリッツハウス美術館でじっくり眺めることができました。


マウリッツハウス美術館は、もともと17世紀にブラジルの総督を勤めたヨハン・マウリッツ伯爵の邸宅だったそうです。



大きすぎるといわれる真珠のイヤリングも至近距離で見れました。
確かに眼球よりでかい。
イヤフォンガイドで、白い絵の具一筆が真珠の光沢を見事に表現していると言ってました。

今でこそフェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」
本人が失意の中で43歳の若さで亡くなった後、
未亡人は五人の子供がいて、その生活苦から現在の価値で1ユーロほどでこの絵を売却してしまったと聞きました。  

   

作品にしばしば登場する鮮やかな青は、「フェルメール・ブルー」と呼ばれています。
この青は、ラピスラズリを原料にして作る「ウルトラマリンブルー」という絵の具で、
当時は金よりも貴重であったといわれています。

聖母マリアのマントなどの限られた部分にしか使わない貴重な絵の具であったウルトラマリンブルー。
フェルメールはドレスの下地に使うという当時の常識としては考えられない贅沢な使い方をしたそうです。

「牛乳を注ぐ女」
アムステルダム国立博物館蔵
ここでもフェルメールブルーが使われています。

そして室内の風景を描く際によく用いられた斜め45度から入射する天然光。
日常的な題材に崇高な雰囲気を与え、光の達人といわれるゆえんです。


「デルフトの眺望」という有名な絵画もマウリッツハウス美術館にあります。

フェルメールはデルフトという陶器の町で生まれました。




デルフト焼きのブルーもいい青色でした。

レンブラントのレッド

2011-02-03 | 旅・オランダとベルギー
オランダのアートな旅に、レンブラントは外せません。
アムステルダムにある国立博物館で「夜警」などを見てきました。
ここでは撮影禁止だったので、デルフト焼の工場で製作されたタイル画です。


旅のガイドブックには、この夜警は世界3大名画の一つと書かれてありました。
ホテルの部屋で、じゃぁ残りの2つは何なんかも書いといて欲しいよな、
モナリザとゲルニカということにしとこうと教養の薄さで想像してました。

帰国して検索してみたら、
①エル・グレコ作「オルガス伯爵の埋葬」
スペインはトレドにあるサント・トメ教会所蔵
1998年1月に見てました。

②ディエーゴ・ベラスケス作「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」
スペインのマドリッドにあるプラド美術館所蔵
同じ時期に行ったけど見たかどうかすら記憶に残ってない。

③レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン作「夜警」
   

この夜警の代わりにレオナルド・ダ・ビンチ作「モナリザ」を入れて3大名画と言う場合もあるようです。




国立博物館本館は改装工事中ですが、17世紀の珠玉のコレクションを凝縮展示されてます。
旅行者の限られた時間内で鑑賞するにはちょうどよい量でよかったです。



レンブラントはオランダではゴッホよりも国民に愛される画家とさえいわれているようです。

オランダの黄金時代17世紀に活躍した光と影の魔術師。
人物を闇に浮かび上がらせる独特な光の使い方に卓越した技術を持っていました。

ユダヤの花嫁 
レンブラントならではの独特の赤、
レンブラント・レッドといわれるそうです。

まだカメラがなかった17世紀、人々は肖像画を画家に書いてもらっていました。
去年10月「ポーランドの至宝展」を見て書いた時のをコピペすると

17世紀当時、諸外国に比べオランダでは多くの肖像画の注文があり巨大な市場を形成していた。
この時期にオランダで描かれた肖像画は75万枚から110万枚に達すると見られる。
レンブラントも、アムステルダムの肖像画家としてこの時期に経済的に大成功していたが、
他の画家同様に中産階級市民の依頼に応じて肖像画を制作することに嫌気がさすようになっていった。


一般的に団体から、肖像画を依頼された場合、
全身ならいくら、顔だけならいくらと金額が異なります。
それで、普通は登場人物にあまり差をつけずに描くものらしい。
その方が多くの人から多額のお金を請求できるからです。

