ずっと昔のGUERLAINゲランの香水Mitsoukoです。
長いこと引き出しで眠っていましたが、やっと日の目を見ることができました。
昔からオリエンタル ウッディな香りが好きで、20年ほど前はゲランの夜間飛行をよくつけてました。
その流れでMitsoukoが手元に残されてあったのです。
時節は流れ、先週4/20濠の周りには約1000本の桜@丹波篠山城跡の記事に、
東京の青山通りは、青山氏の江戸屋敷があったことを由来としている、
と書きましたら、TMさんがコメントで
>東京の青山通りにゆかりある人といえば、カレルギー伯爵夫人となったクーデンホーフ光子がいますね。(青山みつ)
青山みつさんが気になって調べてみました。
みつさんが、ゲランの香水Mitsoukoのモデルとも言われると知り、俄然興味を持ちました。
まず、GUERLAIN のサイトを見てみると
Mitsouko ミツコは、調香師の独創性が大胆に発揮された、世界初のフルーティ シプレー系フレグランスとして知られています。
1919年、ヨーロッパが日本ブームの真っ只中にあり、極東の文化が人々を魅了していた時代。
ジャック・ゲランは新しく創作した香りを「ミツコ」と名付けました。
それは小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名。
慎ましやかでありながら、強い意志を秘めた女性をイメージした香りです。
ゲランのミツコは、100%クーデンホーフ・ミツコ由来でもなかったけれど、
時代とその存在はゲランの販売戦略に影響あったのだろうと納得できました。
クーデンホーフ・青山光子さんは、元の名を青山みつさんといいます。
あちこちのサイトで読むことができましたが、一番がってんしたのが、
従順な娘
この本を読まれた感想文が元になってたのを参考にざっとまとめてみます。
青山みつさんは、明治7年(1874)7月16日東京市牛込区納戸町で青山喜八とその妻つねの三女として生まれた。
江戸時代青山通りの北面に青山宗家、南面に分家の下屋敷があったが、 青山みつさんの青山家はもともと油屋であったそうで、系図はわかりません。
父親の喜八は商人というよりも道楽者で、賭け事や女や骨董に興味を持っていたらしい。
そのため彼の父親から廃嫡され、財産は姉と養子に譲られていた。
その養子の息子が、骨董の目利きとして有名な白州正子の師でもある青山次郎。
明治25年2月29日、
当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。
残された結婚証明書によるとハインリッヒとみつが式を挙げたのは明治25年3月16日
ドイツ貴族名鑑の記載では「明治25年12月16日入籍」
みつは番茶も出花の18歳、すらりと背が高く、目鼻立ちもはっきりとして可愛らしい、現代でも通用する美人。
元々仏教にも詳しく、東洋文化に深い理解があったハインリッヒの来日わずか16日後、
骨董商の親の言う通りにみつはハインリッヒの大使公邸の小間使いとして働き始めた。
ハインリッヒは結婚後も、みつの実家に毎月100円を仕送りしていた。
明治中期の100円は今の100万円で、 年間1,200万円の不労所得が喜八にはあったということは、みつは父親によって、異国の人「紅毛の白い鬼」へと売られてしまったってこと。
ロンスペルク城
みつこ 外国で暮らす日本人女性に捧ぐより画像いただきました。
プラハから西へ約150km。
もうドイツの国境に近いのどかな農村地帯の小さな村ポベジョヴィツェ、かつてはドイツ語でロンスペルクと呼ばれていた。
ここでみつが暮らしていたのです。
伯爵夫人としてオーストリアへ渡ったみつは7人の子に恵まれる。
彼女の子供らはみな優秀で、7人のうち3人が博士号を取り、2人は有名な作家になった。
