秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

最後の晩餐、最後の審判を現地で観る

2019-03-01 | 旅・イタリア


2003年1月、もう16年も前に訪れたイタリア旅行の記録です。
ルネッサンスの最高の芸術作品を現地で観るというツアーでした。

世間は米朝会談の怪談でもちきりかもしれないけど、お気楽に旅の記録を綴ります。


旅立つ前夜、猫かわいがりしてたギズモが、ベランダで近所のボス猫に噛み付かれ大騒動。
屋内に逃げ込んだそのトラ猫は、ビビりまくってオシッコあちこち振り撒いて逃げた。
その掃除が大変だった。

そして旅の初日、関空に8:10am 集合。
もうすっかり心は旅モードに切り替わった写真から。

※昔の写真って、どれもこれも建物や景色の前に立ちはだかってるのばっかり。
もう時効だからいいかとアップすることに。
ブログ始めてずいぶんアングルが変わってたのを実感しました。




フランクフルト乗り換えでミラノに着いたのは夕方17:25
なんで時間まで分かるかというと、
旅の栞リーフレットもアルバムファイルに保存してるから。

旅の2日目、ベローナまで170km行って観光してまたミラノに戻る。
ベローナはいい街でした。
ロミオとジュリエットのあの有名な街です。


レイナルド ダ ヴィンチの最後の晩餐は完全予約制で、予約ないと見学できないのです。
サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会のなかの昔修道院食堂だった場所に描かれています。



どんな具合だったかほとんど忘れてるので調べてみた。

「最後の晩餐」の見学はグループごとになっており、
1グループ30人ほどが15分交代で見学するしくみになっている。
入口からこの食堂までは4,5枚のガラス戸で仕切られていて2,3分おきに新しいドアが開き、
徐々に「最後の晩餐」へと向かってゆくことになる。
次々とドアが開くたびに少しずつ緊張感が高まってゆく。・・・
続きはこちらで



ミラノからベネツィア近郊のメストレの街のホテルで宿泊。

次の3日目は午前中にベネツィア観光。
ここの教会は、サン・マルコ
外の浸水で心動かされ、中で何を見たか記憶ない。

昼食後、フィレンツェまでの途中にあるラベンナへ。
サン・ヴィターレ教会のモザイク画は素晴らしかった。

フィレンツェで連泊し、
旅の4日目まずはピサの斜塔は補修中で上に上がれなかった。
でも教会そのものも立派なのが想定外だった。


午後には走行距離110kmで シエナの街へ。



行くまで全く知らない街だった。
フィレンツェと対峙してた大きな街なだけあり歴史の重層が興味深かった。

旅の5日目、フィレンツェ花の聖母教会(サンタ・マリア大聖堂
ツアー40人はいたと思うけど、塔に上がったのはうちら2名の他1名。



友達が登ってる途中で酸欠でか気分悪くなってヒヤヒヤ。

ウフィツィ美術館でボッティチェリのヴィーナスの誕生とか春とか、ラファエロの多くの作品とか、短い時間ゆえ駆け足見学。


午後、また175km走ってアッシジへ。
サン・フランチェスコ教会のフラスコ画も圧巻だった。

またまた181km走ってローマへ。


だいたいイタリアの街は200kmまでで次の大きな街に行けます。
ローマ帝国だけでなく、いろんな時代の〇〇帝国の首都とかがあちこちにあって、京都と奈良がすぐ近いような感じ。

スペインやトルコの周遊と違って、数時間もかからずに次の観光地に着きます。
午前と午後で違う街を見て、教会行って、どこがどこやったか、教会の名前すら❓

毎晩ホテルで眠りにつく前に、
「今日はどこ行ったでしょうか」の確認テストしてました。
それでも16年も過ぎればほとんど忘却の彼方です。




ローマでは、ちょっと有名なサボイホテル連泊だった。



旅の6日目、ヴァチカン市国



大きな壁画ミケランジェロの最後の審判、これも現地行かないと見れませんものね。
天井画を手鏡に写して見てる現地の若いシスター見ました、なるほど〜

どっと疲れて外へ出て記念撮影。
後ろに花嫁さん写ってるのに今にして発見。

ローマ市内定番観光地、トレビの泉コロッセオ、そしてスペイン広場



ツアー代金底値の冬は、空は灰色で気温も低くて寒い。
そこへ雨降ったら最悪。
引ったくりに遭わないようバッグをしっかり小脇に挟んでめっちゃ肩凝ったし。


イタリアは情報も見学するものもいっぱい溢れてます。
さらにユーロに変わって間もない頃で、頭いっぱい目一杯の旅だった。

この機会にそんなこんなを懐かしく思い出せて、またしばらくは記憶に残ると思います。


*書き上げて画像見たら、「ここ行って来ました!」と言わんばかりの写真ばっかりでウンザリ。
被写体になるということは、撮影者はガイドさんや知り合いだけでなく、行きずり通りすがりだったりするわけで。
でもこれもあの時代の生き様だったんだと思い直し記録残しておきます。
アングルなんてどうでもよくて、行ったよ〜という証明写真を良しとする価値観を持ってたということですね。