しかし レンブラントはだんだん嫌気がさしてきてたので、
自分の描きたいように動きのある構図で人物像も差をつけて描いています。
そのため、この大作を描くのにとてもお金がかかったのに、
絵を依頼した夜警団の人々は皆満足しなかった。
そのため代金を回収できず、この夜警をきっかけに没落していったそうだ。

この同じ夜警団を別の人が描いたものが対面に展示されてあり、
両者を比較すると、いかにレンブラントが素晴らしいかがよくわかりました。

王室御用達ブランド★ノイハウス&ジュール・デストローパー

2011-01-27 | 旅・オランダとベルギー
ノイハウスのオレンジピール・チョコレートがけ
ほろ苦いチョコレートと洋酒に漬け込んだようなオレンジピールとの組み合わせが絶妙でした。

ベルギーといえばチョコレート。
ゴディバは食べたことがあるので、ノイハウスを買ってこようと思ってました。
アントワープで1時間の自由時間があった時にお店を教えてもらいました。


何個か買っただけでも、あっという間に金額は膨らむ。
いくら現地で安いといえども王室御用達です。
ベルギーの人もお使い物やプレゼントとしてしか買わないとか。

日本でのneuhausノイハウスのサイトで確認したら、→こちら
お値段は2倍以上。
もっと買えばよかった。

1857年ベルギー・ブリュッセルで誕生した「ノイハウス」
当時チョコレートの原料であるカカオは、薬と同様、薬剤師にその扱いが任されており、一般の菓子店とは区別され薬剤師のいる店に置かれていました。
スイス人の薬剤師であったジャン・ノイハウスは、チョコレートを販売するだけでなく、意欲的に新しいレシピを研究し、チョコレートの美味しさを極めることに没頭。
その情熱は父から息子のフレデリック・ノイハウスへと受け継がれ、
1895年にチョコレートの専門店“Confiserie et Chocolaterie Neuhaus-Perrin”を創業するに至りました。


その後ベルギーワッフルも食べてみた。


アムステルダムでの最後の夜、スーパーを教えてもらった。
ロータスのクッキーでも買おうかと出向いたら、
JULES DESTROOPER と印刷されたクッキーの箱を発見。


なんとなく箱のデザインが洒落ててセンスいいように思えた。
どんな味か食べたことがなかったので味見として2箱購入。
1箱2ユーロもしなかったと思います。

それがめっちゃ美味しい!!
もっと買えばよかった。
Jules Destrooper でネット検索したら、日本では1箱398~500円程度で販売されているようです。

ベルギーで一番美味しいビスケットといわれている王室御用達ブランドでした。
昔ながらの製法を変えずに、着色料保存料は使わず良質なバター他天然の上質な素材を使ってるそうだ。

Jules Destrooperジュール・デストルーパーこちら

貿易商であったジュール・デストローパーは休日にクッキーを焼くのを楽しみとしていました。
最高級の生地に貿易の商品であるアフリカやアジア産のスパイスを混ぜ、特別のレシピを編み出します。
アーモンド・シンの誕生です。
このクッキーを年末のプレゼントとして顧客に贈ったところ、たちまち大評判
1886年、ジュール・デストローパー・クッキー店がベルギーの町ローに開店します。
その4年後、デストローパー氏は第2のクッキーであるバター・クリスプを創作します。
1911年、アーモンド・シンはパリの国際食品見本市で栄誉ある金メダルを受賞。
1999年には王室御用達業者に認定され、ジュール・デストローパーはベルギーを代表するプレミアムクッキーの老舗としての地位を築いています。


たまたま何種類かのクッキーがあるなかから
賞を得たアーモンド・シンをセレクトできて、
私の直感もまんざらでもないやん、と、ちょっと自慢しておきます。

クレラー・ミュラー美術館

2011-01-26 | 旅・オランダとベルギー
今晩のNHKのクローズアップ現代は日本の建築家ユニットSANAAだった。
妹島和世さんのS AND 西沢立衛さんのNから名づけられたそうだ。