その子供たちのうち1人が今のユーロの基礎となった「パン・ヨーロッパ・ユニオン」の創立者、リヒァルトである。
彼はあの有名な映画「カサブランカ」のモデルにもなったらしい。
みつは、1941年8月27日、太平洋戦争も戦後の混乱も知らずに、オルガ1人に見とられ67歳でこの世を去った。
郷土史資料で見る青山外苑前今むかし
も面白かったので一部抜粋引用させてもらいます。
青山って歴史てんこもりでした。
1.家康の邸地支給のエピソード
家康の江戸入府後、ただちに家康は家臣団の知行割(家臣団の配置)を実施。 忠成が青山の地を賜ったのはこの前後。
ある日、忠成が家康の鷹狩りに随行していたところ、家康は赤坂の上から西の方を見渡し、
忠成に向かって「馬に乗って一回りして参れ。その範囲の土地を屋敷地として与えよう」といった。
そこで忠成は馬が弊死するまで駆け巡り、広大な土地を賜った・・・というのである。
(新宿一帯を賜った内藤清成にも同様の話が伝えられている)
『寛政重修諸家譜』には「忠成すなはち馬をはせて巡視し、木に紙を結びて境界の標とす。
赤坂の麓より渋谷の西川にいたるこの地はもと原宿という。これよりのち青山宿と呼ぶ」と記されている。
2.北側の篠山藩(本家)、南側の郡上藩(分家)
現在の青山の地一帯はのち忠成から四男・幸成に引き継がれた。
補足すると当初は長男の忠俊が継いだのであるが三代将軍徳川家光の怒りを買って取り上げられてしまい、代りに弟の幸成に支給されたのである。
その後寛永9年(1632年)になって許され、忠俊の子、宗俊が再び幕府に召し出されることができた。
この時邸地の北の部分が宗俊に分与され、以後、青山通りをはさんで北に本家の青山邸、南に分家の青山邸が向き合う形となり、明治維新まで続く。
この間何度か幕府に上地(ご用地とし返上すること)したので、一部には他の大名や幕臣の屋敷も建てられたが、大半は両青山邸が占め続けた。
忠俊の子孫は天明5年(1785年)丹波篠山藩主となり、幸成の子孫は宝暦8年(1758年)美濃郡上藩主となり、幕末を迎えた。
明治2年、幸成から数えて11代目の幸宣の時、版籍奉還が行なわれた。
3.善光寺
4.将軍も賞賛した百人町の星灯籠
5.屋敷跡の大半は青山墓地へ
約8万4千余坪の青山家屋敷跡地は明治5年、神式による墓地とされた。
まもなく神仏ともに葬ることになり、東京府、市へと管理が受け継がれた。
(昭和10年から正式には青山霊園という)
旧跡に指定されているのは明治の元勲大久保利通の墓だけであるが、日本近代史に名を連ねる政治家、文人、軍人、実業家、芸能人、科学者等々列挙にいとまがない。
6.軍靴の音響く・・・青山練兵場
7.市電が開通、商店街が形成される
明治37年に、三宅坂から青山4丁目(外苑前のあたりまで)路面電車(市電)が開通、以後路線は拡大。
明治の終わりには今の渋谷から内堀通りまで走っていた。
8.青山脳病院と斎藤茂吉居住の碑
明治36年、斎藤茂吉、北杜夫兄弟の祖父によって今の南青山4丁目に大規模な精神病院が建てられた。
9.華やかなりし青山会館
蘇峰徳富猪一郎の寄付によって、皇室中心思想のもと皇国民としての徳性と知識の向上、社会教化を目的に創設され、大正14年に開館。
大講堂には2千人もの人が収容できたという。現在跡地は青山第一マンションとなっている
10.陸軍大学校
エリート士官の養成のため明治16年参謀本部構内に設置、24年に青山北町(今の北青山)1丁目へ、昭和20年の終戦まで存在した。
現在この場所は区立青山中学校となっている。
11.華族のお嬢様が集う女子学習院
永田町の御料地にあった学習院女学部本館が火災にあったのを機会に青山連兵上跡地(今の秩父の宮ラグビー場のあたり)を借り入れ、大正7年に新校舎を竣工。
同時に学習院学制改正により学習院女学部は女子学習院となった。
昭和20年5月に空襲により焼失。戦後は豊島区へ移転。