秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

あかる姫を追いかけて③

2025-01-27 | 古代史のミステリー

案の定、あかる姫を追いかけて夫はやってきたんです。
その伝説を 2011-4-9 
渡辺党からミセスワタナベまで - 秋麗(あきうらら)

渡辺党からミセスワタナベまで - 秋麗(あきうらら)

東北沖で巨大地震があってすぐに円高へすすみ、3月17日の早朝には一時76円25銭をつけ驚きました。この先どうなっていくんだろうという不安が日本中をおおいました。これって...

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ブログに書いてて、
その時に初めてあかる姫を知り記憶に刻まれたのでした。


天満橋あたりは、古代、渡辺津、または小江は新羅江(しらぎえ)ともいったようです。
新羅から天之日矛(アメノヒボコ)が、アカルヒメが逃げた地と聞いて追いかけてきた伝説の地です。
渡(わたり)の神が邪魔をして難波には入れず、
ぐるっと廻って但馬の国に行きましたとさというお話です。


リンク貼ってた、
を再読すると、

新羅王子天日槍が妻を追って難波まで来たが、
渡しの神(恐らく土地の豪族の神格化)に遮られて上陸出来なかった為に、
山城川(淀川)を遡って近江国へ行ったことになっているが、
この時彼らの分族がこの辺りに定着した為に新羅江という地名がつけられたのではなかっただろうか。


2011年にはアカルヒメとカタカナ表記してましたが、
それまで知らなかったあかる姫に興味湧く最初のきっかけでした。


難波古地図は、90度方位違ってるようでイマイチ?
でも渡辺津は今の大川の天満橋あたりということで、そこならわかる。

今にして、淀川河口の西淀川区姫島と地理的にどうなってるの?

調べてみて、なんと驚いたわ🫨

国土交通 淀川河川事務所

明治18年(1885年)淀川で未曾有の大洪水が発生し、
淀川の堤防が次々に決壊し、


これを契機に、近代治水工事のさきがけといえる淀川改良工事が始まり、
新淀川‼️


知らんかった〜
小中高の歴史で習ったことないと思う。
現代の今の淀川みてると過去の地形は全くわからない。

江戸時代ぐらいの地図だと、

この地図でも、どれが淀川本流か支流かもわからない。

豊臣秀吉が淀川左岸を整備し築造した文禄堤も示されてます。
そして、新大和川は元禄頃に付け替えられたのでした。


今の地形見てたら想像だにできません。
かすかに地名に名残り留めるぐらいでしょう。

またまたあかる姫と話はそれて余談ですが、

京都行く時巨椋池というとこ通りますが、今は平野で住宅街か田畑だったり。
昔、と言っても昭和の戦前まで大きな池だったそうなんです。


図書ボランティア行ってるさくら小学校は、
うちの子どもたちが通った三郷小と、隣の橋波小が統合したんです。
守口の小学校は統廃合により、さくら、さつき、よつば、、、

それ、どこやねん、歴史もへったくれもない。


というわけで、
まだまだ続きます(^_^)☆







あかる姫を追いかけて②

2025-01-25 | 古代史のミステリー
19日 あかる姫を追いかけて①  の続きです。

私の不思議探究なんで、マニアックになります😅
淀川水運や、あかる姫に興味おありの方、
ぜひご意見ご感想お聞かせいただければ幸いです。

だいたい神社って坂の上の小高いとこだったり、木々が茂って森みたいだったり。
いわゆる鎮守の森、知らない地でもすぐわかります。

ところが、姫島神社は海抜ー1mエリアの住宅地で全然目立たなかったんです。
淀川左岸の堤道から下って道もややこしい。
やっと辿り着くも家出てから1時間半もたってた。




島と名のつく地名を黄色でマークしました。

先の記事で姫島神社は古代は海の中と記すも、ちょっと言い過ぎ。
西淀川区や此花区に古代の記録残ってますから、
島というか中洲いっぱいだったのでした。

確か「八十島かけて」の歌をブログったことあったので探しました。

わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり船

嵯峨天皇の逆鱗に触れ、839年隠岐に配流となった小野篁が、
難波(なにわ)より隠岐へ向かう船に乗り出で立ちた時、詠んだ一首です。

2010-10-13のブログ
 
   

 

マピオンの地図は選択したスポットの海抜出ます。
地図アプリによって表示される地名異なるのも面白い。


下の方にマークした「伝法」
ーーーあかる姫と関係ないけどーーー
ココは仏教教典が初めて上陸した地と習ったような。

地名由来で検索すると、AIの答えは、
大阪市の地名「伝法」は、645年(大化元年)に
法道仙人が仏法を伝える草庵を建てたことに由来しているといわれています。



西淀川区の伝記伝承のページには、

西淀川区にまつわる伝記・伝説

柏里と柏の葉 神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に向かわれるにあたり、この地を通過したとき、里人がつきたての餅を柏の葉にのせて献上したといいます。これが柏里...

大阪市

 
一部引用

神功皇后が住吉神社に奉献された島の中に幣帛島(へいはくじま)と呼ばれた島があります。
これは三韓から朝貢を運んできた船が、このあたりで難船の危機にあったことから、
この島に姫神を祀ったと住吉神社記にあります。
また一説には、神功皇后が朝鮮半島に向かわれての帰途、
ここで御幣を調整し、国の安泰を祈ったとも伝えられています。
これが御幣島の語源です。

◎姫嶋神社所蔵「東町地車の刺繍飾幕(前幕)
神功皇后が朝鮮半島へ向かわれる折の様相を想像し、明治時代に作られた



佃は往時、田蓑島(たみのしま)と呼ばれていました。
足利義詮の1364年(貞治3年)住吉詣記に「田蓑島の南に当り、野田の玉川という所あり」と記されています。
また宗祇法師の名所方角抄には「田蓑島は天王寺の西戌亥の方よりの海兵なり」とあって、
佃は佃千軒と呼ばれるほど、たくさんの漁民が集っていました。


この佃の漁民が徳川家康を助けたことから江戸に移住して…
一応史実も踏まえ私の妄想記してます。
2018-10-20
 

詰まるところ、大阪市の湾岸エリアの淀川下流域は、今の風景と違って島や中洲だらけ。
さほど高い小山はなかったのでしょう。
さらに土砂堆積し海が後退して地続き平野となっていく。



