秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

墨坂の不思議な祟り?

2013-06-27 | 古代史のミステリー
めっちゃこわがりなのは、実像を知る人にはよく知られてます^^
昔からホラー映画や怪談話のTV番組みないし、怪奇もの小説もわかってたら絶対読みません。
よって以下の話はネット検索でひろってきたもので確認していません。


先だって伊勢ウォークで立寄った墨坂神社には波動水という看板が高々と掲げられてました。
その神水をペットボトルに頂戴しました。
歩きながら飲んでたら、なんか胃の形がわかるわぁ~というぐらい重さを感じました。
胃が痛いわけではないけれど、なんかこの水大丈夫かなと不安になったぐらいです。

そんな体験もありなんとなくひっかかるものがあったので、検索ワードをいろいろ変えて調べてみると…。

まず先に見たままを順番にレポートします。


近鉄線榛原駅からすぐ、宇陀川を渡ったところに墨坂神社は鎮座しています。

画像には写ってない左手前に一の鳥居が見えたけど、ウォーキングコース上、この鳥居は帰るときにくぐり撮影しました。
たぶん電車で来た人は、橋を渡り、階段上り2の鳥居くぐって境内に入る人がほとんどだと思います。





画像では左端に手水舎屋根が少し写っています。
「御神水 波動水 奇跡の水」の大きな看板も帰るときに気づきました。
このときは150名をこえる団体が参拝してるので、人の流れに逆らいにくい。
さらに左横に祓戸の神様の社がありましたが、ここもまた帰るときに気づいたのだった。
本来ならば祓戸にお参りして穢れを祓ってからの参拝なのにね。

階段上がり境内に入ると、赤い春日造りの拝殿越しに本殿があります。
本殿は、春日大社本殿のひとつを元治元年(1864)に移築したものです。



この墨坂は、奈良盆地へと通じる古代から交通の要衝で幾度となく記紀に登場します。
あちこちのサイトで記載されてますので、神社ふり~くより引用させてもらいます。

神武天皇即位四年春、鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、
天皇みづから皇祖天神を祭祀され
「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。
その下小野榛原が即ち墨坂の地である。
現在は西峠地区にあるが、神武天皇の軍が大和菟田に入られた時
この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、
天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある。


(神武天皇の大和行軍図)

祟神紀の九年三月(380)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩まれていた。
ある夜、御夢に神人が現れて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって、墨坂の神を祀り、黒盾八枚、黒矛八竿をもって大阪の神を祀れ」と告げたので、
天皇はその教えに従って祀られたところたちどころに疫病は平癒し天下安泰になったと記されている。
この墨坂の神は当神社のご祭神で、大坂の神は香芝市逢坂の大坂山口神社のご祭神であるが、
いづれも古代大和における東西の重要な道路を守る神々である。


「社記」によると、この墨坂で神武天皇東征当時にはすでに祀られていた神々を
文安六年九月(1449)に現在の下萩原字天野に遷座されたものである。
旧社地には小祠を建て「上の森」と呼んだ。






墨坂神社の秋祭では、今の神社から元の社地へと「渡御行列」が行われています。
大神輿へと移された御分霊が11月2日の夜に神社から旧社地の御旅所に赴き、
そこで一晩を過ごしたのち、3日に御旅所から神社へと戻るというオワタリ祭りです。
『日本書紀』祟神天皇紀の故事に従って赤盾赤矛太刀等奉持した武者行列で遷座します。

 赤盾赤矛のレプリカ
祭りで使用されるのを画像検索でもらってきました。


疫病などの悪いものが奈良盆地へ入って来ないようにするため、
盆地東側の街道にあたる墨坂に墨坂の神、
盆地西側の街道に大坂神を祀ったという故事。

今春、四天王寺のすぐ近くに逢坂がありそこの安居神社に少彦名神が祀られてる記事を書きました。
そのコメントでいっきさんに墨坂の神と逢坂の神のことを教えてもらった。

しかし、なぜに赤と黒なんだろうと思ってたら、
宇陀市のサイトには次のように書かれてあった。
「東側は日の出、太陽が出てくる方向なので「赤色」、
西側は日没、太陽が沈む方向なので「黒色」としたとの考え方もあります」


