秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

紀伊半島の進撃の巨石

2017-07-31 | 日々是好日




昨夜の 列島誕生 ジオ・ジャパン 第2集「奇跡の島は山国となった」興味深く視聴しました。
NHKスペシャルのウェブサイト みたら、あまり詳しく載ってなかったので、TV画面撮影したものをご紹介しておきます。

過去、熊野を訪れて記録残しています。


2014-07-08 ゴトビキ岩で思いもよらぬことが

2014-07-09 神倉神社★熊野の根本聖地である神倉山


2014-07-11 世界遺産 花の窟(はなのいわや)

そして巨石ではないけど、那智の滝

2006-06-12 オーブの不思議


かねがね、熊野は不思議な地だとは思ってました。
2015年に他界した母は堺の旧市街地にあった熊野小学校に通ってました。
ここでは、熊野と書いて「ゆや」と読む不思議があります。


そうした下地があって、昨日見たジオジャパンの内容は衝撃的でした。
最近は地学でもずいぶんいろんなことがわかってきているのですね。










紀伊半島と同じころ、西日本の各地でカルデラ爆発が発生したんだそうです。
その結果として、各地に巨石が残っていたのでした。

西日本が山岳地帯となった秘密が隠された日本一の巨石“古座川の一枚岩”
これも見に行こうと思いました。



列島誕生 ジオ・ジャパン より

「特別な岩」が山を作った!?

列島となったばかりの日本列島にはまだ山はほとんどなく、ゾウやワニの祖先が暮らす広大な平原が広がっていました。ところが、1400万年前のある日、平和な世界が一変。地球史上最大規模の超巨大噴火が、西日本の広い範囲で発生します。この時の火山活動で作られた膨大なマグマから、ある“特徴的な岩”が生まれました。その岩が持つ“ある力”が、西日本を山国へと変えていったのです。その岩の驚くべきパワーとは!?



今も隆起を続ける日本列島

西日本が山国となり始めた1400万年前。東日本の大半は、海面下に沈んでいました。ところが300万年前、地球史上稀なある奇跡が起こって大隆起し始めます!驚くことに、日本列島は、今もなお激しく隆起し続けているんだそうです。日本の地下で何が起きているの?番組では、最新科学による様々な実験の様子もご紹介。日本列島がいかにして山国となったのか、目からウロコの情報が満載ですよ。



和庵のナニワイバラ=チェロキーローズ

2017-07-28 | 四季折々・色とりどり




一本の木のツルが伸びて壁面覆う植物、すでに花は終わってるから調べにくい。

どこで見たかというと



和庵があるのは、堺市東区日置荘田中町257
阪和道側道沿いで、古民家カフェ。
イタリアのアグリツーリズモのような古い農家を改築した感じ。


この時のランチは、








2500円で予算オーバーやと思ったけど、
満足した(o^^o)

またまた気になるのは、花の名前!

画像検索もできないし、最後の手段、お店に電話掛けて尋ねた。

ナニワイバラですって。



こんな白いバラ科の花でした。


お店のFBには、ナニワイバラが満開で心が和みます!って。


果実は楕円形で棘が密生した偽果で、秋に赤橙色に熟すようです。
果実を乾燥したものを生薬で金桜子といい、渋精止瀉・縮尿等の薬効があります。


和名は、江戸時代に難波商人が輸入し広めたのある低木という意味
ナニワイバラ


英名は、Cherokee rose「チェロキー族のバラ」

こんな逸話がありました。

1828年、アメリカで最初のゴールドラッシュがチェロキー族が住んでいるジョージア州で起きました。

アメリカ政府はチェロキー族との約束を破り、1838年の冬に、チェロキー族をオクラホマ州に強制移住させました。

冬の最中充分な衣料や食糧も与えられずに移住させられたチェロキー族は
14,000人のうち4,000人が途中で亡くなり、特に弱い老人や子供達が犠牲になりました。

その1,600kmの山道は、涙の足跡(Trail of tears)と呼ばれ、
オクラホマへの山道沿いに咲き誇る本種の白い花は、チェロキー族の女達の涙の象徴だといわれています。

米国ジョージア(Georgia)州の州花に指定されています。


土潤溽暑、書中お見舞い申し上げます★定形外届いた(・・)V

2017-07-28 | 24節気72候


蒸し暑いことを溽暑(じょくしょ)というそうだ。


(音読み)ジョク
(訓読み)むしあつい

最近は胃の調子も良くないです。
みなさまもくれぐれもご自愛ください。

二十四節気大暑(たいしょ)から立秋(りっしゅう)までの七十二候

・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)7月23日頃
・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)7月28日頃
・大雨時行(たいうときどきふる)8月2日頃






