大阪駅南側の古地図です。
1909年北の大火 被災地がしめされています。
青で記した桜橋、
今は川は埋立られて、その地名が少し北側の国道2号の交差点に残ります。
先の記事で触れた堂島北ビルは曽根崎新地1-3-17
いわゆる北新地の桜橋交差点すぐ南。
国道2号線が曽根崎通りで、今は地下にJR東西線が走ってます。
鍼灸治療院通院でも記した大阪天満宮駅の次が北新地駅。
開業が1997年3月8日でした。
学校を卒業して就職した会社が駅前第2ビルにありました。
大阪南部に住んでたので南海高野線で難波、地下鉄乗り換えで梅田へ。
当時、阪神百貨店裏の南側は終戦後の掘建小屋が撤去され再開発真っ只中。
1970大阪万博誘致した折に、大阪玄関口整備に迫られた。
天王寺公園南東角にあるお寺とバーター取引したそう。
戦後キタもミナミも飲食繁華街は在日エリアでしたから。
それを記録したブログ記事はお寺の要請あり消してます。
ちょうど駅前第3ビルの建築が始まった頃でした。
四つ橋線の西梅田側には丸ビルは数年前にできてました。
御堂筋線梅田駅からだと、工事現場傍通り眺めながら通勤してました。
あの時代、新地へ行くのは暗くなってからで上のネオンばっかり見てた。
道がこんなに曲がってるのに注意してなかったです。
でも今はブラタモリで教えてもらったことに、
街中の曲がった道は川の名残り。
今は川無いですから調べてみました。
近松門左衛門ゆかりある地をめぐるサイトより
歴史を辿ると、Wikipediaには
貞享・元禄年間に河村瑞賢によって河川改修が行われ、1685年(貞享2年)に堂島新地(左岸)、1708年(宝永5年)に曽根崎新地(右岸)が拓かれ、米市場や歓楽街として発展。近松門左衛門の『曾根崎心中』や『心中天網島』にも登場する。1909年(明治42年)に北の大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、1924年(大正13年)には下流側も埋め立てられて消滅した。
※ 1707年(宝永4)10月宝永大地震・亥の大変とも呼ばれる。
地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降りと呼ばれる
1909年(明治42)7月31日
北の大火はずーっと東の空心町2丁目で出火し、今の北区の大半が焼失。
広範囲に被害出ましたが死者は3名、負傷者689名。
その時の火災実況図が記事トップに貼った画像です。
瓦礫を蜆川(曽根崎川)に埋め立てた。
そして国道を新設し、曽根崎新地東側が梅新交差点。
国道1号終点で国道2号の起点となったそう。
考察の続きは
北の大火があるなら、南の大火もありました。
1912年(明治45)1月16日難波新地の妓楼で出火。
死者4名のうち2名は消防夫と記されてます。
今の住所は難波4丁目付近が出火元。
西風に煽られ羅災面積33.3ヘクタールで生魂神社や榎神社も被災。
2012-1-2上町台地を歩き榎神社立ち寄りました。
昭和20年の大空襲でも焼け残った榎大明神です。
1912年から60年後1972年(昭和47)5月13日
千日デパート火災はよく覚えています。
死者118名、負傷者81名の大惨事だった。
千日前ビル火災地はかつての千日墓地。
処刑場や火葬場だったと話題になりました。
今大阪駅西側エリアの開発進んでますが、そこも元墓地。
ものすごい数の埋葬された人骨出土してましたね。
火災防災には十分留意してほしいものです。
難波といえば
2008年10月にキャッツ難波店で火災で16名焼死。
浪速区難波中3-3-23
昔は大阪球場あったあたりですね。