 古代の奈良湖推定図


さて話は元に戻り、
本殿より団体参拝客は左に流れたので、そのままついていくと


竜王宮   祭神 罔象女神
(古くから池を御神体として祀られていたが、昭和56年2月社殿を新築祭祀)

どうやら2011年秋の台風で倒壊していたと、これもネット検索で知りました。





この池の右手に水道蛇口があり、そこからお水賜りました。



波動水で元気がでるかなぁ~なんて
ノーテンキに帰るときにくぐった一の鳥居


なんか気になった墨坂神社でした。


まず波動水というのがいかにも胡散臭いというか…
いろいろ調べていてようやく見つけたのは、「9人の氏子と神主」というお話。

ホラー作家として有名な加門七海さんの著書の中に「怪談徒然草」というのがあり、
作者が本当に体験した話を四夜に渡って語りそれを文章に書き起こしたものらしい。
その中の「9人の氏子と神主」というお話は、作者は固有名詞をあげていないけれど、
記紀の伝承などからして墨坂神社に該当するにちがいないと。

詳しくはS神社訪問記というブログでご覧下さい。

一部抜粋
神社を建て替えることになったときに神社の配置なども変えてしまったのだという。
氏子達が300万円もかけて牛のブロンズ像を造ってしまい、それを置くために本殿の横に祀られていた祓戸神を境外に移動させて、その祓戸神の祠があった場所に牛の像を置いたのだそうだ。
さらに神社の横には信仰もされている小川があったのだが、この水を境内をボーリングして小川の源から水を引いてきて、新しく作られた池に水を張り、さらに御神水として儲けようとしたのだそうだ。

これには神主と10人の氏子代表が係わったのだが、その10人の氏子代表のうちの9人までが病気や事故で災難にあい、神主も脳卒中で入院したり、奥さんが半身不随になったり、子供が交通事故になったり・・・そういう事が三ヶ月の間に次々と起きたのだという。
そして、氏子代表で唯一の無事だったのが、この老人だという話




いろいろ調べていて、
「墨」という字は水を意味し、元は水神に縁があり祀っていた可能性もある
というのもみました。

坂の神は、境の神。
恋しい人に逢う坂であると同時に、逢うことを妨げる神聖な場所でもあった。
あの峠を越えれば…

峠の語源はタムケ、坂の神に木綿四手を供え旅の安穏を祈った習慣が、
やがて枕言葉となり、逢坂山の別名ともなりました。


夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ 
         清少納言

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関 
          蝉丸


ブルーベリーの実わずかに三つ

2013-06-27 | ケータイ・スマホから


春4月、ブルーベリーに花咲いてると報告しました。

それから2ヶ月過ぎてちゃんと3粒が結実しました。
鳥に食べられないうちに味見しないと。

来年はもう少したくさん実がなって欲しい…

ブルーベリーの品種は200種以上もあって、
自家受粉するのだったり、異なる品種から受粉しないと実がならなかったり。
うちのはどれかわからんけれど、実がなってるということはこのままでいいのかな。


立葵(タチアオイ)の葵は、あうひ

2013-06-25 | 四季折々・色とりどり




昨夕、近くの東光幼稚園で撮影しました。
どこかに立葵咲いてないかなぁ~と思いながら自転車走らせていたら、偶然目に留まりました。

というのは、墨坂神社の神紋が「右離れ立ち葵」なのでした。
初瀬と伊勢街道の分かれるあたり、近鉄榛原駅近くに墨坂神社があります。
古事記ゆかりの神社の神紋がなぜに「立ち葵」?