あかる姫を追いかけて①に記したのを再掲します。

摂津国風土記逸文に、比売島の松原は 
昔、応神天皇の御代に、
新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、
しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、
「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」
といって、摂津国の比売島に移って来た。
だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』
これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。


追記:
アメノヒボコで調べると、
日本書紀」によれば垂仁天皇三年来朝とされる。

摂津国風土記と時代少しズレてますね。ココはちょっとスルーして(^^)



応神天皇の母、神功皇后が姫神を祀ってた、
そうした島へ、あかる姫が大分の姫島から逃げてきた。

難波(=浪速)の八十島、船が行き交う賑やかな所に居たら、
せっかく逃げてきたのに、夫がやってくるやんか。

あかる姫、さぁどうする〜

続く


今日いち-伊太祁曽神社追い出した日前宮

2025-01-22 | 古代史のミステリー
1月19日12:37 わかるの時間だけ、どこの鳥居やねん⁉️
日前宮着いて一枚だけ、撮影不可なもんで
今回感応したのは、摂社の中言神社、名草彦と名草姫



日前宮の最初の参拝記録は内容薄〜いブログで、
2012-6-8

日前宮★やまとごころ周遊記 - 秋麗(あきうらら)

高速道路のNEXCO西日本のキャンペーンの『やまとごころカード』和歌山刑務所へ行ったついでに、わりと近くにある日前宮(にちぜんぐう)でもらいました。今年が古事記編纂13...

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天岩戸神話にて、天照大御神を岩戸より誘い出す手段として鏡が鋳造された際、
三種の神器の一つ「八咫の鏡」に先立って作られたのが
日前神宮御神体の「日像鏡(ひがたのかがみ)」
國懸神宮御神体の「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」といわれている。

>境内はうっそうとした森のように木が多い茂り、参道が左右に分かれます。
なんかいわくありげな不思議な神社でした。



五十猛命の荒御魂@伊太祁曽神社

2025-01-20 | 古代史のミステリー
和歌山電鉄の貴志川線はもともと
日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社の三社参りの参宮鉄道として始まったそう。

まずは伊太祁曽(いたきそ)神社から参拝しました。
伊太祈曽(いだきそ)駅から南へ350m、5分ぐらいで到着。

駅名は「いだ」と濁るのなんでだろ。
気になるなぁ〜と調べたら、伊太祁曽神社サイトで、

神社は伊太神社と表記してキソITAKISO
地名と駅名は伊太と表記してキソ(IDAKISO)
漢字・読み共に異なります。

 和歌山の地名は読みが濁ることが多い。
みかんで有名な有田も、読みは「ありだ」


思ってたより参拝者多く境内社もいっぱい。
さすがに紀伊國一ノ宮。

一番気になったのが、境内社の荒御魂祀る気生神社でした。

伊勢内宮も荒御魂祀るお社あったなと思いました。


本殿は、五十猛命(イタケルノミコト)の和御魂です。

左右に妹神のオオヤツヒメ、ツマツヒメが祀られています。
本居大平の歌碑
山々の木々の栄えを木の国の
栄えを守る伊太祁曽の神

本居宣長の歌碑
朝もよし紀路のしげ山わけそめて
木種まきけん神をし思はゆ


割拝殿には昭和37年の落雷で朽ちた御神木の一部が
「木股くぐり」に

災難よけとあらば、
靴脱ぐの邪魔くさいなんていうてられへん。




実は前夜から急に身体のある一部に鈍痛始まる。
座っても寝ても違和感消えず…
ちょっと今まで感じたことのない痛みで不安はつのる一方😢

きっと紀伊国三社参りで治るような気がするというか、、、
藁にもすがる思い。
実際、神前で手を合わせた時は
ご挨拶して日本の安寧をお願いしました 🙏
自分の痛み取ってくださいと祈ったわけではないです。

ところが、あら不思議〜
信じてもらえないでしょうが、
夜には痛み消えてました。
霊験あらたか💕



五十猛命とは、

高天原を追われた素戔嗚尊は、子である五十猛神と共に新羅国に天降りますが、その地は気に入らず埴土で船を造り出雲国にやってきます。
ここから有名な八岐大蛇神話のお話へと続きます。
そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。紀伊国に静まる神がこの神様です。


一書(あるふみ)に曰はく

韓郷(からくに)には、金銀が満ちている。
わが子の治める国からそこに渡ろうにも船が無くては渡ることができまい」と仰せられて、
お顔の髭を抜いてまかれた。するとスギになった。眉の毛はクスノキになった。
また胸の毛を抜いてまかれた。これがヒノキになった。
そこでこれらの木をそれぞれの用途をきめて、次のように仰せられた。
「スギとクスノキ、このふたつの樹は船とせよ。ヒノキは宮をつくる材料にせよ。
コウヤマキは青人草(国民)の奥津棄戸(墓所)の棺をつくる材料にせよ。
また食料として木の実をたくさんまき植えよ」と。
この素戔嗚尊の御子神を名づけて五十猛命と申しあげる。
この神の妹に大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
都麻津姫命(つまつひめのみこと)がある。
この三柱の神もまた樹木の種子をまかれた。そこで紀伊国にわたし奉った。
この後、素戔嗚尊熊成峯(くまなりたけ)ましまして最後に根の国に入られた。


鎮座の由来が、これまた不思議なんです。

伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)。
伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、
日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、
その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽)に遷座せられた。



福樹箸賜りました。




『紀伊国の和歌浦めぐり⑦ ~伊太祁曾神社~』

『紀伊国の和歌浦めぐり⑦ ~伊太祁曾神社~』

紀伊国一宮の伊太祁曾(いたきそ)神社です。 紀伊国一宮は、ほかに日前宮(にちぜんぐう)丹生津比売(にうつひめ)神社もあるといいます。伊太祁曾神社はもともと日前…

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

 









