秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

チュニジアのオリーブ

2010-02-28 | 旅・チュニジア
オリーブの石鹸の他に、1本だけオリーブオイルを買ってきました。
割れずに持ち帰ることができて一安心。
添乗員さんの話では、大人のオムツを持っていけばトランクに詰めるビン類を包んで安心だそうです。
次から持っていこうと思います。

オリーブの枝は、ハトとともに平和の象徴とされることが多く、国際連合の旗やイタリアの国章などにも使われています。
旧約聖書の「神が起こした大洪水のあと、陸地を探すためにノアの放ったハトがオリーブの枝をくわえて帰ってきた。これを見たノアは、洪水が引き始めたことを知った」との一節に基づいているそうです。

ブドウと並び、オリーブは人類によって最初に栽培された植物の一つであると言われています。

その歴史はあまりにも古く、誰が最初に果実を口にしたのか、
塩や苛性ソーダに漬けて保存することをどうして思いついたのか、
オリーブの実をつぶしてオリーブオイルをつくれるとどうして分かったのか、
残念ながらわかっていません。

  
   この図は小豆島のオリーブ園で2008年4月に撮影しました


地中海一帯を産地とするオリーブの木は、12,000年前まで遡ると言われています。
オリーブ栽培はペルシャ中部、メソポタミアからエジプト、フェニキア、さらにギリシャへと広がっていきました。
チュニジアには紀元前8世紀に、フェニキア人によって持ち込まれたそうです。
ギリシャ、ヘブライ、カルタゴ、ローマそしてアラブなどの地中海文明が、この不滅の木を伝播、発展させてきました。


オリーブ生産国の98%以上は地中海に面しています。
今までイタリアやスペインを旅していて、オリーブが栽培されているのはたくさん目にしました。
しかしチュニジアほど多いのは驚きでした。
最終日スースから首都チュニスへ戻るまでの2時間ほど、車中から見える景色は右も左もオリーブが延々と続きました。


   

   


チュニジアのサヘル地域は紀元前、ハンニバルの時代から「オリーブの交易」で栄え、ローマ時代も本国の繁栄を大いに支えました。
チュニジアに点在するローマ都市遺跡のほとんどに、オリーブオイルの古代使用圧搾機が見られます。

オリーブ・オイルの最大の特質は、
生の果肉から非加熱で果汁を絞って放置しておくだけで、自然に果汁の表面に浮かび上がり、これを分離することで得ることができます。

優れた実用的技術をもつローマ人は、油絞りの技術を開発しスクリュープレスは当時占領地だったチュニジアの各地に残されています。

現在のチュニジアはイタリア、スペイン、ギリシアに次いで世界第4位のオリーブオイル産出国だそうです。

イタリアはオリーブオイルの生産量も多いけれど、同時に消費量も多い。
スペインとギリシアから大量のオリーブを輸入し、自国の品種とブレンドしてイタリア産オリーブオイルとして輸出している場合もあるそうです。
そしてチュニジア産のオリーブオイルもイタリアで瓶詰めされてイタリア産となると、添乗員さんが話されてました。

   

オリーブの植林地の境界線にサボテンが使われているようなかんじですが、そこにビニール袋のゴミが多数引っかかったままであるのが目に留まりました。

海流に乗って流れ着くゴミ同様、サハラ砂漠のモロッコでもチュニジアでも、中央アジアのウズベキスタンでも、風で飛んできたのか、土に返らないプラゴミの散乱に心が痛みました。


オリーブオイルのウンチク
1.古代エジプト王ラムセス三世が供物として、ヘリオポリスの町周辺に広がるオリーブ畑を太陽神ラーに捧げたといった内容がBC12世紀のパピルスに記してある

2.オリーブ・オイルの使用はクレタ島で始まったと広く信じられている

3.イエス・キリストの「キリスト」は救世主を意味するが、原義は「油で聖別された者」の意
聖別にオリーブ油が使われたと見られるほか、聖書にオリーブ油が頻繁に登場するのはパレスチナの文化にオリーブ油が根付いていた証拠である