二葉葵の右側に少し離れて一つの葉がデザインされています。
長野の善光寺の寺紋も、同じく右離れ立ち葵だと言われています。


アオイ(葵)というのは、あうひ(仰日)という言葉からきています。
葉が太陽に向かってどんどん伸び2メ-トル以上にもなるので、あうひ(仰日)

平安時代、7月7日に宮中で行われた相撲会の際、
東方から登場する力士は葵の葉を、
西方から登場する力士は夕顔の花を髪飾りにして入場したそうです。
そこから「花道」という言葉が出来たという。




さて、葵のご紋といえば、「この紋所が目に入らぬか」
皆がひれ伏す「葵のご紋」は徳川家の「三つ葉葵」別名・徳川紋



一方、京都の賀茂神社の神紋は「双葉葵

ウマノスズクサ科の双葉葵(別名賀茂葵)を、3つ正三角形のように並べた形が徳川の三つ葉葵です。
将軍家の威光で、京都賀茂神社に双葉葵を使わせないようにしたが
「こちらのほうが、葵を古くから使っている」と拒否されたといういわれがあります。

上賀茂、下賀茂両神社の神紋二葉葵は、松尾神社や日吉大社もそうです。
ご祭神が夫婦、親子の間柄であるからで少しずつ違った二葉葵になってるらしい。


京都賀茂神社の葵紋は、元々は鴨氏の家紋。
立ち葵紋は各地に散らばった賀茂の神官の血を引くといわれます。

旧膳所藩主の本多氏は藤原鎌足を始祖とし、
25代藤原光秀が加茂宮司のとき 立葵を家紋とし、
その子助秀が豊後国本田郷に移り氏を本多とし、以来この紋を本多葵という。

こうして葵紋は
賀茂神社(双葉葵)→本多家(先祖が賀茂神社の社職)→松平家とつながります。

現代のHONDA創立者本田宗一郎も、家紋は丸に立ち葵紋。
『ゴジラ』『宇宙大戦争』『モスラ』などが代表作の映画監督・本多猪四郎 もうそうらしい。

最後にWikiページでみたら
立ち葵(たちあおい)は、
三つ葉葵と同様にウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもの。
ちなみに、アオイ科の多年草であるタチアオイとの関連はない。




フタバアオイの花

昨日1番多かった検索キーワードは「今日の月大きい」

2013-06-24 | 日々是好日
天文カレンダーには、昨日6月23日の月は今年最大と書かれてます。
しかし残念なことに昨夜は雲に覆われてお月様は見えなかった。
その前夜土曜日夜は大きな満月寸前の月見えてました。
今晩はどうでしょう、夜空眺めて見てください。





たまたまこの1週間、gooブログではアクセス解析サービスしてます。

それによると、

昨日1番多かった検索キーワードは 今日の月大きい
今日の月 大きい 13 PV
今日は月が大きい 2 PV


昨日のアクセス数は
閲覧 748 PV
訪問者 307 IP

そのうちどのページがよく見られたか。
トップページ (89 PV) というのは、
このブログをお気に入りとかしてくださっててご覧いただけたのでしょう。

過去ページでページヴューが大きくなるのは珍しいことです。
22 PV 今日の月は大きい 2011-03-19
11 PV 白い葉に黄色の花の名は? 2010-07-07


かつて白い葉に黄色の花の名前がわからなくて、
この言葉で検索したことを覚えています。
同じように不思議に思われる方多いということですね。
これがまた興味深いです。


大阪湾に咲く百万輪のゆり

2013-06-23 | ケータイ・スマホから






9時開園めざして行ったらすでに大勢いました。
ゆりは半分咲き終り、まだこれから咲くのも混在。
ソフトクリームとカレー食べてたら雨降り出した。
半日のプチお出かけ、行楽堪能まではいかなかった。
青い空と海を背景にゆりが咲き乱れてたら感激したかも。



★ご参考までにPCで情報追加しておきます。
大阪舞洲ゆり園、今年2013年6月オープンです。
シーサイドのゆり園は珍しいかも。
200万輪のゆりと書かれてありましたが、だいぶ咲き終わってたので100万輪としました。

駐車場は1700台と書いてあったと思います。
1日500円でした。
駐車場から入場口までの歩道には、

私有地だったのか…



入口や、ショップ飲食エリアは、まだ簡易テントでした。
入場チケット大人1,000円。





なんかごちゃまぜの植え方、ミックスゾーン、私はあまりきれいとは思えませんでした。





近畿圏では琵琶湖の箱館山ゆり園とか有名です。
ゆり園ってこんなものなのかなぁ~というのが実感でした。
なんであちこちにゆり園どんどんできるのか、私的にはよくわかりません。