あかる姫を追いかけて①

2025-01-19 | 古代史のミステリー
Wi-Fiでブログ繋がったのは、9日大宮戎参拝した後。
あっという間に10日過ぎました。
このまま捨て置くと、きっと忘却の彼方となるでしょう。
というわけで続き書きたいと思います。


お正月2日早朝からgooblogが開かなくなり、めっちゃ暇で。
穏やかないいお天気だったしで急に思い立ったことは、
初詣に姫島神社❣️


いつか行こうと、
かなり前から調べてたんです、車か電車での行き方。
改めてGoogleマップの経路で、何気に自転車タップしたら、



13km 所要時間48分、これなら行けるかも、と1日悩む。
思い立ったが吉日。
姫島神社は再出発祈願のご利益あるらしいし、年女だし。

3日淀川右岸を初めてサイクリング🚴
思ってたより大変だったけど実に興味深かったんです。

 1月6日にスマホ回線で投稿した記事です。
 
>この(十三船着場)工事も興味深い。
けど未だWi-Fi🛜繋がらず😢
スマホ通信電波でブログ書いてるので、後日に続く。


で、ココから続きとなります。


赤い★ が西淀川区の姫島神社です。

大宮神社はピンクの
旭区の、ダイエーが誕生した千林商店街の先にあります。
うちから2.7km自転車で12分ぐらい。

青い は先週11日に出向いた福島区民センター。
JR東西線海老江駅が最寄りでした。
以下地図の船着場、海老江のとこですね。



姫島まで行く途中で、大堰が目に留まるもよく分かってなくて。
翌日左岸走ってみるも充電切れそうで毛馬閘門まで辿り着けず。
そのうち探検行きたいと思ってます。


船着場は、海老江、新北野の看板見ただけ。
十三船着場は工事中でした。



十三は阪急梅田からの京都線と神戸線が分岐する要所で、船着場まで徒歩10分だそうです。



4月13日夢洲で開催される関西万博までに船着場開業予定らしい。
船で行く、ちょっとそそられますね。


摂津国風土記逸文に
比売島の松原は 『昔、応神天皇の御代に、
新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、
しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、
「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、
摂津国の比売島に移って来た。
だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』
これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。

参照元
http://www.y-tohara.com/hime-himejima.html


これを確かめたくて、姫島神社❣️
1時間半も要しやっと








続く



21世紀の弥生博物館★青谷上寺地遺跡

2024-12-11 | 古代史のミステリー
今回のツアータイトルは
『松葉蟹会席の夕食 鳥取県内2つの弥生遺跡を訪ねる2日間』
鳥取県協賛ゆえにアンケート提出のモニターツアーでした。

8月末に見つけた時1人でも行く気満々。
念の為に、乗り鉄子さんが遺跡好きでもあるので声掛けたら二つ返事。
おかげで2人部屋になって3000円お安く49,800円❣️


ツアー当日の参加者は、予想通り男性の方が多かった。
16名のうち1人参加が6名、女性2人組が2組、夫婦が3組。
観光バス大型なら40名は乗れますから、
16人なら1人で2席利用でラッキーでした。

ツアー参加申し込んだものの、青谷上寺地遺跡の読み方も?
で、私の周りで一番歴史に詳しい人に尋ねると、
武器による痕跡残ってる骨も出土してる遺跡、と教えてくれた。
一般シニアは知らない、というか興味ないというか、
旅行当日に参加者数みてマニアックツアーだったんだと納得した次第。


昨日のブログ

あおやかみじろう@青谷上寺地遺跡 - 秋麗(あきうらら)

鳥取旅2日目の12月1日、青谷かみじち史跡公園着いて、最初の写真が午前10:05。今年2024年3月24日オープンで、ガイダンス棟も美しい。お昼ご飯時になって知ったこと。ちょう...

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続きがこの旅の最終回となります。


つい最近のニュースで、
愛知県豊橋市牛川町で1957年に発見され、日本最古の人骨化石とされていた「牛川人骨」について、
クマの骨であるという研究成果が12月1日、
東京大学総合研究博物館の諏訪元特任教授らの研究グループから発表されました。


やっぱり分析技術とか各段に進化してるのですよね。
妻木晩田遺跡は、竪穴住居の穴とか、古墳とか、土器とか。
まぁ20世紀昭和期発見の遺跡ってかんじ?

しかし、2000年に山陰高速道工事現場で発見された青谷上寺地はまさに21世紀の弥生遺跡です。
たまたまラグーン(潟湖)だったから泥に埋もれ酸素を遮断、真空密閉状態で腐らなかった。
109体分もの人骨出土ってスゴイし、時には脳みそまで残る頭蓋骨も。
生活品も、工芸品も形色までわかるもの多数。
じゃんじゃん出土して、鳥取考古学会そりゃあテンション上がるわね。


さて、12/1講演は、
「弥生人との出会い」研究員 濱田竜彦氏

最後まで眠くならず1時間あっという間に聴けました。

先端科学が解き明かす青谷の弥生人。
印象残ったこと2つ記しておきます。


109体の人骨のうち32個体のミトコンドリアDNA解析により29系統を確認。
つまり8割の人々が血縁関係になく、各地から集まってきた都市型集合体だった。

また109体のうち頭蓋骨32個のうち、男性17、女性15体。
壮年とみられるものが9割。
男性は壮年後半もしくは熟年。
女性は壮年後半と推定された個体は少ない。
出産で命落とすこと多いのかな。


二つ目は、
なんで同じ溝に109体もの骨があったのかという疑問。
再堆積、遺体の放置、掘削ではなくて、
二次的な集積だと考えられるが、なんでかわからんそう。

それ聞いた友人曰く、
弥生人は2度死ぬ
先月だったか高崎の群馬博物館で観てきた特別展、
ここで繋がった!
アンケートに書いておこうと言ってました(^_-)


