画像は島根県安来市植田町のかわらけ谷横穴墓から出土した金銅装環頭大刀(こんどうそうかんとうたち)です。
古墳時代後期末(6世紀末~7世紀初頭)のものだそうです。
古墳から発掘される大刀は、千年以上の時を経て錆びた鉄の塊となり、木で作られた鞘なども腐って失われるのが一般的です。
ところがこの大刀は金銅(鍍金を施した銅板)をふんだんに使った外装や刀身、
木で作られた鞘がすべて完全な状態で、発見時に鞘から引き抜くことができました。
出土品としては全国で唯一当時のままの姿を伝える装飾付大刀として、重要文化財に指定されています。
刃物の中で最高と称される日本刀。
日本刀の美しさが、平安時代後期から 鎌倉時代初期にはすでに海外の好事家などにも認められており、大事な輸出品の一つとされていました。
日本の鉄の加工技術はすごいものがあったのですね。
鉄のルートから見た古代史(その1)は、出典元・直さんの許可を得ることができましたので、削除せずに続きを書くことができるようになりました。
直さん、どうもありがとうございます。
3 朝鮮半島渡来第二陣産鉄族流入移動
☆天孫の進出によるオオクニヌシの出雲国ゆずり
☆神武東征による大和進出
・オオクニヌシの子タケミナカタに代表される一族は、諏訪に移動がニギハヤヒ系の一部、
長脛彦一族は、安曇続などを頼り、東方に移動したと考えられる
・ニギハヤヒ:すなわち物部氏の祖先一部残留、これが後の蘇我、物部の戦いにつながる
4 ヤマトタケルの遠征
☆ヤマトタケルは戦いというよりも、渡来系産鉄族の第二陣と第一陣の再結集を呼びかけるための行動であろう。
遠征経路は実に産鉄地域に一致する
ヤマトタケルは息吹山にて負傷した
呼びかけに応じない一族がさらに北方に移動し、初期産鉄族や、北方からの流入民度と混血しまい古代エミシをなしたのではないだろうか
私は大阪で生まれ育ったので、住吉大社や東大阪の石切神社も何度かお参りに行ったことがあります。
当時は古代史に全く関心がなかったので、ただ単に初詣。
しかし、その神社の成り立ちに興味を持ち始めると、
不思議の連続でした。
まず「石切さんの神さんは長髄彦」と言い伝えられていますが、国賊第一号にランクされた人物だったらしく、表にはでてきません。
「すみよっさん」は、遣随使・遣唐使の時代、古代大和王権の外交・航海の守り神でした。
ここの祭神もイマイチ理解しがたく、いずれ機会をみて、その二つの神社についてはご紹介したいと思っています。
また奈良県三輪にある大神神社、ここのニギハヤヒ。
どこから来て、その後どうなったんだろうとずっと気になっていました。
このたび直さんの「古代産鉄族の移動」によってかなりスッキリしました。
熊襲や隼人、蝦夷は学校で習う歴史に出てきましたが、天孫族に「退治」ということで追いやられたのに、ほぼ間違いないのではないかと思われました。
大和の中枢にいた人物はその存在さえも消された?
今夏8/8出雲大社特別拝観の記事でも書きましたが、
美智子皇后陛下御歌
「出雲大社に詣でて
国譲り 祀られましし 大神の
奇しき御業を 偲びて止まず」
出雲の存在と国を譲ったということを、すでに皇室は認めているということですね。
引き続き、ニギハヤヒも認めて欲しいものです。
2000年ほど前、この国にはいろんな所から稲作や産鉄の技術を伝えた部族が暮らしていた。
各地にだんだん部族から国としてのまとまりがでてきつつあった。
朝鮮半島渡来第二陣産鉄族流入移動の時期、
神武天皇は東征し大和に入り、長髄彦を滅ぼしニギハヤヒの娘を正式な皇后として迎えた。
出雲のスサノオが天孫族に国を譲ったのは。神武東征の後か先かはわかりません。
3世紀前半、場所は不明ながらも卑弥呼は存在した。
祟神天皇は3世紀後半から4世紀初頭が在位期間とされています。
となると神武はそれよりも半世紀ぐらい前でないと辻褄が合わなくなりますね。
卑弥呼と、神武天皇とスサノオってほぼ同時代?
それとも「はつくにしらすすめらみこと」という同じ名で
神武=祟神だったとしたら、卑弥呼亡き後4世紀初頭に大和平定かも??