どれにしよう~

2013-06-21 | ケータイ・スマホから


昨春修理にかなりかかったし、暮れには車検にも出したプジョー206。
先月には自動車税も支払った。
にもかかわらず、エアコンガスもれ。
修理には10万円かかるという。
いろいろ思案し (ー ー;)
この際、乗り換えようかと。
たくちゃんにもらったパンフながめてます。



N-ONE 気に入りました^ ^
もうしばらく悩みます。

マムシグサ

2013-06-20 | 伊勢参宮本街道
先日伊勢街道歩いている時に見かけました。
榛原から初瀬街道から伊勢街道に入り、杉並木を歩いている時でした。


私は初めて見ました。
植物フリークのAさんもNさん、ともにこのクサの名前ご存知でした。

マムシクサというそうです。
みるからに鎌首もたげてるみたいで気味悪い。
もちろん触りませんでしたが、調べてみると茎や葉など毒があるらしい。
茎のまだら模様もマムシクサのネーミング由来になってます。

秋になるとこんな実に。
これを食べても舌がしびれエライ目に遭うそうです。


さて、6回目のウォークは、★★星二つのちょっときつめコースでした。
長谷寺バス駐車場から参道を上りますが、途中から山に入ります。

その坂が突然急になり、下化粧(しもけわい)坂という名前がついてます。
女性の化粧がはげるぐらい汗かくからだそうです。

初瀬川です。

こんなところは蛇やマムシでないかドキドキ。

カメラの撮影時の設定がずれてアスペクト比が1:1になってた。



西峠までのダラダラ続く上り坂の初瀬街道はキツイ。
真夏日の炎天下でなくてよかったわ。

吉隠、なんとも意味ありげな地名です。

榛原宿のあぶらや旅館は江戸時代18世紀の建物です。
本居宣長宿泊地ですが、現在は宿としての営業はなく中が見学できました。

こういう道は車がほとんど来ないから安心して歩けます。


墨坂神社参拝後、やっと1時ごろ子供のもり公園に到着。
お弁当広げてる時、Aさんの夫から大阪はじゃじゃ降りやとメール届く。

昼食後1:45再出発、2時半頃になって雨降り始めました。
ゴールの高井の千本杉は、先に記事エントリーしました。

墨坂神社は次回に続きます。

グッチがリチャードジノリを17億円で買収

2013-06-18 | ブランド
今年春4月、GUCCI(グッチ)がRICHARD GINORI(リチャードジノリ)救済というニュース見ました。
そのうちリチャードジノリの食器入荷したらブログ投稿しようと待ちかねてました。
やっとやってきました!



オリエントエクスプレスというシリーズは、
オリエント急行の車内で使用されている食器です。
ブルーの車体と同じ色のデザインに「VSOE」のエンブレムがアレンジされています。


オリエント急行の正式名称Venice Simplon-Orient-Express(ヴェニス・シンブロン・オリエント・エキスプレス)



1735年にフィレンツェで創業したリチャードジノリ1735は、
多額の負債に加えて金融危機による経営の悪化を理由に、
2013年1月にフィレンツェ裁判所よって破産宣告を受けました。



グッチによる再生計画の受理と買収金額1300万ユーロ(約16億6,000万円)が4月末に決まったのでした。

280年も続いたイタリア高級磁器ブランドの破綻。
かつてウェッジウッドが破綻した時もブログで取り上げました。
2009-01-06

その後、例えばピーターラビットシリーズなどは、
日本メーカーも作るようになりお求め安い価格になりました。

さてリチャードジノリはどのようになるのでしょう。
買収したのがグッチなので、今後の展開楽しみです。


リチャードジノリの代表作
ベッキオホワイト:ジノリ最古の代表作であり不変の定番
イタリアンフルーツ:1760年頃にトスカーナのとある貴族の為に造られた不朽の名作
アンティックローズ:ルネサンス期の銀器の形をモデルとしたロマネスクな逸品
オリエントエクスプレス;オリエント急行の車内で使用されている食器