郵便局の向日葵は、やっぱり最初に咲いたのは首が折れててかわいそう。
他のも咲き始めました。

そして、定形外のヤフオク落札商品は案の定、届かなかった。


追記 16時
上記の投稿はお昼12:21:34

先ほどポスト見たら投函されてました!
なんと7/18の消印のものが、10日間どこをめぐってきたのか届きました。
郵便局、やるね。
日本、まだまだ信じるに値する国だったわ。







土用丑の日みたらし祭足つけ神事@下鴨末社の井上社

2017-07-25 | おでかけ・近畿


下鴨神社の末社、井上社は別名 御手洗(みたらし)社の夏の神事。
知らず知らずに身についた罪や穢れを水に流してお清めする「みたらし祭」

土用の丑の日前後4日間ほど「足つけ神事」が行われます。
今年2017年の丑の日は、7月25日。
参詣時間は、7/22(土) 9~21時
7/23(日)~30(日)5:30~21時







お参りの方法
お祓いのろうそく(300円)をわけてもらい、裸足になって御手洗池に入ります。






水は湧き水なので、めっちゃ冷たい。
ちっちゃいお子さんは泣いてたりします。
橋をくぐると膝下ぐらいまでに深くなる。





ろうそくの火をつけるため左右に分かれます。
それまでは、たくし上げた裾が濡れないよう気を配ってたのに、ろうそくの火が灯ると、消えないように神経が。
あっという間に裾がびしょびしょになってしまった。

井上社の前の献灯台にろうそくを置いて、御手洗池から上がり靴を履く。
御神水を杯にいただき、井上社にご挨拶する。


 (井上社画像ネットより拝借)

 
祭神 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
例祭 土用の丑の日

この社の前身は、「三代実録」元慶三年(879)九月二十五日の条をはじめ、諸書に見える唐崎社である。
賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂祭の解除に参拝になった社である。
元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明二年(1470)六月十四日焼亡したため、文禄年間(1592-96)にこの所に再興になり、寛永度(1629)式年遷宮より官営神社となった。
また井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。

賀茂祭(葵祭)に先立つ斎王代の御禊の儀は、この社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩。
土用の丑の日の足つけ神事立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。
土用になれば御手洗池より清水が湧き出ることで七不思議の一つにも挙げられ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが、みたらし団子の発祥と伝えられている。




御手洗池から流れた奈良の小川で靴ごとジャブジャブ入る外国のマダムたち。
足つけ神事にも大勢の外国人が参詣されてました。





2015式年遷宮のときの地図がわかりやすい。




言社(ことしゃ)は、幣殿前に鎮座する七社(重要文化財)で
十二支のそれぞれが生まれ年の守護神とされています。
「大国さま」と呼ばれている大国主命はその働き毎に異なる7つの名前を持たれてるのがわりふられてます。

以前おまいりした時は気にならなかったけど、今回はこのわけ方とかが、なぜかなぁ~と。



糺の森。
ただ‐す【正す・質す・糺す】

正す
まちがいや欠点を改め直す。歪(ゆが)みなどを直してきちんとさせる。

質す
不明な点などを聞いて、明らかにする。問い確かめる。

糺す
物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。


ネット検索してたら、
「糺の森の名は祭神が正邪を裁いた場所から来ていると言われるが真意の程は分からない。」




カリン美人氷水@下鴨摂社の河合神社

2017-07-24 | おでかけ・近畿


カリン水のフローズン、キンキンに冷えて頭がキーンってなった。
曇りがちでも蒸し暑い中、大宮御所から歩いてやっと ひと息ついた。



この糺ノ森に着いたのが11時なので、約30分も歩いてたんだ。





あまりに暑くてすでに疲れも出てて、これだけしか撮影画像なし。

2010/6/8の記録を見ると→パワースポット・下鴨神社



あれから6年過ぎて二回目の参拝、知識は全く増えてなかった。
この機会に調べたことをつらつらと。

河合神社(かわいじんじゃ)は通称で、正式名称は

鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこそべじんじゃ)