公式サイトでPDFが公開されてました。

続々・倭人の真実

ご関心持たれた方は⤵


お得なモニタツアーの重責果たせたかな。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。

今週のブログ訪問者数500前後と伸びない。
昨秋の三重旅レポートは、716〜1153、エラい違いです。
やっぱりマニアック旅ね😅
鳥取県がんばれ❗️




古代は淀江のランドマークも今や「上淀廃寺」

2024-12-06 | 古代史のミステリー
天神垣神社からさらに上がると、
15:03 

上淀廃寺跡
上淀の丘に建つ淀江のランドマーク❣️
だったと考えられるらしいです。
古代は日本海側が表玄関。
対馬海流のればちょうどいい交易拠点だったのでしょう。

一世を風靡する大伽藍の立派なお寺だったのに名前がわからん、
なので上淀の廃れた寺!というのも、なんだかねぇ〜

風も冷たくて、時はまさに冬でした。
つわものどもが夢の跡。
すでに1万歩は歩いてるし、さらにアップダウンでヘロヘロ。

7世紀末飛鳥時代に建立され、平安中頃の10世紀末焼失したそう。



この金堂が上淀白鳳の丘展示館で復元されてました。
15:25にやっと館内に入れた😅



復元された如来像と左右に菩薩像。
壁面も出土した壁面断片を参考に綺麗に描かれてました。

展示品の一部ご紹介





立派な松葉蟹フルコースと、
親切な学芸員ガイドさん達に感謝して❣️
早々に記録残します。

2日目はもっと感動したんですよ。
忘れないうちに、早よ書かんと、ね。


上淀廃寺
頂いたパンフとネットで復習(^_^)☆




誰がいつ、何のために建てたの?
古くは縄文〜飛鳥時代まで、淀江は日本海交易の重要な拠として栄えていた。
淀廃寺は、交易で成功した地元の有力者が自分の富や権力を示すため、
飛鳥時代に建てられたと考えられる。
誰だったかはわかっていません…


なぜ上淀の丘に建てられたの?
地図も方位磁針もない時代、「大山と孝霊山の重なるところ」
が船で淀江へ行くための目印だった。
上淀廃寺は、その目印となる山々を背にした上淀の丘に建てられ、
当時周辺にはないような朱塗りの柱や瓦ぶきの屋根が海からでもよく目立ち、
淀江のランドマークとしての役割も担ったことでしょう。





背景だけ描かれた壁画?
彩色仏教壁画で彩られた金堂北側の壁面に対し、
東西の壁画は蓮台と頭光という背景だけが描かれていたことがわかっている。
なぜ、肝心の仏が描かれなかったのか。
説には、この壁画の前には仏像が置かれ、
背景画と組み合わせられていたのではないかと言われる。
この技法は国内では他に見つかっておらず、
上淀廃寺独自の表現あったと考えられている。


他にはない独自の伽藍配置
塔、金堂、講堂など寺院の主要な建物を伽藍と呼び、
の配置には教義や使い方、土地の条件や時代性などに応じたいくつかの様式がある。
上淀廃寺は1つの金堂と、3つの塔の遺構が見つかっていて
この様式は、国内にも日本に仏教を伝えた朝鮮半島にも類例がない。
た、南北に連なる3つの塔のうち、
南側の2つの塔には建物の痕跡があるものの、
北の塔は「心礎」と呼ばれる仏塔の中心の柱を受ける礎石しか見つかっていない。
本当に建っていたかどうかはわかっていません。



千光寺の鎮守は熊野権現と石鎚蔵王権現

2024-11-26 | 古代史のミステリー
過去2回の千光寺参詣全く記憶残ってないの、なんでだろ。
尾道1回目は2002年初夏?
海岸壁近いとこで背脂スープの尾道ラーメン食べた思い出だけくっきり😆

3回目にして目に留まったアレコレ、続きです。



当時も見晴らし良かったと連れが言う。
千光寺境内は大きな岩がいっぱい。



鼓岩は別名ポンポン岩ともいう。
岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がするから。
右側に大阪城築城の時、搬出すべく割りかけたノミの跡。





本堂裏に、


半世紀を超えて甦った石鎚権現社。



かつての修行場くさり山(石鎚山)
鎖を伝って上に登れるようになってましたが、もう無理。

なんで石鎚山なんやろと思ってたら、鎮守なのね。
浄土寺山の鎖山にある石鎚権現さんの方向を向くそうだ。
すぐ横には御船岩があり、冬至に岩屋山先に日の出が拝めるらしい。


帰ってから知った、有名な玉の岩は、
見逃したので、千光寺Webサイトから拝借。

玉の岩伝説は、



玉の岩の明りまたは朝日を西國寺山頂のタンク岩に反射させたという伝説も残るらしい。
その岩が、鏡岩。
鏡岩は伝説に過ぎないと考えられていたが、
2000年に寺院の裏側の大松が枯れ手入れをしていた際に、
玉の岩から北に30m離れた場所で、直径2mの円形のノミの跡が現われた。

古代の光通信?

尾道の巨石群

尾道の巨石群

広島県尾道市の巨石群と尾道三山を紹介しました

ミステリースポット

 

2回目の千光寺参詣記録の、2012-11-19のブログ

異常に艮神社に感応したのもなんか繋がってそう。





この地図見てるだけでなんかワクワクします。


「万葉集」には「多麻宇良(たまのうら)」
ぬばたまの夜は明けぬらし多麻能宇良にあさりする鶴鳴き渡るなり


たま‐の‐うら【玉浦・玉之浦】 
 [ 一 ] 和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町粉白(このしろ)付近の海岸。歌枕。  
 [ 二 ] 未詳。岡山県倉敷市玉島の海岸とも、広島県 尾道市に海岸ともいう。


千光寺は備後における熊野信仰の中心地のひとつ。
鎮守の熊野権現は、玉の浦繋がりもあるのかしら?
 



大宝山権現院千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、
弘法大師の開基(806年)
中興は多田満仲公と伝えられています。
珍しい舞台造りの朱塗りの本堂(1686年)は別名「赤堂」とも呼ばれ、
林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と記す。
お寺のシンボル的な存在が、「赤堂」や「玉の岩」
"残したい日本の音風景100選"に選定された「鐘楼」です。



保久良の奥ヒルコは、珍彦(ウヅヒコ)?