今回楽オクショップに、オリエントエクスプレスシリーズ2点を出品しました。
ティーカップ&ソーサー1客  20cmプレート 

出雲蕎麦、出雲大社教と出雲教

2013-06-17 | 旅・中国&四国地方
出雲行ったら蕎麦食べようと思ってました。
そばの実を皮ごと石臼で挽くため色は黒く見え香りが強いのが特徴です。
ちなみに更科蕎麦は、そばの中心部分だけを挽いてあるので色が白い。

1時間半の自由昼食時間に蕎麦屋さんを探しました。
どこも満員で並んでました。
やっとのこと田中屋さんで釜揚げ680円、超美味しかったです。

茹でたての蕎麦をゆで汁ごと鍋から器にそのまま入れるから、ビタミンミネラルたっぷり。
そばの風味も充分味わえ大満足。




境内案内終了後、自由昼食のため解散となり1時間半ほどありました。
どこ行く~?



銅の鳥居より向かって左に行くと、神楽殿、千家国造家、バスの駐車場がありそこが集合場所です。

反対側の右側に行ってみることにしました。
なんか人の気配少なく蕎麦屋さんも空いてそうだったから。


東側の小さな門をでて吉野川を渡ると、びっくりするぐらい閑静でした。









北島国造家、出雲教と書かれてあります。



まだ6月初旬でしたが、すでに茅輪くぐりが設置されてました。


出雲教茅の輪守も賜ってきました。


家に帰ってからじっくり地図や案内図見てたら、
吉野川の小橋渡ってすぐに、四脚門があったようですが見落としました。
出雲大社関連の現存する建造物の中で最古らしい。

北島国造家よりさらに200m行ったら、命主社、ここもお参りしなかった。
天地万物の生り出る大本(命)を司る神様で、大国主命を常にお守りになり
八十神に謀られたときも蘇りを助けかれたそうです。
お社の前に樹齢1000年といわれる椋の木があるらしい。

このときは暑いし、蕎麦屋さん探すので頭いっぱいだったから…。
残念、次出雲いくチャンスあれば必ず!



いっきさんに、国旗写した時の日輪画像ともに画像見てもらったら
「出雲大社拝殿裏の雲の流れはまさにオルゴン流を彷彿とさせます」
といってもらえました。






出雲大社の神紋は、二重亀甲に剣花角紋



出雲大社
島根県出雲市大社町杵築東195



出雲国風土記には、諸皇神達がこの大社(現出雲大社)をキヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。
そして神亀三年(726)に社名の示す「杵築」に字を攻めたという。 
以来、この大社を「杵築大社」と称するようになった。
1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。
大正14年4月1日、町村合併して大社町となった。 
以来「杵築大社」より「出雲大社」としての一般的な呼称が広く使用されるようになった。
「出雲大社」は、正しくは「イズモオホヤシロ」と訓むべきである。


社家通りにある出雲教  
出雲市大社町杵築東194


出雲国造は初代・天穂日命(あめのほひのみこと)から始まり、
17代のときに出雲の姓を受けてから55代まで出雲氏が受け継いできた。
56代のときに後継者問題があり、「千家」と「北島」に分かれ平等に職務を分担した。
しかし、明治15年の神官教導職兼帯が禁じられ北島家は「出雲北島教会」を設立。
その後、明治18年に「神道出雲教」と改め、昭和27年に宗教法人「出雲教」を設立した。

千家家のほうは、出雲大社教(いずもおおやしろきょう)

詳しくは、出雲大社・紫野教会でよくわかりました→こちら


堺市初芝駅ちかく日置荘にある出雲大社の大阪分詞は
昭和23年出雲大社より分祀してますが、
その2年前、昭和21年に愛宕神社と命名して創建、主祭神火之迦具土神でした。
昭和33年 出雲大社大阪分祠に昇格。


伊勢までの道6回目、長谷から高井の千本杉まで

2013-06-15 | 伊勢参宮本街道

昨日は伊勢ウォークで、約16km、25,000歩ほど歩いてきました。
あんなに暑かった夏日がウソのように朝から曇り、所により雷雨の天気予報。
おかげさまで熱中症にならずに歩けました。