古いアルバムめくり~♪ アクア・アルタ

2019-02-28 | 旅・イタリア




2018年10月29日ベネチアが、歴史に残る大水害に見舞われた時の画像です。
アクアアルタ(Acqua Alta)と呼ばれるベネチアの洪水です。

イタリア語で、アクアは「水」アルタは「高い」という意味、
しばしば高潮による洪水に見舞われ、街が水没してしまう現象のこと。
シロッコと呼ばれる季節風の影響で、秋から春の季節に見られます。

海面の上昇で既に高くなった水位が、季節によっていつもより強い風が吹くことで更に高くなり、ベネチアの街の石畳の隙間などから水が滲みてきます。
サン・マルコ広場など海抜が低いところから浸水が始まり、満潮が重なると水没状態になります。

アクアアルタ状況に対処するために、潮汐予想などのサイトも充実してます。☞ こちら



今から16年前、2003年1月、そんなことはつゆ知らず、イタリア観光に出かけたのでした。
船でベニスの町に渡った時は、まだそんな水が上がってなかった。
ところがゴンドラで街中を巡ってる間に、・・・






通路となる板橋が設置されていてその上を歩きました。
サン・マルコ広場はみるみるうちに水位が上がり、廻廊部分はまだ歩くことができました。
未だかつて体験したことのない出来事でビックリ。


イタリアはこの危機を回避するためのプロジェクトを立ち上げ1980年代末からスタート。
旧約聖書の「モーゼの十戒」にちなみ「モーゼプロジェクト」と名付けられた。
外海との間に水門を作リ、外からの水をシャットアウト。
2003年からこの工事が始まり8年で完成する予定だったが、高いコストと一連の腐敗スキャンダルによって、プロジェクトは長期にわたって遅延。
2018年現在でも完成してなくて、完成予定は2020年らしい。
ちなみに110cmを超えないと動かないシステムなので、未満の日は同じように水が上がってきて・・・




2007-12-08 ヴェネチアンガラス

ベニスの工房で一つの個室に案内され100万円以上で購入されたんだと。
観光客はたいていこうしたガラス工房の一つに案内され、仕事ぶりをみせてもらいます。
セレブはショッピング。
貧乏な私は工房で眺めてただけ。


かつての記事に記しましたが、
ヴェネツィアはアドリア海の最深部ヴェネツィア湾にできたラグーナ(潟)の上に築かれた水の都です。
歴史は、世界史の名高い4世紀ゲルマン民族大移動に発するようです。
6世紀頃、ゲルマン系諸族やフン族が侵入してきたため、もともとヴェネト地方に暮らす住民がこの湿地帯へ避難。
干潟に杭を打ち込んで住める島としたらしい。


続きは 2007/12/8の記事で

ガラスつながりで、ボヘミアングラスは
2006-10-31 ボージョレ・ヌーボー

ここで書きましたが、
ボヘミアのガラスの歴史は、5、6世紀から始まります
イタリア・ルネサンス後ヴェネチアガラスの製法が伝わりましたが、
ヴェネチアのソーダ・グラスはベニス近海のソーダが必要です
入手困難な、ボヘミア地方では周りの森林のブナ材を焼いた灰を使いました
これが災い福となす、水晶に似た非常に純粋で硬い透明ガラスが生まれました




人の一生も、土地の歴史も、紆余曲折いろいろあって面白いですね。


スギ花粉飛散で思い出す南イタリアの旅

2019-02-24 | 旅・イタリア

2/24のスギ花粉飛散予測



日本気象協会の花粉情報から画像もらってきました。

すでに花粉症出てる方には辛いシーズンが始まり、先が思いやられますね。
20歳ごろにすでに花粉症発症、いろんな治療試しました。
毎年1月下旬には鼻がムズムズ、目が痒くなり、耳鼻咽喉科のお世話なってました。
ところがなぜかここしばらく通院してなくて、調べたら平成29年(2017)春が最後だった。

過去にアレルゲン調べたことあって、
一番は猫、ついでホコリ、そしてスギ、ヒノキと続いてました。
ヒノキのシーズンは鼻水ツ〜っじゃなくて鼻づまりが苦しいのが最悪。


先日りひとさんコメントで、スギ花粉いっぱい飛びだす現地で症状出ないことあり、他の空中浮遊飛散物体と合体が原因かもと。
もう15年も前の南イタリアの旅を思い出してました。
スギ花粉がものすごく飛んでた時期だったのに、花粉症出なかったのです。