※社宅(こそべ)は社部、社戸とも書かれている例があるが、マツリゴトを行う場所又は人の意味。それが転じて神社をコソと言うようになったという。大阪市東成区の比賣許曾(ひめこそ)神社のコソも同じ意。



かつては鴨川と高野川の合流三角地にあって、
河合社、只洲社と書いてタダスノヤシロと訓むのが慣例だったようです。

興味深い解説は→河合神社 で

ご祭神は、玉依媛命(たまよりひめのみこと)
下鴨神社・東殿のご祭、玉依姫命(たまよりひめのみこと)とは異なり神武天皇の御母神です。


拝殿の前に、皇室のいやさかをお祈りください、なんて書かれてるのはじめて見た。
で、国家の安泰、国土国民の安寧を祈ってきました。



大宮御所のネコと仙洞御所の洲浜の石

2017-07-23 | おでかけ・近畿


何人かがカメラ向けたら軒下へ、ここで住んでるのかな?



9:30からの見学観覧を申し込んでくれてました。
京阪の神宮丸太町から徒歩15分と書いてたから9:04に駅着。
ぶらぶら歩いてたから最後走ってギリセーフ。



引率して案内してくださるお姉さんに後をついて約1時間。



大宮御所は天皇皇后両陛下と東宮が入洛されたら利用されていたらしい。
でも耐震に問題あると、今は京都迎賓館だそうです。
で、今の主は猫ちゃん?






至る所掃除行き届き、右手の松大木の剪定も見事です

北池で


この池の左手に紀貫之の邸宅あったようです。

南池では







同じように平べったい丸石が敷き詰められた洲浜。
この石は小田原藩から献上されたもので、石一つを米一升で集めた「一升石」
きっとそこの民は頑張ったことでしょう。




なぜか柿本人麿を祀った柿本社がありました。

醒花亭と又新亭の二つの茶室が仙洞御所にある建物だというのに写真撮ってなかった。


帰りに門のところでパチリ
10:27、次に向かうは下鴨。


紅葉の時期とかでなかったら、予約なく当日でも入れそう。
無料です(^_^)v

仙洞御所は天皇を退かれた上皇などのお住まい、京都御所のは1854年焼失したまま再建されていない。

郵便局の向日葵はどちら向いてるの

2017-07-21 | 四季折々・色とりどり


昨日も今日も太陽を追いかけてない向日葵。
頭重すぎるのかな?


7/17夜にヤフオクでランコムのチークを落札した。
配送が普通郵便定形外のみだった。
荷物番号ないと追跡できないから不安に思いながらも、出品者の数多い評価にまぁいいかと決済した。
翌夕に出荷連絡あり、今日3日目にして未だ届かず。

暑いから日本郵便もだれてるのかな。
明日は届きますように。

もうすぐ土用丑の日、といえば鰻。



長良川で鮎も鰻も口にできなかったので、大阪に帰り家つくまでに関目で鰻食べた。
魚伊さんの鰻、皮も香ばしく美味しかった。



日本名水百選第1号☆宗祇水

2017-07-20 | 旅・関東&中部&北陸地方




郡上八幡の最後に立ち寄った宗祇庵で抹茶ラテフロート¥700
長良川の支流吉田川のさらにまた小さな支流の流れ込む角にある宗祇庵。



古民家の座敷で足を伸ばし清流を眺めながら、昼寝したくなるような快適さ。
今回の旅で一番立派なトイレだったことも大満足。
ローケーションもすばらしかったけど、
旅の締めくくりがトイレの思い出とはこれ如何に^^








環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水
宗祇が文明年間(1469-87)この泉に草庵を結んで、この清水を愛用したことから名付けられた

文明3年連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わした由緒ある泉です。

「水舟」という独特の水利用形態が昔からあり、これは今なお10ヶ所に現存し、住民が組合を組織して保全しています。
涌水が水源、飲料水、洗浄水など、段差になって流れ用途に寄って区切られています。




宗祇(そうぎ)は室町後期の連歌師と日本史で習いましたが、古典学者でもあったことを知りました。

応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日)
姓は飯尾といわれ近江の出自らしい。
若くして仏門に入り中年以後は臨済宗に属したと思われる。
連歌を宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに、
和歌を飛鳥井雅親に、
故実を一条兼良に学び、
卜部兼倶に神道の教を受け
東常縁(とうつねより)から古今伝授を受けた。