4.ジェノアと並ぶ貿易量を誇るヴェネチアは、オリーブを入れた壷をより多く運べるようにする為、平らな船底を持つ特殊な船を開発した

旅の洋服

2010-02-28 | 旅・チュニジア
チュニジアから帰ってすでに20日が過ぎました。
日々の出来事に追われ、いつまでも感傷に浸っているわけにもいきません。
そしていつものごとく、どんどん忘れていきます。

しかし旅立つ前に、どの洋服を持っていくか悩む話を書いたので、次旅立つ時のためにも記録を残しておくことにします。

基本的にツレと旅立つのはお正月があけてから3月連休までの旅行代金が底値の時です。
南半球へ行かない限り冬支度です。

コートを着る季節の旅はポケットも増えて便利だし、貴重品もコート下に隠せるので安心です。
しかし外で自分の姿を入れて撮影するといつでも同じコート姿となってしまいます。
それでコートの着替えを持っていって気分転換します。

大阪を旅立つ時もコートが必要だし、今回はサハラ砂漠のイメージで中綿入りのライトブラウンショートコートを着ていきました。
連れも同じようなキャメル色コートをセレクトしていました。
飛行機の中でブランケットかわりにもなります。
あまり厚手のコートや重いものは脱いだ時に邪魔になるので避けます。

中に着ているフリースシャツは、たいていの国へ連れて行ってます。
1999年のエジプト旅行前に購入しすでに10年愛用しています。
両胸にフラップがボタンで留めるポケットがついていて安心だし、左胸側にはさらにファスナー式ポケットもついてます。
胸ポケットは耳栓やデジカメ、あるいはイヤフォンガイド機器なども入り便利です。

もう一つのコートは、気温が高いことが予想されたので、さらに薄手で裏無しダスターコートを持って行きました。
  

中に着たものは、長袖Tシャツの上に半袖Tシャツを重ね、その上に2枚仕立てになった少し厚手の綿シャツ。
朝の寒い時間帯は、この上にカシミアカーディガンを羽織りました。
カシミアは薄手でかさばらず暖かいので今回も役立ちました。

ボトムは黒のストレッチパンツをはいて行き、ユニクロのウォームエフェクトジーンズを持って行きました。

インナーはできるかぎり薄手で重ね着ができるものを選んでいます。

シチリアへ行った時は直前にインフルエンザに罹り、治ってすぐだったためタートルネックのセーター着ていってエライ目に遭いました。
飛行機の中が暑くて、脱ぐわけにもいかないし。
首まわりが開いているものにしてスカーフなどで調節するべきだと思い知りました。

カーリングストーンから墓石まで

2010-02-25 | 世情雑感
冬季オリンピックになったらおなじみのカーリング。
きれいのお姉さんたちの真剣な表情が印象的です。

商売柄、あのカーリングストーンがどんな石なのか気になって調べてみました。

赤.黄.青の取っ手をつけた円盤型の石のお値段は1個10万円はする高価な物なんだそうだ。
1チームが8個を使用し、カーリング競技を行うためには16個必要となり、
なんと1セットで160万円!

約20kg同士がぶつかるのでかなりの強度が求められ、
さらに氷上という低温環境がさらにストーンに影響を与えます。
氷の上で石が水を吸って、水が再び凍ったときに膨張し石が割れてしまうそうだ。
そのため高密度で強度と滑りやすさに優れたスコットランドのアルサクレッグ島特産の花崗岩が使われています。

石の資源保護の観点から採石は20年に一度しか行われない。
近年では2002年に採石されており、バンクーバーオリンピックでもこの石が使われています。

ちなみに、1800年代は60kgの重さがあり、あまりに重くて氷が溶けたり割れたり。
すると湖に沈没してそのまま放棄されたこともあったそうです。
ストーンも使いやすいように進化してきたようです。