2005年4月からこのブログ始めたので、その前年で記録はここには残してない。

古いアルバムめくり〜♪



風景写真ばっかり貼ったページにそれらしき杉が右下に。
記憶ではアーモンドの花が咲いてて、スギ花粉が白いモヤとなって飛んでた。
でも花粉症のハックションも出なかった。



風のせいでカプリ島の青の洞窟に入れなかった。
その船遊覧の時間を、フェニキア遺跡であるカルタゴ人の階段見に行った。
ここでもスギあった。

カフェで一緒に休憩した一人参加の高齢女性は、80何才と言われたんだっけ。
岡山の総社市からの参加で、この旅の前には南アメリカのパンパへ行ったんだって。
すごいエネルギーと好奇心に驚きました。


シチリアの風の強い台地で、一人佇み


メモとる女性です。
カメラ撮影は行わず心のシャッター切るんだと。



世界遺産マテーラの岩窟の家屋内でもしっかり見学されてました。

とても印象に残る場所でした。
川向こうにネアンデルタール人の居住跡見た時は、ここでかつて暮らしたことあるようなデジャブ。


ヴェスビオス火山噴火で廃墟となったポンペイ遺跡、アマルフィ海岸、アルベロベッロ、そしてマテーラ見学してからフェリーでシチリア島へ。


アルバムファイルの一番最後にギズモがいた。


2004年2月にはまだフィルムカメラを持って行って、残りに写したんでしょうね。



旅の出発1週間前にインフルエンザ、
高熱やっと引いて行くことができたのだった。



往路の飛行機は関空からミラノで乗り換え。
その出発時はまだ病みあがりだったのでタートルネックセーター着ていった。
これが大失敗。
暑くても脱げない。
首回りはスカーフなどで調整できないと最悪です。

ただし、隣席にイケメンイタリアーノが居て、日本語通じるし(^^)

ちゃっかりトランジットで記念撮影。
左側の写真に助平そうなおっちゃんがなんで写ってるのか記憶は全く残ってない。


旅の間は快復期だったので、バス移動中もずっと寝てました。
ホテルでも先にバス使わせてもらって、連れが後で終わって出て来たら、もう寝入ってたらしい。


旅の最後は、シチリアのパレルモから離陸。
ここで一騒動ありました。
出国手続きで荷物預けるまで大変。
出国税払えとか、航空券見せろとか。
バタバタしてる時、いつもならパスポートはコート下のポシェットにしまうのに、無い!

スーツケースまでひっくり返して探しました。
なんと無意識でコートのポケットに突っ込んでました。
発見するまでの10分ほどでしょうか、帰国できないと真っ青でした。



無事帰国できて、あれから15年が過ぎました。
テンパらなくても、もの忘れはどんどん増えてます。










クレモナ街角スナップ

2011-10-13 | 旅・イタリア
イタリアの旅いよいよ最終回
やっぱりヨーロッパの街はきれいわぁ~

車のCMとかでよく見かけるような、石畳と細い路地がずっと続いてます


信号機はほとんどなく、チュニジアのようにロータリーが多かった。
でもアジアのように道を渡るのに車で怖い思いはしなかったです。



夕方からの結婚式だったので、午前中は若者のあとをついて町散策
ベビーカーで散歩する若い世代が多いのが意外でした。


やはりストラディバリで有名なので、その彫像はあちこちに





この広場の一角のカフェテラスで朝食




ものすごく賢い盲導犬でした


こんなに狭い路地でもカフェテラスとして張り出していても、
文句でないんだろうな~


日本では考えられないような、クレーン車の作業です


朝市の花屋さんの花かごや花束

やっぱり最後は花より団子、ジェラードはさすがでした

3種類選べて確か3ユーロだったと思います。
スモモのようなのは果肉も入り酸っぱさと甘さが絶妙でした。

右奥の水色のを選んだ長男に、どんな味って聞いたら科学の味がするという。
味見させてもらったら、たしかに匂いつき消しゴムみたいで最悪だった。

目に留まったイタリアデザイン

2011-10-09 | 旅・イタリア
クレモナの町を歩いていて、ちょっと日本と違うなぁと目に留まったものあれこれ。

玄関板扉左隅にあった飾り?