連歌師として名があらわれ始めた四十才頃より各地に旅して連歌界最高の栄誉をうけた。
ついには北野連歌会所奉行(北野天満宮に設けられた連歌活動を統轄する幕府の機関の長)という指導的位置につくに至った。
のちに、旅の詩人としてさまざまの伝説が生じ、芭蕉などにも影響を与えている。


水と踊りの城下町★郡上八幡

2017-07-20 | 旅・関東&中部&北陸地方

画像撮影時間 11:22
美人の湯しらとりに入館する前に仕込んだのがほおば寿司と長良川サイダー。


この画像撮影時間 15:14
郡上八幡、確かに水と踊りの町でした。

上掲二つの画像の間にスマホ撮影画像はないので、途中デジカメの画像は撮影時間がわからない。
いい湯につかったあと、「古今伝授の里やまと」という道の駅に立ち寄ったら臨時休業だった。
前日ここで購入したおかきがとてもおいしくてまた買おうと思ったのに。
製造元に電話したら、郡上八幡で売ってる場所を聞いて、そこに向かう。

郡上八幡着いてからまず鮎か鰻食べようとうろつく。
教えてもらった店、臨時休業だったりすでに終了してたり・・・
7/8から郡上踊りが延々と一ヶ月近く続くらしく、町はその準備追われてるような感じでした。

結局また蕎麦を食べる。


暑くてじりじり焼ける中、食べるものには満足できず撮影した郡上八幡の画像をずらずら貼り付けます。
















そして15:22撮影の画像は


一番郡上八幡で満足できたのが宗祇水


次に続きます



GJ8マン@白鳥町六ノ里棚田と牛道川

2017-07-18 | 旅・関東&中部&北陸地方




イラスト田んぼの絵柄が何かよくわからなかったけど、



なるほど~
さくらももこさんの描く GJ8マン
こよなく愛す郡上八幡をイメージした新作地方マンガのキャラクターだったのでした。










宿泊した岐阜県郡上市白鳥町六ノ里。
地図見てたら牛道なんて不思議な地名が。
長良川の支流である牛道川と阿多岐川が流れる自然豊かな山間の地域です。

牛道の地名由来を調べてみると、
平安時代に白山信仰が栄えたころまでさかのぼります。
当時、主要な道が通る白鳥町北西地域は寺領で、牛を汚らしいものとして扱い通行を禁止していました。
そこで、牛を引く者は迂回路として、この地域を通ることとなり、「牛が通る道」で「牛道」と呼ばれるようになったと言われています。


国土交通省中部地方整備局の岐阜県の河川の由来によりますと、

牛道川 うしみちがわ
大洞峠より栃洞地内を流れ、白鳥町大島で長良川へ注ぐ。
先の古道川の頃にのべたように、この川筋も、荷駄、牛馬の道として白山神社をよけて通り、北陸(鷲見郷経由)東国へと古くから、人々の往来があった。

古道川 ふるみちがわ
大和村東胴谷より古道地内を流れ、繁久地内で栗巣川と合流し、長良川へ注ぐ。
小駄良川、神路川、古道川、牛道川等は、寒水川の一部を利用して循環道路のようになっている。
白鳥町にある白山神社(旧白山中宮長滝寺)の神領があり、荷駄の運搬のために牛馬を使うことが出来ず、この流域を利用して運ばれていた。
それは、白山神社が牛を嫌うからと強く信じ、また排斥されたため、また一つには神領通過の関銭(通過料)のこともあったであろう、木地師伝承が多く、古くからの道。


なんか不思議なこと書かれてますね。
>白山神社が牛を嫌うからと強く信じ、また排斥されたため

高賀山に向かう道の高賀川にかかる牛戻し橋(谷戸橋)といい、牛にかかわる伝承が残されています。



幻の鶏ちゃん@奥美濃の農家ペンション

2017-07-17 | 旅・関東&中部&北陸地方


円空さんと鮎を求めて長良川をめぐった旅から2週間が過ぎました。
日本列島はとんでもない豪雨と灼熱に見舞われていますが、たまたまあの二日間は旅日和でした。

宿泊地に選らんだ奥美濃のアグリツーリズムの
農家ペンション「リトルパイン


岐阜県郡上市白鳥町六ノ里 白尾山のふもとに位置します。
ここのウリは幻の鶏ちゃん。

平飼い飼育の地鶏を郷土料理「鶏ちゃん」に、タマネギとキャベツと新じゃがのフライドポテトと一緒に混ぜて焼き炒め味噌味で仕上げる。

帰るときに冷凍の地鶏と味噌セットを土産に買いました。
なんせ暑い時期、途中で氷を買い足しなんとか無事に持ち帰れました。



家で早速食べてみるのに、キャベツなかったのでタマネギの他にニンジンとパプリカ、そしてジャガイモ素揚げで美味しくいただけました。



さて、このリトルパインさんは、農業体験のほか、フライフィッシング専用池を管理されてます。
ニジマスも養殖されてるようで、夕食にでたニジマスのお造りが新鮮で美味でした。
翌朝には焼いたニジマス、皮までぱりぱりで美味しく完食。