で、カーリングがいつから始まったかというと、
1511年の刻印のあるストーンがスコットランドのスターリング地方で発見されています。
北欧の人々が大陸の凍った池や川の氷上で石を投げて遊んだのが始まりのようです。

16世紀のカーリング風景
  
Winter Landscape with a Bird Trap, by Pietr Bruegel (the elder), circa 1565)

花崗岩は、特に石材としては御影石とも呼ばれます。
石の鳥居や城の石垣や石橋に用いられるほか、道標や三角点・水準点の標石にも用いられてきました。
近代の建造物の例としては国会議事堂の外装が全て国産の花崗岩で出来ています。
そしてもちろん墓石も。
今夕のニュース番組で墓石産地偽装も報じられていました。

花崗岩は地球上ではごくありふれた存在だが、太陽系の地球以外の岩石天体にはほとんど見出されないというのも興味深い。
花崗岩の形成に水の関与が必要で、海の存在する地球でのみ花崗岩が大量に作られてきたものと考えられているそうです。

加賀梅酒

2010-02-24 | 旅・関東&中部&北陸地方
加賀文化村という大きな観光ショッピングセンターへ立寄ったとき、酒の蔵で見つけた梅酒。
「ランキング1位」には弱い。
日経新聞の梅酒ランキングNo1獲得、大人気というのにそそられてしまった。
300mlで1,100円と少し高いのが気にいらなかったけど、どんな味なんだろうとつい買ってしまった。

加賀梅酒で調べてみたら、全日空国際線ファーストクラスの厳選梅酒として平成14年9月から今も使用されてるらしい。

北陸産青梅「紅映(べにさし)」と霊峰白山の伏流水を用いて、じっくり熟成させ、まろやかな甘みと味わいに仕上げてある為簡単に増産が出来ない梅酒なんだそうです。
まろやかな旨さと上品な切れ味、なんだって。

味見はアズキさんが来られるまで我慢しますから、早く来てください!


製造元小堀酒造店は清酒「万歳楽」をつくってて、そこのサイトでは300mlが819円だった。
あの加賀文化村では1,100円。
いくら観光客向けとはいえちょっとひどいわ。

他の酒店でも720mlが1500円前後、一升瓶が3000円程度だった。
しかし送料が別途かかる。

でもセブン-イレブンネットで注文すれば、近くの店舗へ4日ほどで届き送料無料と書かれてました。
ここで購入するのが一番安そうです。

中国製って・・・

2010-02-24 | ネットオークション
もうすぐ上海万博始まりますが、びっくりするほど発展した上海の街。
実際に訪れてみると、砂上の楼閣にならなければいいけどと危惧することもあります。
網の目のように走る高速道路、橋げた基礎工事にコンクリートではなくてゴミが詰められていたとか、あまりに簡単に完成する工事をみていると大丈夫かなと不安になります。
あの上海のリニアモーターカーも2年前に乗った時、日本の新幹線のような重量感がなくて大事故に繋がらないかとドキドキものでした。

中国製と聞くと、安かろう悪かろう的なイメージがあり、とくに毒餃子事件は衝撃的でした。
食品となるとゼッタイ買わないという方もおられることと思います。

かつての日本の高度成長期の時代のように、今や中国製は世界を席捲して世界の工場的スタンスです。
そして観光客としても世界的にじゃんじゃんお金を使ってくれるお金持ちの国です。

こうした発展を遂げる以前の中国製品にはとても手の込んだものがたくさんあります。

  
これは象牙の置物です。
顔もやさしくて丁寧に彫りこまれています。
年代を経ているため、象牙が少し黄ばみ彫り溝に少し埃がたまっています。
象牙★中国製/女人像置物、ただいま1,600円。