広場の水道蛇口




ちゃんとブレーキはついてます。
後輪タイヤカバーがチェーンで日本では見かけませんよね。

スーパーの籠もシャレてます。




最近日本ではゴミ箱が撤去されてるようです。
でもクレモナの町では上に灰皿のついた護美箱があちこちにありました。


ミラノ中央駅で見ました。
色が違うのはゴミの分別のためなんでしょうか。

列車のシート




クレモナ郊外で、お墓


博物館隅にさりげなく置かれた女性大理石彫像2体
なんともいえない表情が印象的でした。




エミレーツ そして ドバイ・トランジット

2011-10-08 | 旅・イタリア
ドバイ空港にぶら下がっている時計は、なんとロレックス!

メインロードに面して金売場がありカウンターで量り売りしてます。
金がちょうど高値をつけていた頃だったのもあるのでしょうが、多くの人だかりでした。


ドバイ空港は横にものすごく長い建物で、メイン道路が巨大ショッピングゾーン、両側に側道のように搭乗ゲートと待合があります。
端から端まで歩くと何キロあるんだろうというぐらい長い。

センターよりほぼ左右対称的な構造で、端に近い場所に植木の植わったグリーンゾーンがあります。


だいたい日本からの便は220~224ぐらいのゲートが使われてるようです。
(2010年チュニジアのときと今回とたった2回の利用ですが)

グリーンゾーンは、その反対側、208ゲートあたりにもあります。
かなり遠い。
ここにエミレーツ利用者の無料カフェレストランがあります。

前回はたまたま入口が閉まってて利用しなかったのですが、今回は行きも帰りも利用できて得した気分。




どうやら午前5時から6時の間だけ閉まってて、前回はこの時間帯だったようです。
関空を深夜便で来るとドバイには早朝に着きます。
前回添乗員さんが案内してくれてこの場所に来た時は、たまたま閉まっている時間帯だったということです。

6時から開くことを知ってたら、また戻り利用できたのに。
それを知らず、普通にあるレストランで食事して結構高くつきました。

日本からドバイまでの搭乗券半券と、これから乗り継ぐ次のチケットの両方を見せると無料です。
トランジット4時間以上と聞きましたが、帰路は4時間を切ってたのに入れました。


階段を上がった2階にあるのでガラス越しに下が良く見えます。
朝6時からの朝食には入場に長い列ができています。

しかし帰路は夜着いたのですぐに入ることができて夕食が食べれました。
水やフルーツも持って出ることができるのでうれしい。

搭乗ゲート前の椅子は数が搭乗数より少ないので、少し離れた場所とかで待つ人も多い。

ドバイ空港をハブとするエミレーツ航空が運賃を安くするのは
とにかくドバイに人を運んで、そこで買い物やホテルなどにお金を落としてもらおうというスタンスなんでしょう。

スーパー形式の免税店がいっぱいあって、照明も明るく、なんか休憩する場所ではないのです。
椅子に座っていても気持ちが休まらないので、待ち時間は想像以上に疲れます。



そして飛行機の中では、各シート前に設置されたice Digital Widescreen
これで何本も映画見ました。

エミレーツのサイトによれば、
「エンターテイメントは、世界各国の最新映画、音楽に映像、音楽やゲームなどの1,200チャンネル以上のプログラムでお客様を退屈させる事がございません」
確かに3本ぐらい映画みて食事2回したら、フライト終わります。

マルペンサ空港までのてんやわんや

2011-10-07 | 旅・イタリア
クレモナからミラノまで鉄道で1時間ちょっと、ミラノ中央駅からマルペンサ国際空港空港までシャトルバスを利用すればよいことは調べてあった。

最初3月に航空券を予約した頃は、現地集合と言われていたので一人でクレモナへ行く覚悟だった。
そのときにネット検索で、パパロンチーノさんのブログを見つけた。
詳しく書かれてあったけれど、さらに質問すると丁寧にお答えくださった。

その後結婚式の日に参列する親族は皆、往路は同じ便を利用することになり、ミラノのマルペンサ空港へ着いたときは車で迎えに来てもらえたのでした。

しかし帰路はそれぞれ別です。
18日に3人がローマへ廻るため分かれました。
この日、イタリアはストが決行され鉄道が止まったのでした。
日本の旅行社などに電話をかけても日曜で繋がりません。
なんとかミラノまでタクシーを利用し(きっと恐ろしい金額になったことでしょう)
新幹線は動いていたようで、予約してあった1本後の列車でローマに無事たどりつけたようです。

9月19日いよいよ私の帰国の日。
仕事があるもの3人は日本へ向けてドバイ行き15:20。
妹の夫は出張でジュネーブ行くためにチューリッヒ乗換えが14:45発。

クレモナで乗る列車の時間を調べようとしたら、
列車の時間は正しくないとイタリア人であるアンドレア君が言うのです。
ちゃんと時間通りくるのは日本であって、イタリアは無理だそうで、
それならインドと同じやんと思いました。

