多治速比売命 (タジハヤヒメ )神社の拝殿です。
いかにも女神さまの神社って感じで美しい。
堺市南区宮山台に鎮座し、創建はおそらく530年頃。
ずーーっと前から行ってみたかった。
でもどこに在るのかちゃんと調べたこと無かった。
鉢が峯の墓参り終えて、次の大野墓地へ。
日置荘にあるシチリア料理店近くの大野墓地には母の実家の墓があります。
なんと父と母の家は、ともに丸に三柏紋で一緒なんですよね。
たじはやをグーグルマップで見てたら、その途上にあるやん!
これは行きなさいと言うメッセージ。
ナビが示す駐車場停めたら、表参道の鳥居くぐらず脇門から入ることになる。
社務所も、正午すぎてたので午後1時まで休みと貼り紙。
妹は娘のために安産御守賜ろうと思ってたのにね。
祭神は、多治速比売命・素盞鳴尊・菅原道真
本来の祭神は多治速比売命(タジハヤヒメ)一座 。
社伝によれば、タジハヤヒメとはヤマトタケルの妃・橘姫命が転化したものというが、ヤマトタケルにタチバナヒメなる妃名は見えない。
和泉国式神私考(発刊時期不明)に
「多治速名媛命 穂積押山宿禰之女 日本武尊之妃神也」
とあり、景行紀に穂積氏忍山宿禰の娘とある弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を指すというが、
特選神名牒(1925)は「(タジハヤヒメは)橘姫に非ず」とあり、はっきりしない。
このタチバナヒメ説以外に、
“丹比乃波夜姫”とする説(神社覈録・1870)
“丹治比君の祖”とする説(神名帳考証・1813)などがあり、
タジハヤヒメの出自についての定説はない。
なお丹治比(タジヒ)君とは、
宣化天皇と皇后・橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ・仁賢天皇の皇女)との間に生まれた上殖葉皇子(カミツウエハ)の後裔で(宣化紀)、
天武天皇のとき真人の姓を与えられている。、
上殖葉皇子の母を橘仲皇女ということから、社伝にいうタチバナヒメとは、この皇女を指すのかもしれない。
丹治比・丹比とは上殖葉皇子の子が臣籍降下して与えられた氏名。
9世紀中頃に多治と改名している。
丹治比氏の本拠地は河内国丹比郡-羽曳野市辺り
わからないなりに、初参拝したときの印象では、丹治比氏ゆかり?
あたり荒山宮(コウゼンノミヤ)と呼ばれている 、これも気になりますね。
この古代図の下の方に平尾遺跡と記されています。
今でも平尾という地名は残されています。
平尾の隣村が多治井だった。
他にも丹比、丹南、とかいう地名ありましたもん。
近くの菅生神社の境内の石歌碑に、
「菅生の開帳に 平尾の山で ごまのぼたもち せんど食た」
ところで、初参拝では見落としいっぱいありました。
やっぱり先達はあらまほしきかな、です。
国指定重要文化財である本殿も、鳥居の外に水天宮も。
本殿の左に式内・坂上社 の小さな祠もあるようです。
明治43年に合祀さされた坂上神社
式内社調査報告では
「祭神は社名に由来する阿知使主(アチノオミ)であること、諸説一致している」
阿知使主とは、応神紀に
「20年秋9月 倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)の先祖、阿知使主がその子都加使主、並びに17県のともがらを率いてやってきた」
「当社が坂上氏の祖神である阿知使主を祭神とするならば、これは渡来人中の漢氏の氏神でもあり、その氏人の一部は陶器生産にも励んだことであろう」
陶荒田神社 もわりと近くの堺市中区上之 にあります。
また折を見てフィールド調査行ってこようと思います。