熊野本宮大社の神符「オカラスさん」は2006年6月にたまわり、今なお寝室の壁に貼っています。
当時は神社の由来も縁起も祭神も関心なかったこともあり、まったく観光客まる出しの感想文ですが、以下それぞれにリンク貼ってますのでよかった見てください。
この3年の間にお参りした神社
2006/1/2 伊勢
2006/6/11 熊野
2008/8/8 出雲
今回は熊野について調べてみました。
中世の文物には熊野詣の話がよくでてきます。
907~1303年の約400年間に、上皇・女院・親王合わせてなんと23,140回にも及ぶそうです。
高野山と熊野古道が世界遺産になりましたが、
今でも高速道は途中までなので、高速降りてからの道が大変です。
中世の人々がなぜそこまで難儀してまで熊野詣をしたのか不思議でした。
実際に訪れた2006年にはよくわからなかった。
ここから最近知ったことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熊野は古来、出雲に並ぶ「黄泉国」「根の国」であり、死者の住む浄土として死霊信仰の強い土地であったようです。
特に中世以降の熊野は、「死者の熊野詣」といって
死者に会いたければ熊野へ行けといわれたそうです。
そこへ行けば、逆さまになって歩いている死者と会うことができると。
死者たちは逆さ・後ろ向きで歩くにしても、
生者と同じように地面の上を歩き、生者と話をする。
熊野は地上に顕界と幽界が共存している、
ということなんだそうです。
その熊野大社にはイザナミ、スサノオの2神が一緒に祭られています。
日本神話によれば、イザナギ・イザナミの神は日本列島の山・川や神々を次々に生み出し、日本の国土を作りました。
そして皇祖天照大神も生んだにもかかわらず、皇祖神とはなっていません。
「天つ神」ではなく、「国津神」となっています。
天つ神(あまつかみ)とは高天原に誕生した天神=陽
国つ神(くにつかみ)とはもともとの地神=陰
不思議でしょう。
そのイザナミ神を葬ったといわれる地は2箇所あります。
古事記では出雲と伯耆の国境にある比婆山、
日本書紀では紀伊国熊野の有馬村、
どちらも出雲族の支配地域です。
イザナミ神は、死後、黄泉国(根の国)の大神で、
その系譜は、スサノオ、大国主命の親神として幽界の祖神に位置づけらます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天照大神の伊勢神宮・内宮がすべて生を意味する陽(奇)数で作られているのに対し、
出雲大社の天日隅宮の建築の寸法体系は、すべて死を意味する陰(偶)数で作られました。
また神社の神殿の神座は、通常南向きに配置されますが、
出雲大社のように神座を忌むべき鬼門位に西向きに配置することは原則的にありえず、
出雲大社の神殿は、大国主命の幽宮であり、
そこに祭られる神の再生を否定する建築物であったといえるそうです。
つまり伊勢神宮が「生者の舎」、出雲大社は「死者の舎」として作られた。
「国譲り」により出雲大社に祀られた大国主命は、大和朝廷から非常に恐れられた神でした。
日本の古代では、大和からみて出雲の方位=西北・乾(いぬい)は鬼門より恐れられ「裏鬼門」といわれます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第10代崇神天皇まで天照大神は宮中で天皇自らによって祀られていたが、冷害が続き米が実らず、飢餓の上に伝染病が流行して国民が全滅しそうになった。
崇神天皇は先祖の祭りをおろそかにした「たたり」と考えられた。
まず出雲系の四柱を石上神宮に祀り、
大物主の子孫の大田田根子を捜し出して、その御陵の三室山(三輪山)を御神体に大神神社を祀り、
日向系の天つ神と出雲系の国つ神を笠縫と大和神社に祀り、
さらに、熊野の小さな神社を立派な熊野本宮にされたと日本書紀に出ています。
ところが「天つ神」は、宮地も伊勢に場所が定まるまで長年各地を放浪遍歴され、その間ほとんど援助も支援もなかったようです。
長らく皇大神宮への行幸の記録もなければ、奉幣さえなかったのです。
皇祖神である天照大神を祀った伊勢神宮、
天皇家は奈良時代以降1100年間も、
近くの伊勢神宮に参拝すらしたことがないのに、
国家の大事や天皇の即位時には、遠い宇佐神宮に必ず勅使が遣わされたし、驚くべき回数の熊野御幸。
不思議なことです。