それで朝9時半にホテルまで迎えに来てくれてクレモナ駅まで送ってくれることになりました。
これなら十分間に合うだろうと。

そして駅に着いたのが午前10時ごろ。
なんと時刻表によれば9時半に列車は行ったあとで、次は11時半。
殺風景なクレモナ駅で1時間半も待たないといけませんでした。

ミラノ駅までの切符は、びっくり仰天、売店で購入。


そしてパパロンチーノさんに教えていただいたとおり、
ホームにあるオレンジ色の機械で切符に刻印。

日本のように改札がなくて、列車の中での車掌検札でこの刻印がないと罰金とられるそうです。

どこかへ行く元気もなく駅構内のカフェで待ち時間を過ごしました。

反対側行きホームにはリトアニア人のドナタが列車を待っていました。

次はどこへ行くのでしょう。

少し遅れて到着した列車は、ミラノ中央駅に12時45分頃着きました。





駅構内から外に出て、空港行きシャトルバス乗り場へ超スピードで移動。

甥っ子はスイスの高校で3年間過ごしたので、ミラノへはいつもバスで5時間かけて遊びに来ていたという。
マルペンサ空港は知らなくても、バス乗り場だけはとても詳しい。


彼がいなかったらこのバス乗り場にたどり着くのももっと時間がかかったことでしょう。

バスは何台も縦列駐車していて、一番前の駐車バスの前入口で呼び込みをしていた男性から切符を購入した。

3人で15ユーロ、確か7.5ユーロと書かれてあった。
一人5ユーロと安いけど、ほんとにちゃんとたどり着くのか?
帰国してから確かめたら、3人同時購入割引のようでラッキーでした。

このときバスに乗せる大型荷物は下のトランクに預けるのですが、日本のように半券がないのも不安だった。

乗り込んだらほぼ満席に近く5分も経たないうちに発車。
このとき12:58
飛行機間に合うだろうか…

おまけにマルペンサ空港は2つターミナルがあり、間違わないようにと言われていた。

先に着いたのが国内線乗り場で、私達が搭乗する国際線乗り場まで、バスで10分ほどかかったのに驚いた。
もし間違って降りてたらとても歩いていけないね。

やっぱり1時間かかって、空港着いたのはほぼ14時。

左手はホテルですが、なんと変わった形の建物なんでしょう。

バスが止まると、義弟はスーツケースを取って急いで構内へ。
少し遅れて中に入ったら、まだスイスエアーのチェックインカウンターを探している義弟にバッタリ。

スイスエアーは911テロのあとの航空機利用者激減とかで2004年に一度倒産してます。
そのためか、カウンターは端っこに追いやられ、とても見つけにくい場所にあったのでした。
時間ギリギリでも何とかチェックインできました。

そして私達3人もエミレーツ航空でドバイに向けて15:20発のチェックイン。
まだ1ヶ月も前に航空会社の大阪営業所に電話して、21Cの通路側を押さえてあった。
ところがもらったチケットは41E。
何でこんな後ろでおまけに真ん中の席やねんとクレームつけたかった。
しかし文句を言える語学力がないし、時間もない。

これもあとで調べてわかったことには、出発90分までにチェックインしないと予約が無効となるのでした。
ネットでのチェックインもできたのに、せっかくのスマホを活用することも思い及ばなかったのだった。


マエストロ・リウタイオ★楽器つくりの名人

2011-10-05 | 旅・イタリア
このたびのイタリアの結婚式の新郎アンドレア君のお父さんは日本人です。
1970年にイタリアのクレモナに着いた石井高さんは、
ヴァイオリン製作学校を卒業し、1975年マエストロ・リウタイオ(楽器製作マイスター)石井に。
ジュゼッピーナさんと出会い結婚し、幾多のの困難を乗り越え、今日があります。

詳しくはマエストロ石井さんのサイトでどうぞ→こちら



クレモナの現在の工房で、ヴァイオリンど素人ファミリー向け講義をして下さった。


素材となる木が音を決めるから選別は大事です。
表はもみの木で、裏と横はかえで。

接着するためのニカワは、振動をうまく伝えるためには天然の動物性油脂でないとダメだそうです。
表面に何十回と塗るニスもこだわりの茜色。

形、板の厚さ、カーブ、すべてにこだわり、手作業で仕上げていくから数ヶ月はかかります。
機械を使って作れば1日1万台はできるという。
現在流通するヴァイオリンの90%は中国製だとか。

ほかにもいろいろ、聞いたしりから忘却のかなたですが
マエストロ・リウタイオ、楽器つくりの名人ならではのお話が伺えました。



石井さんが作られたヴァイオリンで、リトアニア人のドナタが試奏した。
リトアニア人って何でもできるのにもびっくりだった。


「秀吉が聴いたヴァイオリン」(三信文庫)という著作をいただけてサインしてもらった。

まだ全部読み終えてないのですが
天正遣欧少年使節が日本にに持ち帰った楽器で、秀吉に当時の音楽を聞かせたことが本のタイトルになっています。
アマーティの作ったヴァイオリンのニスの茜色に惹かれた話から、
その持ち帰った楽器を調べたり復元に努力されたこと、ストラディバリとその周辺の話などなど。