去年2010年プリツカー賞を受賞されたニュースで初めて知った存在でした。

数年前娘夫婦が、金沢21世紀美術館へ行ってよかったと話していた。
その時は知らなかったけれど、
この金沢21世紀美術館で、2005年毎日芸術賞、2006年日本建築学会賞作品賞を受賞されている。
やっぱり若者の感性にはヒットするんですね。
いつか行って見たいです。

現在、世界のあちこちで依頼をうけ進行中の建物はたくさんあるが、
ルーヴル美術館ランス別館が2012年開館予定だとTVで写っていた。

美術館が今までの既成概念と違った建物や雰囲気の中にある、
ということで、今回の旅で見たオランダの「クレラー・ミュラー美術館」について書きます。



アムステルダムから東へ80kmのところに、オランダ最大の自然保護区「国立公園デ・ホーヘ・フェルウェ」があります。

ゲート入場してからバスで10分ぐらい?
うっそうとした森の中に「クレラー・ミュラー美術館」があります。

国立公園のみなら入場料7.5ユーロ、
公園とクレラーミュラー美術館両方なら15ユーロです。
275点以上のゴッホ・コレクションを所蔵しているにちなんで、ゴッホの森と呼ばれたりするそうだ。


アムステルダムのゴッホ美術館と双璧をなす2大ゴッホ美術館ですが、
アムステルダムから距離があるので、普通のツアーではなかなか組み込まれてないそうだ。
今回のツアーで、ベルギーが4回目だという方から聞きました。

大きなすりガラスから柔らかな天然光を取り入れ、壁が白で静穏な空気が漂います。


珠玉の作品をじっくりと鑑賞できて、撮影も自由です。
    

 

野外に広がる25ヘクタールの彫刻庭園では、ロダン、ヘンリー・ムーアらの作品を鑑賞しながら散策を楽しめます。


ちょうどこの時、遠足なのか、10代前半の男女学生が彫刻庭園を見学に来ていた。
小雨程度では、誰一人傘をさすものはなかった。


この美術館内カフェテリアで食したランチは、
サンドイッチとビールで7.4ユーロ、美味しかったです。

2500円+10ユーロの返金

2011-01-24 | 旅・オランダとベルギー
今回のオランダ・ベルギーへの旅は、往路KLM直行便に乗れず最初のホテル着が6時間以上遅れました。
それで夜食用サンドイッチ配布がキャンセルになったからと1000円づつ返金を受けました。

先週末旅行社から速達が届きました。
事情によりユトレヒト観光ができなかったので2500円返金しますという案内だった。


旅の日程順に沿って書く予定だったけど、
なかなか先に進まなくて友人から何があったのと電話で聞かれる始末。
それほどたいしたことではないのに、
あまりに引っ張るのもどうかと思われるので先に書きます。

ブリュッセルで2泊してオランダに入り、残り2泊はアムステルダム。
スキポール空港近くのラディソンBLUエアポートホテルで連泊することになってました。

4日目は朝8時ごろ出発でオッテルローへ行く予定でした。
通称ゴッホの森と呼ばれるデホーヘフェルウェ国立公園内にある美術館見学。

朝6時半モーニングコールがあり、続いてすぐに添乗員さんから電話がありました。
部屋に二人ともいるかどうかの確認でしたけど、
何で?

7時からの朝食を済ませて、ホテルロビーで日本への絵葉書投函をホテルマンに依頼。
何かしつこく部屋番号とか聞かれた。
カウンター横に警察官が立っていた。
すでに10日は経過しているのに、いまだ絵葉書届かず。

8:10出発のつもりで地下の駐車場前ロビーに降りていくと、
1Fのロビーに集合場所を変えますと言われました。
警察官が顔を見たいと言っているので1列に並ぶよう指示されました。


バスを停めた駐車場でアジア人女性の死体が見つかったんだそうだ。

この夜ホテルに宿泊したアジア女性はうちらのグループだけ。
それで朝早くから居場所確認とかされてたらしい。
グループ内の女性は皆健在でした。
誰も死んでません。
他殺か事故死かこの時点では不明だったし、その後も教えてもらっていない。