2024-07-04 | 古代史のミステリー
あっという間に月日は流れ、今年も半分すぎましたね。
早春から行きたかった保久良神社は、5月19日に参拝❣️
できたものの、未だかつて経験したことのない腰痛に見舞われる。

体勢を変えると激痛が続き、何か取り憑いてる?なんて、ね。
背中に厚板をギブス状にあてた如くそろりそろりと凌いで、
日々の暮らし、用事はこなしてました。


しかし日にち薬はエラいもの。
1ヶ月もすればかなり回復しました。
寝たきりにならなくてほんと良かった(*^^*)


保久良神社参拝後、数日に渡り記録綴ってました。

ゼロ磁場、カタカムナ、ヒルコ奥宮?保久良神社 - 秋麗(あきうらら)

今年早春に知った保久良神社。きっかけは『神々は動いてる』の以下記事コメント欄でした。2011-1-31神々が動いている:カグツチ天国行ってみたくなったけど、岡本駅から徒歩...

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聖地★保久良神社の祭石群 - 秋麗(あきうらら)

雨の日曜日、急峻な参道山道だというのにけっこう参拝者いました。知る人ぞ知る聖地でもあるからでしょうか。本殿向かって左手に立岩あり、その前での自撮り写真は前記事で...

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これで二つの疑問なんとかクリアにしときましょ。
最後の疑問「ヒルコ奥宮=奥夷」は次回で。


ココで止まったまま、もう7月に💦

それなりに考えもしましたが、やっぱりわからん。
このまま放っておくと、知り得た情報も画像も埋もれゆく。

一区切りつけておきます。




灘の一つ火
石灯篭は中世より、麓の北畑村の天王講の人々が守り続けた。
油で御神火を点し続け船人の目印にされた最初の灯台です。
現代は電線見える通り、電灯。




珍彦(ウヅヒコ)とも言われる椎根津彦命




阪神間の地図、赤い印が廣田神社です。

ワカヒメ・ヒルコが海に流され拾われた所。
神祇伯を世襲した白川家の最も重要な所領だった広田神社の末社の一つ、戎社が今の西宮神社です。
古代は廣田神社が西宮と呼ばれていたそうです。
時代が下ると海も遠くなり、戎社の格がどんどん上がり西宮神社となった経緯。

越木岩神社の北の磐座ではワカヒルメ祀ってます。

北の磐座でシュークリーム食べてると - 秋麗(あきうらら)

ふと気づいたら岩に見られてる?木漏れ日が苔むした岩で光って目の玉みたい。昨日帰宅後アップしたヒメユズリハ、その群生地過ぎて、小高くなったとこ上ると一番奥に北座が...

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3年前に以下の記録残してました、すっかり忘れてた(^◇^)

越木岩神社は、それまでの磐座(いわくら)祭祀の頃を経て、
正保年間(1644年頃)に社殿が再建され、
明暦2年(1656年)8月16日、円満寺の教順僧侶が
「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神(ひるこおおかみ)を勧請し、蛭子太神宮と称した。

この蛭子太神宮の本殿左側から奥の磐座へ行けました。
磐座信仰が先にありきですね。


ワカヒルメ・ワカヒメ・ヒルコとウヅヒコの重なりが?


今回の保久良探求で、参考にさせていただいたサイトのリンク貼っておきます。
検索重ねた結果、一番詳しいように思います。
またいつか思い出して思索に耽ることできる、かも(^^)


西宮神社(西宮市社家町)~海部や椎根津彦とえびす様の関り - 摂津三島からの古代史探訪

古くから金運上昇の御利益があるとされ、全国に約3500有るえびす社の総本社です。もともとは航海や漁業の神として信仰を集めましたが、室町時代以降のえびす信仰の隆盛で、...

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保久良神社(ほくらじんじゃ:神戸市東灘区)~神戸に「灘の一つ火」を灯した古代海部の椎根津彦命 - 摂津三島からの古代史探訪

(2022.12.02.ヘボソ塚古墳出土銅鏡写真追加)兵庫県の神社を初めて取り上げます。阪急岡本駅からも歩ける距離ですが、この日は閑静な住宅街本山北町のコインパーキングに車...

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興味深い部分引用させてもらい羅列しておきます。

椎根津彦命は神武天皇に倭国造に任ぜられたが、
大和神社祭祀氏族倭直の始祖ともされる。
 
その大和神社『大倭神社註進状』裏書に、大倭氏の古伝承が残る。

椎根津彦命が難波に遊行し釣りをしていたが、ある夜、天から光があって海原を照らした。
行ってみるとそこに磐クス舟が浮かんでいたので引いて持ち帰った。
明晩また光が浜を照らしたので、武庫の浜に宮代をたて、その船を収めて蛭児神の神体とし斎祀ったのが、広田西宮三良殿。
奧夷社の祭神は椎根津彦命である。


【椎根津彦と西宮神社】
吉井良隆氏の説によれば、
椎根津彦は西宮附近を中心として大阪湾北岸を支配する海部の首長であったと思われる。
西宮えびす神社には古く境外社に奧夷社があったが、後に境内に移され現在荒えびす社としてえびす神の荒御魂が祀られている。
元は椎根津彦命だったのではないか。
そして、その子孫の倉人水守(8世紀の人)によって椎根津彦命を祀った奥夷社の元鎮座地がこの保久良神社だったのでは、と推測される。
灘の一つ火が代々伝えられて来た背景に、椎根津彦の神格の一面が承け継がれていると思われる。


【伝承の海部氏】
亀に乗る椎根津彦命像は、元伊勢籠神社にも「倭宿禰命像」の名で存在し、社家海部氏の四代目だと説明している。


神武東征を助け、神武天皇に倭国造に任ぜられた云々とも齟齬をきたすような、逆に戦ったという説もあるようで。
さらに綿々と続き私の理解をこえてます。 
続きはリンク先で(^_−)−☆



 


聖地★保久良神社の祭石群

2024-05-22 | 古代史のミステリー
雨の日曜日、急峻な参道山道だというのにけっこう参拝者いました。
知る人ぞ知る聖地でもあるからでしょうか。

本殿向かって左手に立岩あり、
その前での自撮り写真は前記事でアップしてます。
そこから本殿や閉まってる社務所裏に回れます。



金網で覆われたエリアに
磐座神生岩




金網外にも岩ゴロゴロ。
これらも磐座っぽく見えますが、市民の森の立看板。
地権者の境界とか?