  
すずり裏に彫られた亀がユニークです。
唐硯★未使用中国産石硯(すずり)彫琢・龍と麒麟/亀
彫琢は龍、硯側に麒麟?、硯背に亀、硯銘入りなんですが、産地は不明。
こうしたすずりに不案内なものでも端渓なら知ってます。
どこかに書かれてないか丹念に調べましたが分かりませんでした。
どっしり重たいので石には間違いなさそうだし、手触りもいいです。

   
胡開文★未使用 中国産茶墨
古式の墨の製法を守っている製墨者、胡開文の名が入り金箔がほどこしてあります。
墨のブランドのようです。
清代製墨の「四大家」は曹素功、汪近聖、汪節庵、胡開文。
清代後は曹素功、胡開文が市場を席捲し、新中国成立後は公私合営、国営となったようです。
改革解放後、また民営化されました。

2/28(日)終了の1円スタートオークションは珍しいものを出品中です
   こちらから

2並びの時

2010-02-22 | 保護観察
今日は平成22年2月22日、「2」が5つも並ぶ珍しい日です。
午後2時22分とさらに2が並ぶちょうどその時間、福井刑務所の中に居ました。
所内見学を終えて説明を受けた部屋に戻り、携帯の電源入れたところでした。


  
この携帯をお持ちの方はいつも記念に電車の切符を買われるそうです。
午後10時なら22時と表示されるので夜切符買いに行くつもりと話されてました。

  

  

福井刑務所は初犯の刑務所で、総合職業訓練所的特徴をもっています。
全国から懲役中に職業訓練を受けるため選抜メンバーが集っているそうです。

しかし2/22現在入所者400名と収容定員476名よりを下回っています。
これは民間刑務所ができたため、そちらに移送されたからです。
人員が減ると作業が納入期限内に間に合わなかったりして、その後契約が打ち切られたり困ることも多いと聞きました。

収容者の1日の食事は、3食の合計材料金額414円。
お誕生日はおまけのデザートなどがついて60円加算されます。

1日3食ありつけて、寝るところがある。
このため無銭飲食やコンビニでちょっとしたものを万引きするといった罪を重ね、収容される高齢者が年々増えているそうです。

チュニジアのアラブ

2010-02-21 | 旅・チュニジア
旅から帰って10日も経てばどんどん記憶が薄れていきます。
下の画像もたぶんスースの街で撮影したよな気がする程度のかすかな記憶・・・
   

ローマ時代の遺跡は、あともう一つ内陸部で見てきました。
   

   
スペイトラの遺跡、調べてみたら7世紀に造られたチュニジアでは最も新しいローマ遺跡と書かれてあった。
大浴場、大劇場、神殿や上下水道などインフラの整った遺跡です。
ローマ時代の道路がそのまま使われていて、今でもその下には下水管が埋まっているらしい。

強大なローマ帝国もやがて東西に分裂し、
東ローマ帝国にあたるビザンチン帝国がこのあたりを支配するようになりました。
7世紀半ば、中心地をカルタゴから内陸部にある修復・拡張したスベイトラへ移したんだそうです。

ところがその数ヵ月後、アラブがやってきて市街地を襲撃・略奪。
このスベイトラ遺跡はローマ・ビザンチン最後の遺跡となり、チュニジアはアラブ人が支配する時代に入っていきます。


北アフリカにおけるイスラム教発祥の地として知られている古都ケロアン
   
高さ8m厚さ2mのこんな城壁が、3.5km続いています。
古い中世の街並みにはアラブの雰囲気が残っていて、都市遺跡が世界遺産に登録されています。

   

669年ウクバ・ブン・ナーフィー率いるウマイヤ朝アラブ軍が、アラビア半島から攻め入りここケロアンでビザンチンを破り建設された街です。
伝承によると、そのウクバが勝利を祝って地に槍を突き立てたところ、
突然そこから泉が湧き出してきたという。
これがメッカの聖なる湖と地下で通じているとして、ウクバはこの地が神の加護を受けていると信じ軍事基地として街を築いた。
    