そのフィッシングで宿泊されてたおっちゃんと、夕食のときにお話が弾み、その池で夜には蛍が乱舞すると聞きました。

車で5分ほどの池に連れて行ってもらいました。


車のライトで蛍がメスがいると勘違いして光るらしい。
ホンとはこうした行為はいけないけど、外灯のない真っ暗な池なので落ちたらあかんからね。



少し小雨がぱらついていたので、目には蛍が見えてもデジカメでは蛍なのか雨粒なのか不明です。

スマホで撮影した画像には変なのが写ってました。







高賀のさるとらへび伝説が鵺退治に置き換わったのは

2017-07-15 | 古代史のミステリー


頭が猿、体は虎、尾は蛇のような妖魔退治した藤原高光。




国道265号線から高賀口で右に折れて高賀川沿いに進みます。
後になって地図を見て、牛戻し橋(谷戸橋)に気づきました。
高賀の伝説を彩る、この橋より先へは牛を入れてはいけないといい伝えの残る橋」
なんか意味ありげでしょう。













高賀山(1,224m)の麓に鎮座する高賀神社、
神社の創建は、奈良時代の養老元(西暦717)年。
二十三柱もの神々を祀り、妖魔退治伝説を今に伝えています。

御祭神
国常立尊(クニコトタチノミコト)
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
国狭槌尊 (クニサズチノミコト)
豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
泥土煮尊(ウイジニノミコト)
沙土煮尊(スヒジニノミコト)
大戸道尊(オオトジノミコト)
大戸辺尊(オオトマエノミコト)
面足尊(オモダルノミコト)
吾屋惺根尊(アヤカシコネノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
大日婁貴(オオヒルメノムチ)
天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
鵜鵐草葦上合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
素盞鳴尊(スサノオノミコト)
太玉命(フトタマノミコト)
天児屋命(アメノコヤネノミコト)
猿田彦命(サルタヒコノミコト)
金山彦尊(カナヤマヒコノミコト)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)



社務所にいらして、どちらから来られましたかと声かけてくださった宮司さん?
宝物殿(右手にある建物で写ってません)の中を案内してくださった。
立派な珍しい神像とか宝物が所狭しと並んでた。
画像ないし、説明も全部消化しきれなかったけど、なんか凄いとこやなぁというのだけ実感しました。
直前まで雨降ってたそうで、木々の緑も清められすがすがしかった。




左に円空記念館(平成7年7月7日開館)、その建物との間にさるとらへび伝説像があります。



さるとらへび伝説とは、平安時代に藤原高光が二回この地に訪れて妖魔退治をしたことを伝えます。

ところが、高賀宮記録によれば、

当宮の始めは、霊亀年中(710年代)何処ともなく夜な夜な怪しい光が空を走り丑寅の方角へ飛んで行くのを都の人たちが見て驚いた。
都から見て東北の山々、すなわち高賀山を探したが、見つけることはできなかった。
そこで、高賀山麓に神壇を祀ったところ、光が現れなくなったという。これが高賀山本神宮の始まりだといわれています。

その後、高賀山一帯に、牛に似た妖怪が住み付き、村人に危害を加えたので、平承3年(933)、藤原高光が御門の勅命によりこれを退治した。このとき再び妖怪が住みつかないように高賀山の麓に神々を祀った。

また、天暦年間(947~957)には、キジの鳴き声をする大鳥が村人を困らせたので、再び藤原高光による魔物退治が行われ、この時、高賀山麓の六ヶ所に神社を建立したとされている


記録される妖魔は最初が「牛の角を持った大鬼」、二回目が「キジのような鳴き声を発する大鳥
頭は猿、体は虎、尾は蛇に似るという「さるとらへび」なる妖魔ではありません。



高校時代に古文を習ったときのかすかな記憶では、鵺(ぬえ)が登場します。



鵺とは - Wikipedia より
日本で伝承される妖怪あるいは物の怪

平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。

遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。側近たちは、かつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。