この木のうねり、ねじれスゴい!
方位アプリみてみよう。


手ブレで360度でスクショ無理でした。

真っ直ぐに直立する木々に混じり、たまに捻れた木がありました。
もしゼロ磁場で方位狂うなら、ピンスポットなの?
あるいは感受性豊かな木と動じない木の違いなのか?

これ以上奥に進む脚力ないし膝すでに痛いし😓
調査終了(^_-)

鳥居前で尋ねた方によれば、
左に行けば歩きやすい参道だけど回り道。
右に行けば険しいけど駅に近いんだって。
やっぱり元来た道で降りることにした。

案内板があまりなくて道迷う。
ここで遭難したら老女2名六甲で遭難ニュースに😱



この見覚えある看板まできてやれやれ😅
難なきを得て無事下山できた。
膝庇い腰にきて、水曜日にしてまだ痛い。

珍しい発見は、



おぉ〜アサギマダラ❣️
国東半島沖の姫島で見たやつ


ここも飛来地、やっぱり聖地❣️


昨日道迷った話したら、ぐるぐる🌀でカタカムナって言われた。



楢崎 皐月(ならさき さつき)という物理学者さんが、カタカムナ文明と称する超古代文明の存在を主張。

1948年頃から全国の電位分布実測調査を行い、

六甲山山系の金鳥山での調査中に、平十字と名乗る宮司と出会った。

カタカムナ文字とされる巻物を紹介され大学ノートに書き写す。調査研究重ね20年ほど経過後、著書発表した。



これで二つの疑問なんとかクリアにしときましょ。


最後の疑問「ヒルコ奥宮=奥夷」は次回で。




稲蔵神社の烏帽子岩に降臨した神は

2024-05-01 | 古代史のミステリー
昭和の日に生駒へ行こう❣️
3年前にビル空っぽ大作戦に携わった店の関係者3名、
現況報告がてらお礼参りに宝山寺行き急遽決定。
運転手は私。
行きたいとこ私次第です。

最後に日帰り温泉寄るとして、
先月ブログコメントでさくらさんが教えてくださった稲蔵神社参拝を組み込みました。

稲蔵神社フィールド調査
2 生駒聖天さん宝山寺参詣
3 グリーンテラスで天空ランチ
4 東大阪の極楽湯♨️


行く前に稲蔵神社を予習してて、
生駒デジタルミュージアムには、

小明の鎮守として江戸時代頃創建されたと考えられます。

祭神は生魂明神いくたまみょうじん大宮能御膳神おおみやのみかしわでのみことです。

境内には「烏帽子えぼし石」と呼ばれる巨岩をいわ座として祀っています。




生駒市小明町(コウミョウチョウ)1793

家出る時にナビで稲蔵神社入れても出ない。

住所検索でも番地が出ない。

電話番号の表記もネットで見つからず。

で、すぐ近くのガスト東生駒店をナビに入れて出発しました。

R169ガスト向かいに一の鳥居、思ってたより大きい。

少し入ったとこで、門を掃いてたおばさんに駐車許可得ました。



うーーんパッと見ちょっとこわっ。


赤い鳥居2つ後ろに稲蔵神社の扁額ある石造鳥居ありました。





画像では分かりませんが、
藤色の小さい花が至る所にいっぱい落ちてた。
上見てもそれらしき藤の花見当たらず?





拝殿側面に数々の掲示ありました。





烏帽子岩は高さ6m、周囲12mの立派な磐座です。

向かい側の鳥居は白川大明神


2014年に噴火した御嶽山で、白川大明神の石像首が折れてましたね。
どういう神様なんでしょう。



御嶽大神の石碑もありました。



大神や大明神の石碑がいっぱい。
数えてないけど50は超えそうな。

なんなんでしょう、ここは。
入口の暗さに比して全く怖くなくて不思議。
同行者も、今までみたことない神社やね、気のいいとこやねと言ってました。




生駒市の北西の天野川と、中央から南側の竜田川、その分水点あたり、だとか。

神社神主さんが本出されてるようです。


生駒の天孫ニギハヤヒと稲蔵神社 Kindle版 




レヴューで興味深かったのは、

評価が☆3と厳しいのが、この神主さんが非常に素直なお人柄のようで、出会った伝承を大概丸呑みで信じてしまう傾向があることです。
例えば、某宮司から聞いたという、とある神が西アジアから来た渡来人というのも特に調べもせず素直に受け容れてしまったこととか。
そういう都市伝説やオカルトレベルの話は個人的には地雷なので、平成天皇表記と共に☆ふたつ減で。
また、山陰や九州に残る日本と海外を往来していた海人族の面影を宿す神々やその伝承は調べていない御様子なので、そこは読者各自がバランスを取りたいところです。
そして、縄文文化を全く受け継いでいないアイヌを縄文代表のように言うのも、鵜呑みにせずそこはきちんと勉強して頂きたかったと思いますが、著者が神職として真摯に生きてゆく事には特に関係のないことなので、これはこれでいいのでしょう。
それらの点以外は一読に値する本だとお勧めしたいです。



間人皇后母子像で思い出した、彼の地の不動明王が母子像だったこと

2023-12-27 | 古代史のミステリー

間人港で水揚げされる間人(たいざ)蟹は「幻の蟹」と形容される超高級ブランド蟹。

その味は格別らしいけど、食べたことないです。

間人は、うちらがカニ食べた久美浜と、丹後半島の先の経ヶ岬の真ん中辺り。

そのすぐ近くの海岸にある立岩見学行きました。

先の記事に画像載せましたが、虹かかって幻想的でした。


立岩は東洋のエアーズロックといわれるジオスポットです。

日本列島が大陸から離れた頃の約1500万年前に出来た柱状の巨岩で、高さ20m、周囲40m。

伝説が残っています。

推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊という3匹の鬼が首領となり人々を苦しめていた。

朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し鬼の討伐に向かわせた。

その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、

「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出す。

やがて鬼との合戦が始まり、劣勢になった鬼は山の奥深くに逃げ込むも、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出す。

