ウォーキング後半は、308号線のなだらかな坂を下り奈良市中心部まで歩きました。
坂の右手丘陵には追分梅林が広がっていますが、
残念ながら23年春から土地改良のため梅林は閉鎖されてました。
ほんとなら満開のなかを歩けてさぞ見事な眺めだったことでしょう。
大和郡山と大坂への分岐点であったため「追分」という地名がついたそうで
暗峠を越える奈良街道沿いに追分本陣村井家住宅
近鉄尼ヶ辻駅近くまで来ると、垂仁天皇陵があります。
正式には、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)と呼ばれます。
上の画像などを撮影されてるNさん
前方後円墳の円縁部分側から見た画像ですが、
左手周濠に、径10m足らずの小島が見えました。
地図で確認しても、ちゃんと田道間守命塚と記載されてます。
2月はじめ大枝神社地車隊で久美浜へかに食べツアー行った時の記事で
田道間守(タジマモリ)が垂仁天皇の命を受けて
常世の国に不老長寿の妙薬「香具の実」を探しに出かけ、
帰り着いたのはこの久美浜の箱石といわれる。
時の天皇、垂仁天皇は、池や水路を整備して農業を振興したり、
はにわを作って殉死をやめさせる等、仁徳の高い天皇で人々から敬慕されたという。
その垂仁天皇に、常世の国の非時香葉(ときじくのかぐのこのみ)を所望された田道間守。
十年後にやっと持ち帰ることができたとき、天皇は身罷られていたのだった。
天皇の墓の前に香葉を献げ、ついに墓前で殉死を遂げるという伝説が残る。
奈良の尼ヶ辻にある垂仁天皇陵の水壕の中にぽつんと浮かぶ嶋が、田道間守を祀った陪塚とされています。
第11代垂仁(すいにん)天皇は、崇神(すじん)天皇の第3皇子です。
どちらもどう読むのか、普通分かりませんよね~
仁義という熟語もあるから 垂仁「すいじん」かと思ってた。
すじんと入力すれば、酢人と変換されるし、
崇敬と言う漢字からすれば崇はすうと読むのが普通でしょう。
となるとどちらも「すうじん」とまっすぐ読みたいところ。
これを違う漢字を当てはめて
崇神(すじん) 垂仁(すいにん)
同じ一人の人を前半後半と分けたがごとくの命名で、なんか訳ありですね。
さて、その垂仁天皇は大和朝廷の礎をつくられた方です。
祟神天皇の時に天照大神が宮中から外に出ましたが、
垂仁天皇の時に各地を遷座して最後に伊勢に鎮座されました。
そして倭姫命が五十鈴川のほとりで天照大神を祀り伊勢神宮の元を創りました。
伊勢に斎宮をたてられた時代であり、
殉死の禁止と埴輪の起源となった時代でもあります。
それまで皇族が亡くなると近習のものを生き埋めして殉死する風習がありました。
埴輪を以って生きた人に替え陵墓に立てましょう という
野見宿祢の提案を受け入れ、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命からは殉死が禁止されました。
加羅国皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)渡来の物語
新羅皇子の天日槍(あめのひぼこ)の渡来とその神宝をめぐる物語
石上神宮の神宝管理伝承などを、
この垂仁天皇の代のこととして記紀には語られています。
やっと酷道308号線が終わりました。
JR奈良駅を経て商店街に入りました。
足は棒のようになり、膝や股関節が痛くなり、ちょっと休憩。
そこから猿沢の池はすぐでした。
猿沢池周りの名物の柳が枯れていると、ウォーキング前日ぐらいのニュースで見てました。
なぜ枯れるのか理由はまだわからないと言ってました。
25本中、残りわずか9本で、緑あふれる時期でもなかったのでさびしげだった。
そして何よりも驚いたのは、興福寺から南の猿沢池側はがくんと地面が低くなってることだった。
奈良市中心部の地形図、バスや車に乗せてもらってるときには全く気づかなかった。