マエストロ石井さんは、ストラディバリがアホみたいに高い値段で売買されているのをとても冷静にご覧になられています。

ちなみに現存する真作で最も評価の高い18世紀初頭の作品は、オークションで約4億円で落札された。
ふつう新品のヴァイオリンは、高価な品でも200万円くらいらしい。

2011年6月21日、東日本大震災の被災者支援のために日本音楽財団が英国のオークションにかけた、
1721年製のストラディバリウス「レディ・ブラント」は1589万4千ドル(約12億7420万円)で落札されました。

18世紀初頭の作品が最も評価が高いようです。
というのは、ストラディバリの生存は1644~1737年で、いくらなんでも80歳越したら体力的にもヴァイオリンを作るのは難しいから。

現在本物と確認されているのは約600挺といわれるにもかかわらず2000挺ほどでまわっているらしい。

ストラディバリの製作した弦楽器には、18世紀の慣例に基づきラテン語でAntonius Stradivarius Cremonenfisというラベルが貼られています。
ここから、彼の製作した弦楽器はストラディバリウスあるいは省略してストラドと呼ばれます。

偽物ラベル
ラベルが貼られていても、レプリカや贋作が多いそうです。

実際、石井さんの工房に鑑定や修理などで持ち込まれたもので贋作に出会った経験も何度かおありのようです。
これは贋物ですって宣告するかどうかは、実に悩ましい。
持ち主の考え方生き方を見て答えるそうです。

莫大な金額で流通するものは、真偽鑑定も、通知も難しいものですね。

ストラディバリアーノ博物館

2011-10-04 | 旅・イタリア
ヨーロッパ1の高さの塔からクレモナの町を眺めたあと、ストラディバリアーノ博物館へ行く事にしました。

クレモナといえばヴァイオリン。
そしてヴァイオリンといえばストラディバリウス。
聞くところによれば、アントーニオ・ストラディバリが作ったヴァイオリンってめっちゃ高くて億を超えるんだとか。

見ても聞いても、それがストラディバリかどうか分かるはずないけど、
せっかくクレモナに来たんだから見に行こうと、若者2人について歩き始めた。





市立博物館の一部がストラディバリアーノ博物館となっています。

入口はいると、大勢の人が時間待ちしてて、どうやら開館待ち?
11時になると何やら式典らしきものが始まりました。


挨拶してる人も、聞いてる聴衆も皆それなりにオシャレしてますが、固苦しくないのがイタリア流。
挨拶も自由な感じで、どうやらドイツ語をイタリア語に通訳してる様子。


言葉はまったく分からなかったけれど、ずっと立って眺めてた。
30分ほどして、階段の踊り場でマンドリン?の演奏が始まったのでした。


なんとこんな場所で、とちょっとびっくりです。
日本ではありえへんもん。



グレーのノースリーブワンピースをお召しの女性のカメラ、
2枚の画像共になぜかマンドリン奏者ではなくてこちらの方に向けられてる
こわっ!

いよいよ入場できました。


FUSSEN フュッセンって、ドイツはバイエルン州の最南西部に位置する街でした。
昔から木がたくさん採れる所で楽器作りが盛んだった。
バイオリンや、ギターの一つ前のラウテと呼ばれる楽器とかが有名らしいです。

その町とクレモナとの友好なんとかセレモニーだったのかも。

アントーニオ・ストラディバリが製作のために使った道具やメモが展示してあると聞いていたが、
この日は特別展だったようです。


そして、製作した楽器ストラディバリアーノがあるのはもともとコムーネ宮だった。

アントニオ・ストラディバリが活動していたのは16世紀後半。
彼が製作したヴァイオリンは、約1,200挺あるといわれ、約600挺の存在が確認されているとWikiに書かれてありました。

楽器内側には、ラテン語の銘があるそうです。
Antonius Stradivarius Cremonensis Faciebat Anno [date]
(クレモナのアントニオ・ストラディバリ作、[製作年])



ところでクレモナで楽器作りが盛んになったのは、この街が裕福だったことも大きな要因のようです。

クレモナは一度も国として独立していません。
ヴェネツィア共和国だった事も、ミラノの一部だった事もあります。
しかし、クレモナはその時代を上手に生きてきたらしいです。