長谷寺の駐車場から歩き始め、榛原こどもの森公園でお弁当。
雨が降り出したのは午後2時過ぎてからでなんとか折畳み傘でしのげました。

ゴール地点は「高井の千本杉」は屋久島の杉に匹敵するぐらいど迫力だった。
しかし、雨であまりいい写真撮れなくて残念。


伊勢本街道沿いにある巨大な大杉「高井の千本杉」は
融合したと思われる16本の杉が堂々と天高く伸びて迫力ありました。
幹周については測定方法で諸説がありますが、
環境省DBによれば、幹周25m 樹高45m 樹齢約700年。

空海が室生山へ登った際にこの場所で弁当を食べ、箸を地にさしたところ生育したという逸話があり、地元では霊木としてあがめられています。
また、水を求めて井戸を掘り、その周りに杉を植えて自然に水を集める作用を杉に託したことから日本最古の井戸杉ともいわれています。
今でも千本杉のすぐそばには湧き水があります。

以下、スマホ撮影画像より



鳥居とお社「千杉白龍大神」

大樹に神が宿るって、ここでも実感しました。

カポックの花が(T_T)

2013-06-15 | ケータイ・スマホから


昨日まで超暑くて、梅雨らしい雨やなかった。
我が家ではお天気の異常がカポックに出現!
かつてないほど異常な花ざかりです。



お隣さんとのわずかな隙間に植わってるので、
だから隣敷地内にはみ出さないよう常に剪定してるのに。

さて、今日の天気は、全国的に突然雷雨に急変するらしいです。

なんで出雲は縁結びなの

2013-06-13 | 旅・中国&四国地方
お年頃になった時分、40年ほど前の話ですが、すでに出雲は縁結びの神様だと知ってました。
だからといってお願いに参拝したわけでもないけど。

それから月日は流れ、やっと2008年になって出雲行くチャンス到来。
旅パンフとか「縁結び」だらけ、なんでだろうと思ってました。

元禄時代に書かれた井原西鶴の「世間胸算用」に
「出雲は仲人の神」と書かれているのが一番古い文献だそうです。


今回の出雲大社参拝ではガイドさんが付いてくださった。
本殿に祀られた大国主命は西向きに鎮座されてるので、本殿西側の遥拝所から案内されました。



ちょうどその反対側、本殿をとりまく瑞垣外の東西に同じ形の「十九社」があります。
全国の八百万の神々がこの出雲に参集されたときの神様の宿舎だそうです。




たまたま神社関係のお二人は何されるのでしょう?

神無月に全国的に留守番の神様以外はこの出雲に来られるので、
逆に出雲は神在月となります。

神々は人の名前が書かれた札を互いに見せ合いその「縁」を結んでいく。
これが縁結び。
結ぶのは男女の縁ばかりではなく、仕事の縁、農作物と天候の縁、…
一週間がかりの大仕事なんだそうです。


   歌川国久:出雲国大社之図


大国大神が、天照大神に国譲りをした際、
「幽れたる神事を治めましょう」と言ったことが始まりだそうです。
幽れたる神事とは、目に見えない「縁」を結ぶことで、
世の中すべてのものが幸せであるように縁が結ばれると解釈されているため、
この場所が良縁にご利益ありと伝えられるようになったようです。


本殿裏に廻ると、


そのお社背後で見守るように、素鵞社


大国主大神の父神である素鵞鳴尊(スサノオノミコト)が祀られています。
鎌倉時代から江戸時代初期までは出雲大社の祭神で、1667年に本殿から奉遷されました。

本殿東側の東側の「十九社」を通り過ぎ、いよいよ本殿正面


瑞垣のすき間から覗いてみると


なんか工事関係者が…
その奥に、玉垣に囲まれた本殿が見えます。
2008年には遷宮に向けて大国主命が仮殿に移られて、本殿に神様居られないので昇殿見学できました。

なんせ80億円しか遷宮費用がないので、伊勢のように全部建て替えはできません。
本殿の屋根等の大改修だけでおわります。


そしてこの旅の昇殿参拝は、神楽殿で行なわれました。






予約した時間に、各団体は靴を脱いで上に上がります。
お寺さんの和袈裟のような紙が配布され首からかけて儀式にのぞみました。
参拝が終わったら、小さな肌身御守りも賜りました。



神楽殿の正面破風下に張られた大注連縄は超有名ですね。
長さ13m、周囲9m、重さ5トン!