頼政はある夜、家来の猪早太を連れ怪物退治に出向いた。
すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。

これにより天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜したという。




歌川国芳:源三位頼政 鵺退治の図


一勇齋国芳(歌川国芳):鵺退治(ボストン美術館所蔵)


高賀の「さるとらへび伝説」は、古文書としては何も残らず口伝によるものです。

時代は下り、1180年源頼政は、後白河天皇の第三皇子・以仁王と結んで平家打倒の挙兵をあげたが、宇治平等院の戦いで敗れ自害。
実際、源頼政の墓は宇治平等院の鳳凰堂の裏に江戸時代に作られています。

しかし首級を頼政の伯父・山県国直の居地である美濃植野の地に家臣が葬ったといわれていて、岐阜県関市植野の蓮華寺にも源頼政の墓と伝える石塔があるそうです。


こうしたご縁で、12世紀末の都の「鵺退治伝説」がこの地にも広まり、10世紀半ばの高賀の妖魔退治が「さるとらへび退治」へと置き換わったのかもしれません。



この記事の最初に書いた、牛戻し橋の疑問、
こんな答え見つけたので引用させてもらいます。

「牛戻し橋」は、牛頭天王信仰がこの地に入ってくる(8世紀から9世紀にかけて)ずっと以前からあったのではと考えます。

 高賀山自体を神と崇める自然崇拝で、その生贄として「牛」を使っていたとするなら、「牛が一旦この橋を渡ったら最後二度と戻れないぞ」との思いから、「牛戻し橋」と呼ばれるようになったと考えられます。

 中国では、古来より神の怒りを静める方法として、牛を生贄に使ってきました。その風習は、6世紀から7世紀頃には渡来系の人たちによって日本に流入していたはずです。この地に、渡来系の人々による信仰が広まっていたならば牛を生贄として使う風習があってもおかしくないはずです。


引用元 洞戸なんでもわけあり情報

そのブログを読ませてもらってたら、
猿丸太夫の墓 という記事エントリー発見。

過去に2013-11-10 蝉丸 猿丸 山の民? という記事で書きましたが、猿丸って不思議だなと思ってました。

ひとつの答えを今日発見できてうれしい。


猿丸太夫の墓が、高賀山に連なる今渕ヶ岳の麓、瀧神社参道横にあるそうです。
美濃市乙狩板山地区には、高賀の魔物退治と絡んで、猿丸太夫の伝説が残ってました。

「高賀の魔物退治をしたと言われている藤原高光。
高光の命によって集まった矢作りの人々の中に「あきよ」という娘がいました。高光とあきよの間に一子が生まれ、猿丸と名づけられました。猿丸は、やがて都に登って父に会い、天皇から賞賛されるような歌人になりました。しかし猿丸は、父の迷惑を考えて終生素性を語りませんでした。 ○美濃市史通史編上巻より」

関市洞戸円空記念館★神々の里の円空さん

2017-07-13 | 旅・関東&中部&北陸地方


高賀山(1224m)の麓にある関市洞戸、高賀の郷は円空さんゆかりの地です。
豊かな伝説に彩られた神々の里で、高賀神社の狛犬も円空さんが彫られたもの。
橋の欄干左右にレプリカ風にのってました。



狛犬 左…95cm 右…98.65cm

神社の絵馬にも描かれていました。




高賀神社のすぐわきに、洞戸円空記念館がありました。


入り口のガラス扉内側から撮影



ここから先はまたも撮影禁止で残念、 ↓ネットで拾ってきました。


最高傑作といわれる一木作り三像
中央 十一面観音 221.2cm
左 善財童子 174.6cm
右 善女龍王 175.6cm

公的なサイトではサイズ表記なかったのですが、やっと見つけました。
円空さんを訪ねる旅

実際目にした印象では、十一面観音が3m未満たないだろうとは思いましたが、もうひとまわり高いように見えました。



一本の木を縦に三つに割って材とした一セットの円空仏、それぞれの顔を中にして向き合うように置くと一本の木になります。
三位の像を内側にぴったり合わせた形は、十一面観音に自分と母が抱かれる形となり現世で果たし得なかった願いがこの像に込められています。


こうしたことも含め、展示現場で写真撮影許可されたら、見学者と一緒に撮影できて、高さも一本の木になるのもよくわかります。
日本の博物館、美術館って、科学的実際的ではないとこ多いですね。