   
   
メッカに繋がるとされる井戸「ビル・バルータ」
ラクダがいて、井戸の周りをぐるぐる回り水車が回転し水が汲み上げられる。
ラクダは一日交替で毎朝ここへ出勤してくるそうだ。

   
   
ケロアンのメディナに建つ、アフリカ最古のモスクであるグランド・モスクには、現在もイスラム教第4の聖地として数多くの巡礼者たちが訪れています。
メッカ、メディナ(サウジアラビアの町の名前)、エルサレムに次ぐイスラムの4番目の聖地なんだそうです。
しかしこのモスクの中には入らなかったようだ。
だって写真が1枚も残ってないから。

   
シティ・サハブ霊廟には預言者ムハンマドの同志だったアブ・ザマ・エル・ベラウィが祀られています。
ここで竹の立て笛を買いました。


  
9世紀アグラブ朝時代に造られた貯水池は、当時14の貯水池があったそうだ。
世界最高の技術といわれていて、現在もケロアンに住む人々の水源として利用されています。

   
チュニジアのちょうど真ん中あたりにあるガフサという町へも立寄りました。
ウキペディアによると、旧石器時代からの歴史を持つチュニジア最古の町、
町の中心にはローマ時代のものと推定される天然湧き水を使用した浴場が存在する、と書かれています。
しかし、浴場ではなく貯水池だとガイドさんは話されてました。
  
そこへ現地の少年が飛び込みました。
観光客がくるとテンション高くなるのかな。
   
     

宅配便2つで届いたギフトカード

2010-02-20 | 日々是好日
先日、「たんすケータイ」不要携帯電話で1000円のギフトカードが100%の確率で当たった話を書きました。

今日、宅配便2つとしてそのギフトカードが届きました。
1000円のギフトカードがそれぞれ1枚づつはいってました。

もらって文句いうのもなんですが、なんで宅配便やねん!
手渡しで渡すという必要があったのかもしれないけれど。
その送料節約してもっといいのが欲しかった。

同じ時間に、同じ住所氏名へ2つの当たり賞品、
同梱することはできなかったのか。
機械的に処理する姿勢が気に食わん。

去年の定額給付金にしても、事前に申込書が郵送され、返送後記載した銀行口座に振込まれ、そして振込んだという通知が後日郵送されてきた。

こうした郵便にするための印刷代、紙代、郵送料、振り込み手数料…
そしてそれらの作業をするため、守口市では臨時職員を雇っていた。
確か時間給が1000円を超えると聞いたような。

40円のエアーメール

2010-02-20 | 旅・チュニジア
チュニジア最後に泊まったスースのホテルで投函お願いした絵葉書が届きました。
急いでとりあえず何か書くために走り書きで、おまけに切手さかさま貼ってた。
600と印刷されてますが、0.6ディナールで約40円、超安い。

2005年春先に北西アフリカのモロッコから送った絵葉書は、同時に出した連れは届いたのに私のは届かんかった。

モロッコとチュニジア、同じマグレブの国でフランス植民地だったけどだいぶ違うね。

チュニジアのポストはイエローだった。
   

地デジ迷子

2010-02-19 | 世情雑感
いつからかTV画面右上にアナログとデジタルの表示が出るようになりました。
まだまだアナログ放送が多いけれど、来年7月で見れなくなるといわれるとあせってきます。

住所で検索するとすでに切り替わっているはずなのに、我が家ではNHKとサンテレビしかデジタルが見れない。
なぜかというと、近くに12階建ての大きなビルがあり電波障害で共同アンテナとなっているからです。

ちょうど今、地域の地デジ説明・相談会が催されていて、市民会館では担当者が2月の間だけ常駐しています。
お金をかけずデジタルを見れる方法はないものかと相談に行ってきました。

事情を説明したところ、そのビルの管理組合に掛け合うのがいいが個人ではなく自治会など団体で押しかけたほうがいいなと言われました。
うちらの辺は自治会も婦人会も子供会もないんだよね。

