今日は暦で「庚申(かのえさる)の日」を確認してでかけたのでした。
四天王寺庚申堂、さぞかし賑わっていることであろうと…
GWは 皆さんそれぞれ出かけるところがあったのか
それとも最近は庚申信仰は衰退したのか
実際、周りでもお参り行ってますねんという人はいない。
四天王寺南大門から南へ「庚申街道」数百メートルで東門
つきあたりに南大門が写ってます。
大阪四天王寺庚申堂は、日本で最初に庚申が現れた地だそうで
京都の八坂庚申堂・東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の1つです。
境内には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)祀るお堂があり、
石造はあちこちに見られました。
庚申の申に通じるとして、庚申尊の神の使いとされたことに由来します。
庚申の縁日には三猿堂前で「お猿御加持所」がもうけられています。
病が去る、病に勝る=サル の言い伝えから、
木彫りの猿像を肩などの体の悪い部分に当ててもらう加持を受けれます。
最近PCのせいで右腕から肩こりがひどく、肩甲骨あたりもこわばってます。
お猿加持は受けれましたが、なんとなく写真撮るのが憚られ遠めで写しました。
ネット検索でもらってきました→
境内には「北向きこんにゃく(北を向いて黙って食べる厄落とし)」の店もでてました。
ものは試し、いただくことにしました。
よく煮込んだこんにゃく、なんと3切れが300円は想定外だった。
北方位をスマホで確認して一切れをいただいて、残り2切れはお持ち帰り。
細かく切って、チヂミの粉で人参とネギ細切りと混ぜて焼いて食べました。
本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)童子
秘仏で拝観することはできません。
縁起によると、大宝元年(701)正月七日庚申の日、
豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈った所、
帝釈天のお使いとして童子が出現し除災無病の霊験を示され
以来1300年庚申の日及び前日(宵庚申)に本尊に祈れば必ず一願が叶うと尊崇されています。
青面金剛は、大日如来の命を奉じ、忿怒の相を現し、諸悪魔を降伏する明王の仲間。
身は青く、目は血のように赤いとされる。
手は、2手、4手、6手、8手があるが、次第に6手が標準になっていった。
6手も二通りあり、中央の手が剣と人身(ショケラ)を持つものと合掌しているものとがある。
詳しくは→
こちらでどうぞ
庚申信仰とは
中国の民間信仰である道教に発するといわれている。
道教では、人間本来の寿命(一説では125歳)を全うできないのは、
人間の体内に住んでいる“
三尸”(さんし)という虫のためであるとする。
庚申の夜、三尸は人が寝ている間に体内を抜け出し、
天に昇り天帝にその人の罪過を報告する。
天帝はその罪過を判断し、その人の寿命を短くする。
少しでも長生きするためには、この三尸を天に昇らせなければよい。
そこで、庚申の夜は眠らずに過ごそうというのが、「守庚申」「庚申待」という行事である。
この行事は、平安時代に宮中で行われだして室町時代には民間でも行われるようになった。
室町時代には、将軍家を中心に和歌などを作りながら庚申待をしていた様子が資料等から読み取れる。
これは戦国時代になっても続いていたようだ。
信長が庚申待をしたことを示す記録(義残後覚巻一)
光秀は、酒の席で信長から諸将の前で激しい侮辱を受けたために、光秀の心に謀反の渦が巻き始めたと言われている。
酒の席というのはこの庚申待の席だったようだ。
寝ずに起きていなくてはならない庚申待ちはしたくないが、その効果だけはほしい。
こう考える人々が、元禄時代(1690年頃)には結構な数にのぼったようだ。
需要があれば、当然それを供給する人が現れる。
庚申待の代行業、当時は“庚申の代待(たいまち)”と言われていた。
庚申の日になると、大声で「庚申の代待」と叫んで町を歩いた。
声がかかると、家人から米や銭をもらって代待をした。
室町時代から次第に仏教的色彩が強いものになった。
江戸時代には、主尊として青面金剛が誕生し石塔も多く造られた。
この信仰に神道も加わり、猿田彦が主尊として現れた。
明治時代もこの信仰は大きく衰えることはなかった。
昭和とくに戦後は、衰退したが、現在も庚申信仰は細々だが続いている。