英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、みせしめとして丹後の岩に封じ込められた。

その岩が現在の立岩だと伝わり、今でも風の強い時や波の高い夜などは、鬼の泣き声が聞こえるといわれている。



この立岩を正面に見据えて、間人皇后と聖徳太子の母子像が建っていました。

平成2年竹下内閣の「ふるさと創生基金一億円」の一部を使用し建立されたようです。



聖徳太子の御母である穴穂間人(あなほべのはしうど)皇后は、

蘇我氏と物部氏の争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に身を寄せたと伝わります。

大和の国へ帰られるにあたり皇后から自らの名間人(はしうど)を賜るも、

畏れ多いと考えた村人は御退座にちなみ間人(たいざ)と読むことに。

この伝説をもとにした母子像です。



間人皇后母子像 - 観光 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

間人皇后像は高さ3.5m、聖徳太子像は高さ1.5mのブロンズ製の像。母子像の後ろの石柱は、高さが5.5mもあり、飛鳥時代を表現している。中央部が太く、奈良の法隆寺の柱と同じ...


母子像の後ろの石柱はなんだろなと思ってたら、

高さ5.5m、中央部が太く奈良の法隆寺の柱と同じ形で飛鳥時代を表現しているそうです。




2013年に久美浜湯元館でカニ食べたことあると、先の記事で書きました。

あの時は宿泊したので、翌朝宿近辺散歩しすぐ近くで二つの祠見かけました。

祠中を除いて

>なんで母子像が不動明王なんだろうと、ものすごく気になりました。

詳細は 2013-2-8⤵

母子像が不動明王とは、これいかに - 秋麗(あきうらら)

久美浜温泉湯元館に泊まった翌朝、温泉つかって朝食までまだ時間があった。近辺を散歩することにした。湯元館すぐ横を流れる佐濃谷川不動橋を渡ると、対岸に平屋の湯元館が...

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あれから10年過ぎて、丹後半島でまたも母子像に出会う。
間人皇后は彼の地に滞在されたけど、聖徳太子は来られてないようです。
なのに母子像としてモニュメント残す土地柄、伝説。
何を物語るのでしょうね。


さらに、謎は深まるばかり…




こつま南瓜祭り@生根神社

2023-12-23 | 古代史のミステリー
昨日の冬至は上の天神生根神社へ。
大阪メトロ四ツ橋線玉出駅からすぐでした。
住吉大社北へ数百mにあるのが奥の天神生根神社で、
すぐ近くに同じ生根という名の神社2つ。
5、6年前まで知りませんでした。

まずは見たまま。


南海線岸里玉出駅から来る友達と待ち合わせしてました。


10時に近隣の幼稚園児による鼓笛隊演奏ありました。



コロナ禍を経て数年ぶりに再開されたのか、過去の南瓜お振舞いと違ってました。
まず、蒸し南瓜祈願券付きを800円で賜ります。



祈願券裏に住所氏名とお願いを記し本殿に納めました。
少彦名神に中風除け、莫気払い、無病息災祈願です。

授与された南瓜は


蒸し南瓜に小豆かかり、甘さ控えめで美味しかった。



勝間南瓜塚なでなで。
豊受大御神(食物の神)より陽の気の精を賜った「こつま南瓜」の御霊を祀る

子どもの頃に、小っちゃいけど大人みたいに賢い子をこつま南瓜と言った。
でも泉大津の友は知らんと言うてました。





由緒によりますと、

大昔、茅渟の海(大阪湾)に大津波が起こり、
西宮の恵美寿神社は社殿とともに流れ、御神体は勝間の浦に流れつかれた。
村民これを漁船に迎えこの地に祀った。
後、西宮の氏子がこれを聞き伝え返還を要請され、
御神体をお返しして、御分霊を奉祀したのが神社創建の始めと伝わる。

伝統的な特殊神事として、この神社に古くから伝わる「こつま南瓜祭り」がある。
江戸時代より、当地勝間村特産物であった「こつま南瓜」にちなんだ無病息災を祈願するお祭りで、
毎年12月の冬至には大勢の老若男女で賑わいます。

江戸時代に飢饉がおこったとき、
勝間(こつま)村の農民達は、大事に保存していた、こつま南瓜を食べ餓えをしのいだそうです。
その感謝の意を込められた「かぼちゃ石」という石が生根神社の境内にあったとのこと。
古くから生根神社では「こつま南瓜」神事が行われていたとのことで、
参詣者は一年間の平穏無事と無病息災を願い、その御利益は霊験あらたかだったと伝えられています。




2016年6月19日の記録です。
少彦名命の生根神社参拝 - 秋麗(あきうらら)

少彦名命の生根神社参拝 - 秋麗(あきうらら)

明け方からすでに雨降ってて天気は悪いし、ギズモの調子も悪い。もう少し遠出する予定を急遽変更して住吉大社へ。10時に天王寺で待ち合わせして、チンチン電車阪堺電軌上町...

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この記事のコメント欄に、

>こつまナンキンって子供のころから親しんだ南瓜の名前です。
小柄な利発な子を「こつまなんきん」とよく言ってて、
ちっちゃいけどぎゅっと詰まってるという意味だと子供心に思ってました。
勝間村の特産品である南瓜とはつゆ知らず、「こつま南瓜」神事も。


吉田一氣さんに頂戴したコメントも意味深。
未だ解明できてませんが…


桂カツラは聖なる木で、金屋子神降臨し、葵祭にも

2023-10-16 | 古代史のミステリー
島根県雲南市の菅谷たたら訪れたのは9月末でした。





高殿傍の桂、カツラの木が色づいた季節の画像探しました。

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

たたら製鉄が操業された高殿が国内で唯一現存する菅谷たたら山内(雲南市吉田町吉田)で、神木のカツラの木が満開となった。見頃は26日まで。製鉄の炎のように赤い花が、...

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

 
山陰中央新報デジタル  2023/3/25 19:00
>今後、花が新芽に変わると、光の反射で黄金色に染まったように見え、色の変化も楽しめる。


こんなふうに⤵︎ 変わるようです。



美しい、見たいなぁ〜
画像検索で見た時はてっきり秋の紅葉かと思いました。




住んでる近くに桂の木は多分無いと思います。
今までに見て記憶に深く刻まれたカツラの木は、

一里四方の水を呼ぶ木★和池の大カツラ - 秋麗(あきうらら)

但馬高原植物園のパンフレットには、和池の大カツラを次のように紹介しています。「当園のシンボルで幹周り16mの大カツラ。千年以上この湿原を見守り、今なお瀞川山より水を...