アンテナではなく、ケーブルや関西電力、NTTでデジタル放送を見る場合は工事が自己負担となって、屋内何箇所かで見れるようにするには2万円以上かかるようだ。

総務省から無料で配布されるというデジタル切り替えチューナーは、すでにNHK受信料が免除されているような世帯に限られるそうだ。

このままずるずるいくと、我が家は地デジ難民になってしまいそう。

やるなぁ、ローマ帝国の土木建築

2010-02-18 | 旅・チュニジア
世界遺産ドゥッガ、ローマ・ビザンチン複合遺跡です。

ローマはカルタゴを滅ぼしてから100年ほど経過して、カエサルがカルタゴに植民市を築くことを決定。
ローマ帝国のアフリカ属州都市として、カルタゴは4世紀頃まで再び栄えました。
現在チュニジア各地で見られる遺跡もほとんどがその4世紀頃までのローマ帝国の建物です。


産経新聞の記事、後半です。
③ローマ文化(2/12の産経新聞記事より)
「アントニヌスの公共浴場、ローマ帝国で3番目に大きいこの公共浴場は今、カルタゴの海岸に巨大な遺構を横たえる。
かつて、数多くの浴室が大理石、モザイクなどで華麗に彩られ、地中海を眺めながら人々は社交を楽しんだはずだ」
   
   
この浴場跡左手に大統領官邸があり、そちらにカメラを向け撮影は禁止されています。


「開発はすさまじい。
南郊の水源地ザグーアンとカルタゴを結んで、水道橋が造られた。
水は高低差を使って約130キロの距離を運ばれ、公共浴場などにも水を届けた」

   


「チュニジア中部、エル・ジェムにある円形闘技場。
ローマ帝国で第3の大きさを誇り、楕円形の闘技場の長径が140mほど。
3万5,000人の観客を収容した」

   

   

アリーナ地下を歩くと、映画グラディエーターの数々のシーンが蘇ってきました。

ある人の旅行記にはこう書かれてました。
このコロセウムは2世紀に建設が始められたが、政治的、経済的な要因によって全体が完成することはなかった。
ガイドさんの説明、聞き流してしまった…


④モザイク(2/15の新聞記事より)
「北アフリカ各地に残るローマ遺跡。
チュニジアのドゥッガは、中でも保存の良さで屈指だ。
首都チュニスから南西へ約100キロ。見晴らしの良い丘の上に、3世紀末に最盛期を迎えたローマ都市が広がっている」

   

   

   

よいお天気に恵まれましたが風が冷たかった。
丘からの眺望はとても気持ちよかったです。

本家のローマより立派な都市遺跡がチュニジアで見られることもおもしろい。

「神殿、劇場、公共広場などの巨大建築を中心にしたローマの都市文化は、アフリカの内陸部にも伝播した。
そして現地の風土と溶け合い大きく発展したのが、建築を飾る”石の絵画”モザイクだった。
ドゥッガではタイムマシーンに乗ったみたいに、モザイクをほぼ往時の姿で見られた」

「アフリカでモザイクが人気だった理由はいくつかある。
素材のカラフルな石があったこと。
そして、穀物、オリーブなど農産物が豊かで経済が潤い、高級品であるモザイクをたくさん作れる力があった」

  

  

地中海の女王☆カルタゴ

2010-02-17 | 旅・チュニジア
グッドタイミングなことに、産経新聞で「地中海のきらめく至宝」というタイトルで「古代カルタゴとローマ展」に関する記事が4回(2/9・11・12・15)連載されました。
さすが新聞社の文章はわかりやすいので、カルタゴの歴史をこの連載記事よりそのままいただいてくることにします。
以下「」で挟まれた文章は、すべて書き写したものであることをあらかじめお断りしておきます。