バスの停まった駐車場は調査のため立ち入り禁止。


ということはバスが出せない→観光に出発できない
バス会社が新たに回送してくれているバスが到着するまで待たなければならない。



結局午前10時ごろの出発となり2時間近くウロウロ、ゴロゴロしていた。
そのため美術館到着が昼前となり、美術館内カフェテリアで各自昼食となり10ユーロづつが支給されることになった。

本来ならば美術館のあとユトレヒトへ廻りこの町のレストランで昼食予定だったのだ。
ミッフィーちゃんの作者ディック・ブルーナーのふるさとです。

ゴッホの森から直にアムステルダムの国立博物館へ戻りました。
閉館時間の縛りがあるし現地ガイドさんとの約束の時間もある。
で、運転手さんの飛ばすこと、飛ばすこと。
何度急ブレーキに肝を冷やしたことでしょう。

KLMが飛ばなかった往路便、そして今朝の死体事件、
2度あることは3度ある。
皆、いや~な気持ちを振り払いながら無事到着することを祈りました。

大柄でやさしそうなドライバーさんで2日目一緒に写ってくれたのが最初の画像です。
きっと早朝から取調べとかでずいぶんお疲れだったのでしょう。

そしてこの変な事件が最終日でなくてよかった。
これでトラぶったら帰りの飛行機乗れなかったりするもん。
ちょうど中日のさほど厳しいスケジュールの日でなくてよかった。
神のご加護ありました。

★追記1/25 今朝絵葉書届きました

1/13に書いて翌朝ホテルフロントに投函依頼
1/16のスタンプが押されてあるので、じっくり調べられてたのかな?

ベルギーといえばビール

2011-01-21 | 旅・オランダとベルギー
ベルギーはビールがいろいろ種類あって美味しいよ~
しっかり飲んでおいでと言われて旅立ちました。
残念ながら今回はアートな旅でビール工場見学とかはありません。
昼と夜の食事時にビールを注文しましたが、いつも美味しかった。
ベルギー人の1人当たりのビール消費量は日本人の約3倍だと書かれてあった。


左後ろにラベルが写っている小瓶は、Chimay青瓶(アルコール度9%)
修道院で醸造されるトラピストビールで、
1862年地域の失業者を雇用する目的で作られ始めたそうだ。

中世の修道院で薬としてつくり始められたビール、銘柄は800種をこえるとか。
夜ホテルの部屋で飲むために、スーパーでもどれを買えばいいのか悩みました。
1回だけまずくて飲めなかったものがありましたが、他はどれもいけてました。


右手の建物、ビール工場と聞きました。


ブルージュとは「橋」という意味で、ローマ時代にかかっていた橋に由来します。
ブルージュの運河にかかる一番小さいボニファース橋

ここを渡り、グリュートフューゼ邸へ。
ビールを作るのに使うホップ、それ以前のハーブで大儲けをしたそうです。


玄関扉の上に彫られた文字は、
『自分で思っている以上の能力がある』
なんかカーネギーみたいですね。

このおとぎの国のような中世の街並みが、ここまで保存されたのには理由があります。

15C後半、ハンザ同盟の衰退と共に経済の発展に終止符を打つことになる。
16世紀になると北海とを結ぶ運河も沈泥で浅くなり船が航行できなくなりました。
ブルージュは歴史の表舞台から取り残され、空き家が増え廃墟のように。

目まぐるしく領有権の交代が続き、フランス、オーストリア、スペイン、フランス、オランダと支配者が変わり、「ヨーロッパの古戦場」とさえ呼ばれました。
その後奇跡的に2つの大戦で戦火を免れ、中世を封印したままの姿をとどめることができたのです。

第1次大戦後、イギリスなどからの戦地めぐりツアーがさかんになりました。
ワーテルローやそのほかの戦地をめぐった後、ブルージュに立寄る観光客が増え、この街が再発見されたそうです。

人生も街の歴史も、いつどんな風に転じるかわかりませんね。