関市円空館★長良川河畔で入定した円空さん

2017-07-12 | 旅・関東&中部&北陸地方




自刻像ともいわれている「善財童子像」

江戸時代前期岐阜県で生まれた僧・円空(1632-1695年)さんの終焉の地が関市池尻です。
関市域には、神社・寺・個人など所蔵の円空仏が約290体ありますが、円空館の展示数は約30体。





弥勒寺の駐車場に車を止めて、国指定史跡・弥勒寺官衙遺跡群を歩いていきます。






やっと着いた!
距離はわずか350mと書いてありましたけど、このときは他に人がいなかったので、整備された道といえどもちょっと不安でした。



帰りに橋の袂に円空入定塚を車窓から




初期の丁寧な作風は、経験によって技もますます磨きがかかっていきました。そんな円空仏に転機が訪れたのは、・・・
絵の簡略化は彫刻にも影響を与え、円空仏はますます個性的になりました。同時に簡略化によって仏像製作のペースも早まり、彼の12万体作成を可能にしたのではないかと思われます。
詳しくは→円空微笑み物語

明治は崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ白峯神宮を創建され始まった

2017-07-11 | 古代史のミステリー


讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
Wikiページより拝借しました。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
小倉百人一首77番 崇徳院


崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇
諱は顕仁。讃岐院とも呼ばれた。



以前、香川県の志度寺について記事を書いたときに調べて保存してあった画像とデータがあります。
2016-01-09 四国86番志度寺 海女の墓★身を捨てて浮かぶ瀬もあり志度の浦

ご披露する時期がめぐって来たようです。


このたび、明治天皇御製2首を先の記事でご紹介できました。

世はいかに開けゆくとも古の国のおきては違えざらなむ
6/18 阿賀神社(太郎坊宮)にて撮影

あまてらす 神のさづけし 寶こそ動かぬ國の しづめなりけれ
7/3 長滝白山神社にて撮影

明治天皇の御製つながりで、実は志度寺について調べていたときにすでに思うことがありました。


明治天皇は、慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して、勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建されました。
諱は睦仁 御称号は祐宮(さちのみや)

昭和天皇は、崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。
諱は裕仁(ひろひと)幼少時の称号は迪宮(みちのみや)



なんで、崇徳天皇かというと、
菅原道真、平将門とならび日本三大怨霊のお一人だからでしょう。


崇徳上皇は「日本一の大魔王」と呼ばれるそうです。
22歳の若さで、父鳥羽上皇から天皇の位を奪われてクーデター「保元の乱」を起こすも、企ては失敗し四国讃岐に流罪となる。

なぜ崇徳上皇=怨霊が定着したかというと、
上皇が亡くなって約10年後、後白河上皇の身内が相次いで亡くなり、京の都では火災や強風(竜巻か?)が多発し、鹿ヶ谷の陰謀など社会情勢や治安が大きく乱れたことが最大の原因とされる。
崇徳上皇本人は菅原道真のように、生前は静かな晩年を送ったが、相次ぐ災害のせいで祟り神と見なされ、災害を鎮めるために鎮魂の対象になった。
これに伴い、崇徳上皇は恨みを残して死んでいったという話が急速に広まり、恐れられる存在になってしまったのではないかと言われている。

崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるのだそうで、その対象はあくまで、天皇家。
それ以外の国家権力には向けられないという。

『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)



崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇、諱は顕仁
何の因果か、現在の今上天皇は、継宮明仁

あきひと、と音が一緒なんですよね。

下記引用文をコピペさせてもらったサイトurlはもう開きませんでした。
tp://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu004.htm


日本の「明治維新」は、実は崇徳上皇の承認の下に行われたのである。
孝明天皇の崩御で、明治天皇が践祚したのは1867年1月。だが即位はしていない。
崇徳上皇の命日である同年8月26日、明治天皇は勅使を讃岐に派遣した。
勅使は上皇の「白峰御陵」の前で、宣命を読み上げその翌日8月27日に明治天皇の即位の礼は行われた。
「新しい宮を建立したので、長年の怨念を捨てて京にお帰りください」。
そして9月6日崇徳上皇の霊は移され、700年ぶりに京へ帰って来る。
「明治」と改元されたのはその翌々日、1867年9月8日だったのである。
今の世で怨霊を信じる信じないは勝手。ただ、当時の人たちが信じたことだけは確かである。