①ポエニ戦争(2/9)
「ピュルサの丘の遺跡はローマが支配したさい、カルタゴ時代の住居跡を埋め、上から巨大な建物を造った跡だった。
角柱に踏みつぶされたように見える家々が、カルタゴの悲運を物語る」

   
カルタゴ博物館の、どの地層からどんな埋蔵物が出てかを示す展示


古代カルタゴの街並み想像図


「カルタゴは前3世紀には地中海で最も繁盛した商業地だった。
港から神殿があった丘まではびっしり住宅が建ち、5,6階建てもあった。
町は碁盤の目に整備され、古代の地理学者は人口70万人に達したと、と書く」

「チュニジア随一のバルドー国立博物館には、1領の青銅の鎧が残る。
第2次ポエニ戦争(前218~201年)で、アルプス山脈を越えイタリア半島まで攻め込んだカルタゴの勇将ハンニバル。
その軍に関係があるとされ、まぎれもない同国の至宝だ(古代カルタゴとローマ展に出品)」

わざわざチュニジアまで行ったのに、それらは日本各地で巡回展示されてるなんて、運悪いね。
どおりでバルドー博物館は壁からはずされたモザイクもあり、この機会にとばかり補修中だった。





高度な航海術を駆使して繁栄したカルタゴは、イタリア統一をはたしたローマと
紀元前264年シチリア島の利権をめぐりポエニ戦争が始まります。
それから実に80年もの間、ローマとカルタゴは争い、最終的にローマはカルタゴを滅亡させました。
カルタゴの人々は殺されるか奴隷に落とされました。
火を放たれた街は17日間にわたって燃え続け、焼け跡には二度と再生することがないよう塩がまかれたともいわれています。


「住民が最後に逃げ込み、燃え落ちる町を見たとされるのがビュルサの丘だった」


②ケルクアン遺跡(2/11)
「フェニキア人は卓抜したモノづくりと航海技術で知られ、地中海の東から西方へ、そして大西洋へと国際交易網を築き、植民を進めた。
紀元前814年には、チュニジアの首都チュニス近くの海岸に、フェニキア本土から、王家のきょうだい間の相克を逃れてきた王女エリッサの一行が舟で到着する。
エリッサは先住民から土地を手に入れ住み着いた。
ここよりカルタゴが創建された、とされる」

王女エリッサは土地を分けてもらうに当たり、牛1頭分の皮だけの土地といわれたそうだ。
それでその皮を細く長いひも状にし、その紐で囲った土地をゲットするという機転を利かせた英知ある女王だったと伝えられています。


チュニジア入国時に書く用紙には、姓名の次に Meiden name 
何これ?でしょう、母親の旧姓を書くなんて初めてでした。
さすが女王建国の国だけのことあるわぁ。

「ガラスの起源はオリエントとされ、その技術を花開かせたのがフェニキア人、そしてカルタゴの職人たちだった。
ケルクアンにもガラス窯があり、カルタゴの工芸の厚みを物語る。
文化ではフェニキアだけでなく、ギリシャやエジプトの潮流も入り込んでいる」





「ケルクアン遺跡は1952年偶然発見された。
出土遺物から分かったのはここが職人の町だったこと。
陶器、ガラス、金銀細工のほか、盛んだったのが高級染物」

残念ながら、今回のツアーにケルクアンは含まれてなかったんです。

タニとタニト

2010-02-16 | 旅・チュニジア
旅の連れタニは、以前中国の外務省要人を我が家に招いた時同席しました。
その時、中国には50以上の部族がいるが、タニは上海っこ風だと言われました。
そして私は雲南省、もうひとりの友人は黒龍江省といわれ3人とも民族不詳に大笑いしたものでした。

そのタニと、墓碑に彫られた人型のシンボルTanit(タニト)
タニトはフェニキアの「月と冥界の女神」にしてカルタゴの「守護神」です。

  
    バルドー博物館にて

  
    カルタゴ博物館にて、陶片裏の刻印

フェニキア人は、古代オリエントの大国の狭間で翻弄されながらも、技術力と経済力を武器にしなやかに力強く生き抜いた民族です。
地中海の各地に多くの植民市を建設した中で、最大かつ最強の街がチュニジアのカルタゴです。


