5月9日の記事「法然上人二十五霊場」の続きです。
調べたことを忘れないうちにレポートしておきます。
学校で習う日本史では、先生はちゃんと説明されてたのかもしれない。
が惜しいことに、そうした言葉や内容は頭の上を飛び越えて
ただただ、断片的に固有名詞程度しか記憶にない。
それがひょんなことで繋がったという話です。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ … 」
NHK大河ドラマ「平清盛」のオープニング曲でも使われてました。
平安時代末期、京都の庶民を中心に流行した「今様」という歌謡を集めた『
梁塵秘抄』
後白河法皇が当時巷で歌われていた雑芸の歌を集めて編集したものです。
あの大河ドラマでは後白河法皇を松田翔太さんが演じていました。
去年TVではチラチラとしか視聴しなかったので、どのように描かれていたかよく知りません。
ネット検索によれば、後白河法皇は
南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、
仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
天台教学に関心が深かったので、日吉や熊野にまつわる今様を多く撰歌しているが、
法華経もの、大日如来を謳った真言もの、浄土ものも少なくないそうです。
そのなかに、聖(ひじり)のこと歌ったものがあるようです。
聖の住所(すみか)は何処(どこ)何処ぞ、
箕面よ勝尾(かちう)よ、播磨なる書写(そさ)の山、
出雲の鰐渕(わにぶち)や日の御崎、南は熊野の那智とかや
聖(ひじり)とは、Wikiページでは
日本では諸国を回遊した仏教僧のこと。
元来「日知り」を意味し、太陽の司祭者・呪術者を指したとされる。
仏教伝来後は聖の字があてられ、学徳の高い僧を聖と呼ぶようになった。
平安時代中期に至り末法思想が広まると、それに伴って浄土教信仰を庶民に普及する僧たちが現れた。
彼らは念仏聖と呼ばれ、寺院に定住せず深山の草庵に住んだり遍歴しながら修行する半僧半俗の存在だった。
平安中期の有名な聖に「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいる。
聖は、寺院において、学徒(学僧)に相対し、寺院経済を支える禅徒の立場にあった。
聖たちは、寺院から離れて別所と呼ばれる場所に集住し、活動の拠点としていた。
名高い別所の一つが高野山にある高野別所であり、ここに住む念仏聖を高野聖と呼んだ。
平安後期の源空も延暦寺黒谷別所の念仏聖であり、その弟子の親鸞と併せて、聖人(しょうにん)と呼ばれた。
鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め、「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた。
特に念仏行者には「聖」となるものが多かった。
諸国を遊行する念仏僧たちが、しばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、
箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があると、先の『梁塵秘抄』で歌われているのです。
浄土思想の系譜
・証如(~866)が初めて浄土信仰を唱える
・空也(903~972)が民間に浄土信仰を広める
・源信(942~1017)が往生要集を著す
・良忍(1073~1132)が融通念仏を唱える
・法然(1133~1212)が浄土宗を開く
・親鸞(1173~1262)が浄土真宗を開く
・一遍(1239~1289)が時宗を開く
初めて浄土信仰を唱える証如さんって全く存じませんでした。
勝尾寺第四代座主です。
証如が念仏信仰を初めて確立したゆかりにより
勝尾寺が念仏行者の聖たちの集う山として早くから知られていたのです。
法然は、43才の時浄土宗を開創し、この教えは忽ち庶民に浸透するも既存の諸宗派から圧迫を受ける。
建永元年(1206)、興福寺の訴えにより専修念仏停止が宣下され、
彼が75才の時、女官たちを出家させたことが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、
4人の弟子は死罪、彼も土佐(実際は讃岐)に流罪に。
9ヶ月後には赦免になるも京都に入ることは許されず、勝尾寺の二階堂に3年10ヶ月間逗留した。
空也像は京都の六波羅蜜寺で見ました。
良忍さんは、実家の宗教である融通念仏宗の開祖です。
どちらも法然さんより先の時代、平安時代半ばだったのですね。
GW に万部ひねりという行事で、
♪融通念仏なんまいだぁ~♪と鉦を叩きながら唱えているのを見ました。
法然上人が滞在された二階堂はじめ勝尾寺は、源平合戦で源氏方に燃やされます。
やがて鎌倉幕府の源頼朝は、熊谷直美に命じ勝尾寺を復興させます。
その熊谷直美は、その後法然さんのもとで出家します。
京都は岡崎にある、くろ谷金戒光明寺には、熊谷直美鎧かけの松がありました。
くろ谷金戒光明寺は、浄土宗の総本山です。
去年秋、何も知らずに訪れたくろたにさんは、
幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなりました。
そのゆかりで、会津藩士のお墓があったのですね。
今年の大河ドラマ八重の桜の舞台にもなります。