荒垣外に位置する神楽殿では婚礼なども執り行われています。
明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来します。

出雲大社教とは?
次回、出雲教に続きます。
 

遷宮費用、出雲は80億で、伊勢は570億!

2013-06-12 | 旅・中国&四国地方
出雲大社の神楽殿前の国旗を写したら、日輪も写ってた (*^^)v
国旗掲揚塔の高さは日本一で47メートルあります。
現在の出雲大社の本殿は高さ24mですが、
江戸時代の1744年に建てかえる前は48mだったことから、1m低く設定されたそうです。

おおやしろ【大社】といえば、出雲大社のこと。
神宮といえば伊勢、
週末はまた伊勢ウォークで、長谷から墨坂、高井まで歩きます。
忘れないうちに、出雲大社のこと書いてしまいます。

今回の出雲参拝はガイドさんが案内してくださったので、いろいろ知ることができました。

出雲大社の遷宮 総事業費は約80億円だそうです。
それに比べて、神宮の遷宮ではその費用、なんと約570億円!





朝8時に大山ロイヤルホテルを出発し、約1時間半で出雲到着。
バス下車した道の駅の広場には出雲阿国の像がありました。

参詣道の入口に建つ一の鳥居「宇迦橋」から歩き始めます。


神門通り



「勢溜の二の鳥居」から神域です。

振り返ってみると、この地が高くなってるのがよくわかります。






参道はどんどん下がっていく、下り参道です。
ふつう、神社はたいてい見上げる高いところに本殿あります。
社殿が鳥居より下にある「下り宮」と言われる珍しい配置です。

ちなみに、日本三大下り宮は
鵜戸神宮(宮崎市日南市)、貫前神社(群馬県富岡市)、草部吉見神社(熊本県阿蘇郡高森町)
出雲大社はこの3大に選ばれてないのですね。



松の参道が始まる、三の鳥居は鉄でできています。
2008年8月8日に参拝した時は、この鳥居から歩きました。
だから下り参道には気がつかなかった。

奉祝行事として、左側テントではお茶会してました。
右側テントで石見神楽を少しだけ見学。
6月4日は、浜田市の細谷社中が奉納してました。





いよいよ四の鳥居「銅の鳥居」
1580年毛利氏によって寄造されました。
訂正→1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進




この時代は大国主命ではなくて、素戔男尊(スサノオ)が祭神だと彫られてあります。


団体で昇殿参拝する予約時間のために、先に神楽殿へ。






レトロな情緒ある青石畳通り

2013-06-11 | 旅・中国&四国地方
昭和時代には、表日本、裏日本って習ったから、
なんとなく日本海側は裏側で開発が進んでないように思ってた。

しかし古代より大陸に近い日本海側は海運業でも栄えていたのですね。
初詣にいった小浜しかり。
この美保関も、江戸時代には北前船の要港として栄えました。
参道としてもにぎわった青石畳通りは、美保神社鳥居右横から始まります。



美保神社から仏谷寺に至る道は、
雨に濡れると青くひかる石が敷き詰められています。
海辺の石を切り取り、通りに敷き詰めたのは江戸時代中頃。
3m程度の幅で、長さが約200mが石で覆われるまでに百年ほど要したらしい。


今はだいぶひなびてます。
大正時代のレトロな建物が残っています。
与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子、西条八十など文豪も多く訪れた由緒正しい旅館、旧家、酒蔵、お店など。





ゲゲゲ、ムカデやぁ~
裏返って死んでるけど、ムカデって毘沙門天の眷属ですよね。









烏賊の味 忘れで帰る 美保の関  高浜虚子



海上はるかに、大山が見えます。