古代世界史で必ず出てくるカルタゴ、
BC9世紀にフェニキア人によって建設された都市は現在瀟洒な高級住宅地になっています。

大統領官邸右手に広がる巨大な共同浴場遺跡やピュルサの丘の住居跡などは、カルタゴ・ローマ時代のものです。
古代カルタゴ・フェニキア時代の建造物はローマに徹底的に破壊されています。
わずかに円形の軍港と、真偽は不明ながら生贄にされたといわれている子供たちの墓(トフェ=タニト神の聖域)ぐらいだそうです。

   

現在販売されているチュニジア産煙草パッケージにも豊穣の女神タニト神を表した印が印刷されています。

タニト女神のシンボルと右手をかざす礼拝ポーズはフェニキアの文化的特徴なんだそうです。

チュニジアはおよそ3000年の歴史の中、ローマ、アラブ、イギリス、フランスと色々な人種に入れ替わり立ちかわり支配されました。
しかし自分たちの起源は、あくまでもフェニキア・カルタゴなのだという主張がこめられているかのようです。

街角スナップ★イスラムとフランスと

2010-02-15 | 旅・チュニジア
パンはフランス風で、バゲットやクロワッサンなどとても美味しい。

フランス統治時代の影響を強く受けており、メーンストリートはパリのシャンゼリゼ通りのように街路樹とカフェテラスが道路の両側に並んでたりします。
   

しかし観光客ではなく働き盛りのような男性達がおしゃべりしています。
スーク(市場)でもメディナ(旧市街)、地方でも同様でした。
   

いつ働いているんだろう?
分業というか、ワークシェアできてるんだろうか…

働いているおっちゃんの姿をおさめたショットは数少ない。
チュニスで泊ったホテル近くで、飲み物とパンを売る店のおっちゃん
   

中古らしき靴下を整理している露天商のおっちゃん
   

敷布団らしきものを運ぶ親子?
   

子供達はいたって親しげですが、物乞いは一度もされませんでした。
   

   
   
   


面積は日本の半分以下と国土は狭いですが、ローマからビザンチン時代の古代遺跡が数多く、エーゲ海の都市の雰囲気を漂わせ、同じフランスの統治下にあったモロッコよりも都会的。

人口は約1,000万人、アラブ人が95%以上、経済成長率もアラブ諸国ではトップクラスだそうです。
穀物や野菜・果物も豊富で、貧富の差も大きくなく人々の暮らしも他のアラブ諸国に比べるとかなり豊からしい。
教育に力を入れており、予算の20%を占め6~16歳までの11年間の義務教育期間は誰もが無償で教育を受けられるそうです。

これらの情報は帰国後ネット検索で得ました。
ガイドさんは日本語が喋れないので、バスの中でも運転手さんと雑談していることが多かった。
言葉の通じない国の旅はガイドによる部分が大きいですから、もっと生の情報を話して欲しかったと思います。


チュニジアをイスラム国と思って出かけるとちょっとがっかりされるかもしれません。

イスラム教国の特徴であるモスクやメディナ、スークなどを見学しましたが、どれもイマイチ?
たしかに礼拝を呼びかけるアザーンの声も聞こえたけど、エジプトほどではない。
モスクはトルコのほうが素晴らしかった。
イスラムのタイル芸術・モザイクもウズベキスタンには劣る。
スークもイスタンブールやエジプトのほうが活気がある。
モロッコの迷路のようなメディナはほんとにエキサイティングだった。

とはいっても、もっと厳しいイスラム教国であるイランはまだ行ったことがないので。

しかしいちばん見たかったのはカルタゴ・フェニキア人です。
忘れないうちに次回に。