ヴェネツィア共和国時代、街対抗で、
優勝すれば年貢を納めなくてよいというルールのもとである競技会が行われた。
そしてクレモナが見事優勝。
年貢を納めなくてよい権利を得たクレモナは、それ以来、他の街よりも裕福になり、現在でも裕福な町のひとつとして数えられているそうだ。

衣食足りて、ですね。

パルマの生ハムとパルミジャーノチーズ

2011-10-02 | 旅・イタリア
クレモナに到着した夜、両家の親族顔合わせのレストランで、最初に出て来たのはパルマ産の生ハム。

アグリツーリズモでの結婚披露宴での最初のお皿も同じく生ハムがのってました。


そして画像はありませんが、「パルミジャーノ レッジ アーノチーズ」
日本では細かい粉チーズとなったパルメザンチーズとしてよく知られています。

どちらもパルマ産。
パルマはエミリア・ロマーニャ州にあり、かつてサッカーの中田ヒデ選手が最初にイタリアで活躍した町です。

パルマ産の生ハムと他のハム類とのおおきな違いは、
原料となる豚が必ずイタリア国内の特別な認定牧場で生産飼育されたもの限られていることです。

選び抜かれた豚のモモ肉、それも生後10ヶ月でされ、重さが140kg以上、脂肪の厚さも最低2.5センチという厳選された材料を使います。

厳選された素材と風土がパルマの生ハムを生み出すのだそうです。

そして飼育される豚の餌には、「パルミジャーノ レッジ アーノチーズ」の製造過程で生じる乳清(製造過程で生じる水分)が必ず含まれています。
パルマ産の生ハムにはこのチーズの匂いが染み込んで大きな特色となるのだそうです。

たかがハムとチーズ、されど、イタリアの豊かな食生活の一端がうかがえます。


クレモナの名物のパスタ

名前を聞いたけど忘れたので検索したら、マルビーニ?

イタリアやスペインでのサラダは、オリーブオイルとワインビネガーと塩で各自で味付けします。


朝カフェテラスで食べたもの




イタリアはかつてツアーで2回廻りました。
2002年にミラノから入って、ベローナ、ベニス、ラベンナ、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマ。
2003年には、ローマから南へナポリ、カプリ島、アマルフィ、アルベロベッロ、マテーラ、シチリア島。

今回は個人旅行ですし、イタリア人との国際結婚披露宴だったし、ファミリーのパーティにも参加できたしで、ずいぶん食べたものも違います。

たぶんイタリア人はこうしたものを食してるんだなぁということがよくわかりました。
シンプルながらいいもの食べてるなぁとうらやましくなりました。

添加物のないシンプル イズ ベストなスローフーズ

2011-10-01 | 旅・イタリア
古い農場でふるまわれた食事で真っ先に驚かされたのが、子豚の丸焼き。
朝殺され調理されたそうで、新鮮なためか全く豚臭くないのが驚きでした。
もちろん子豚なので肉は柔らかく、何もつけなくても美味しかった。


サラミも固くなく、臭みがなく脂肪部分ももたれず、一度に5枚も食べてしまった。
サラミがこんなに美味しいものとは知らなかった。

農場主が作られた、少し発泡性のあるワインも超美味しかったです。

ワイングラスなどすべて使い捨て用のプラスチックでした。


農場主の奥さん手づくりのレモンリキュール2種。
左側は葉っぱも入ってるそうで、レモンだけに比べ色も味わいも深みがある。
アルコール度数はわからないが、そのままストレートで飲むと結構きつそう。
しかし何杯かお替りしましたが、全く二日酔いならないいいお酒でした。


これも彼女が作られたイチジクのジャムというよりコンフィチュール

パルミジャーノチーズと一緒に食べるといいとすすめられました。
チーズの塩分がまろやかになってよかった。

無添加の美味しさを知って、ハチもやってきます。



他には揚げたてのパンも美味しかったけれど、食べるのに必死でピンボケ画像しか残ってなかった。

やっぱり陽気なイタリア人

2011-09-29 | 旅・イタリア
誕生お披露目の赤ちゃんを抱っこして歌うのは、赤ちゃんの母親ではなく一族の誰か。
マイク大音量でも赤ちゃんは泣くでもなくおとなしく抱かれてます。

食べながらおしゃべりしながらBGMとして聞き流してます。

日本のカラオケ会場と違って特別に歌が終わっても拍手とかしない。

このパーティ会場へ着いた時、特に皆の前で日本から云々の紹介もなかった。
テーブル席が案内されて着席してたら、
どんどん食べるものや飲み物を持ってきてくれるのでした。


入口近辺で揚げパン係りのおじさんたち


黒服のおじさんはカンツォーネが得意のようです。
プロ歌手のようにうまかった。

歌に合わせて踊りだす


教会での挙式中もそうでしたが、子供達はぐずったりしなくて、パーティの邪魔をしません。
広い農場の中庭で勝手に遊んでましたが、遊具の車が日本とはちょっと違うなぁ~




納屋にランボルギーニのトラクタがあり、
是非試乗してみろと農場主が甥っ子を乗せてくれたのでした。


マンマミーア

2011-09-26 | 旅・イタリア
イタリア語でよく耳にするMamma Mia
my mother の意味ですが、今では Oh My God! 「なんてこった」 的によく使われるそうだ。
イタリアでは神様よりお母さんなんですね。

新郎アンドレア君のお母さんの名前はジュゼッピーナさん。
その実家で、一族の赤ちゃんのお祝いパーティがあるというので、
カ・デ・バラーニという田舎町にある古いお邸へ連れて行ってもらいました。




16世紀初めの古地図にその家が描かれてるという。
先祖はスペイン系貴族で、家の紋章は鷲の右向きで頭に王冠が載ってるそうです。



なんと天正遣欧使節の4人の少年は、1585年7月マントヴァからミラノに向かう途中、
クレモナで3日間滞在し2度の大きなミサを行なった記録が残っているらしい。
そしてクレモナに入る手前のソスピーロという小さな町にも立寄った。
このソスピーロに隣接して、マンマミーアの邸のあるカ・デ・バラーニがあります。

きっとジュゼッピーナさんの先祖も少年使節団を迎えに出て、クレモナまで同道したと考えられるらしい。
マンマミーア! でしょう。





赤ちゃんの足の裏らしきフォルムがひょうきんなお祝いのケーキ
切り分けられて皆に配られたのを頂戴しました。

ここでのパーティは、とても印象に残るものでした。
…続く

ヨーロッパ1の高さ111mのトラッツォ(鐘楼)

2011-09-25 | 旅・イタリア
クレモナのドゥオーモ正門左側にレンガ作りのトラッツォ塔が建っています。
   

午前10時に開門されます。
入場料は5ユーロでした。


1267年に建てられたそうですがとても立派で丈夫です。

キリスト、イスラムどこの国でも塔があれば時間が許す限り登ってきましたが、今まで登ったどこの塔よりも内側が明るくキレイでした。
塔が造られた当時、このクレモナの町がかなり豊かだったことが伺えます。



てっぺんまで487段、最後は螺旋階段になってます。






パダーナ平野が四方八方見晴るかせ素晴らしい眺めでした。
街並みはすべて赤い屋根で統一されているようです。


一緒に塔に登ったリトアニア人のドナタは、
私同様、どこの街でも塔に登ると話してました。



彼女はやはり敬虔なカトリック、
教会の結婚式の儀式では、聖水につけれた紙?を神父さんから口にくわえさせて貰ってた。


結婚式翌日のクレモナ最終日、小雨降る中、午後からクレモナの町の教会すべてを歩いて廻ったらしい。
頬を染め興奮して、言葉が尽きないようだった。

クレモナのドゥオーモ広場

2011-09-25 | 旅・イタリア
夕方からの結婚式までの自由時間、土曜日午前中に少し街を散策しました。

クレモナは2200年の歴史があり、今なお中世の町並みがそのままに残っています。
町の中央にドゥオーモDuomo広場があります。
その角のHotel Doumoに宿泊したので、部屋のバルコニーからはドゥオーモ正門が見えました。

左側にレンガ作りのトラッツォ(塔)が建っています。
鐘楼としてはヨーロッパ一の高さ111mもあり、
夜にはライトアップされたてっぺんが左側の建物越しに見えました。


クレモナに到着した金曜の夜、ドゥオーモ広場はカフェテラスとなっていました。


土曜日の朝は半分が朝市がたち、多くの人で賑わいたいていの人は買い物したビニール袋を手に提げていました。
あまり観光客らしき人たちを見かけなかったので、たぶん現地の人たちがここで多くの日用品を調達するのだと思います。



広場を挟んで対面にあるのがコムーネ宮、市庁舎です。
中にはヴァイオリンの展示室もあって、アマティ、ストラディヴァリの作品がみられます。
ここの1階のカフェテラスで広場を眺めながらビールを飲みました。


そのときはここがコムーネ宮だと知らなかったのです。
どうやら、近くの本屋みたいなところでヴァイオリン展示室の入場券を購入するようです。
やっぱりツアーと違って個人旅行は、ちゃんと予習しておかないと、限りある時間で見逃しますね。

ビールを飲んでると、中年カップルが白いポルシェのような車で撮影してました。

雑誌やTV撮影というよりも個人的な撮影のように見えました。
女性は花束を持ってましたから、結婚記念日とか、誕生日とかでしょうか。

もしそうだとしたら、イタリア人って洒落たことしますね~