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2013-8-7 但馬のマザーツリー


兎和野の大カツラ★語源は香連(かつら) - 秋麗(あきうらら)

今大阪は晴れてますが、消滅した台風15号は前線と一緒になって午後から雨らしいです。猛暑に豪雨、今までにないような気象が続いた夏でした。ふ~ふ~言いながらもあっとい...

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2013-8-31
カツラは水を調整する一種のコンデンサーの役目を果たし、「水源の森」たるゆえん

これは覚えてました。
しかし久々に読み返すと、すっかり忘れてけど、

カツラの幹は、ほぼ垂直にそびえたつので、材は直通であり器具や道具に用いて狂いが少ない。
とくに平安初期の貞観時代には、カツラ材による白木彫りの仏像が多くつくられた。
当時、人はこれを檀佛とよび、カツラを神霊の宿る木として貴んだ。

カツラは、太古第3紀には太平洋をはさみ日米両国に広く繁茂していた。
その後、アメリカのものは絶滅し、日本のものだけが生き残ったので日本特産とされる。
学名 Cercidiphillum jponicum ヤポニクム
英語も、カツラは「カツラ・ツリー」で通用する。

水分が多くて肥えた土地を好んで生育するので、尾根上にはなく冷涼な渓流などに見られる。
カツラの木の近くには水が湧いて出たり流れていたりする事が多い。




金屋子神が降臨した桂、カツラの木は聖なる木。
なんでカツラに降りたったんだろうと気になりまして。

「桂 聖なる木」で検索するとと

山幸彦がわたつみのみやに行き豊玉姫と出会ったとき、井戸のそばにあった聖なる木が、カツラ。

京都には桂の里があり、松尾大社、月読神社が鎮座します。

>桂の木は切っても切ってもすぐに枝が出て太く成長するため、不老不死の霊力をもつと信じられ、…

続きは、



京都の葵祭では、葵桂といって、



祭の当日(5月15日)
内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、
すべてに葵鬘(あおいかずら)を飾ったことからきている。
使用される葵はフタバアオイで、葵鬘は葵(あおい)を桂(かつら)の枝に絡ませた髪飾り。
諸葛(もろかずら)あるいは葵桂(あおいかつら、きっけい)とも呼ぶ。



不思議ですね〜
しかし、金屋子神がカツラにどう絡むのか?
検索に検索を重ね、やっと。


第5話 樹齢2千年の桂が日本の製鉄の歴史を変えるかもしれない。 - 但馬二千年桂

  糸井の大カツラは、国の天然記念物であることや樹齢が2千年であることから自...

但馬二千年桂

 

上記サイトによりコピペ。

浅井壮一郎氏の『古代製鉄物語』(2008年8月彩流社)には、
小片にしたカツラの生木をルツボに入れ、生木から発生するメタンガス、一酸化炭素を還元剤として使用し、
(ふいご)も小規模で移転が容易な低温でできる古代インドの製鉄技術が紹介されています。




たたら考によりますと、

たたらの語源
中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、
製鉄作業の送風器具(吹子)に使われたところから、『たたら』と名付けられたとも、
インド地方の言語『タタール=猛火の意味』から転化したとも言われます。 
図は岩手県の小林家に伝わる製鉄絵図の皮吹子です。 


たたら製鉄にカツラの木が深く関わってたように思え、納得❣️





つんぼの春日がしくじって榎本神社は

2023-06-30 | 古代史のミステリー
大神神社には年に一度は参拝するのに、春日大社は10年ぶりでした。

2013年3月に見落とした摂社の榎本神社にやっと。





場所は、春日本殿の南回廊の角近いとこ。
ちょっとわかりにくいです。




こうした地図確かめて行ったのに、えぇ〜何処?
砂ずりの藤の木の横は壁で見当たらない。
ふつう南門から出入りしますが、その回廊沿いに傍道を行きます。
言われたらなるほど、なんですけどね。


榎本神社祠の左側に立看板には、

御祭神 猿田彦命
御例祭 11月1日
御由緒 春日の地主の神として尊崇され、本社ご遷座後、
一時安倍山(現在奈良県桜井市)に御遷りになったが、
承平5年(935年)再びこの場所に御遷座になった。



安倍山を調べると、明日香のキトラ古墳の南側の山でした。
土地を交換したけど、云々。
私の知ってるエピソードと違ってる。
過去の記録から見ていただきましょう。


竹と合体したムクロジ - 秋麗(あきうらら)

先週のお伊勢ウォーキング3回目の終点は春日大社本殿前駐車場。4時半出発でそれまで自由に時間を使うことができました。50年ぶりで春日大社参拝しました。立派な一の鳥居で...

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2013-3-23 より以下コピペ。

大和の傳説に以下のような伝承が書かれてあります。

● つんぼ春日(奈良市春日大社)
春日の最初の山の主は、つんぼであった。
初め常陸の鹿島から、春日明神が遷ってござった時に、
山の主に向かって『この山を、三尺借りたい』と申し込まれた。
山の主は、僅に三尺位のことでもあるし、耳も不自由だから細かにも聞きたヾさず、
『よいとも、よいとも』と快く承諾したのであった。
ところが、其三尺といふのは面積でなくて山全体の地下三尺のことであった。
それで今でも春日山の杉などの樹木は悉く地下三尺より深くは根をおろしてゐない。
此、山の主の春日様は、現在の官幣大社春日神社楼門の西手、
回廊の簷下にある攝社春日神社(通称 榎本神社)がそれである。
即ち、つんぼの神様である。
明治二十年頃までは春日に参詣した人々は、必ず先ずこゝに来て、
『春日さん、参りましたゼ』と云ひながら、
其柱を握りこぶしでトントンと幾度もたゝいて、祠のぐるりを廻ってから本社にいったと云ふことである。

……ココまで

2010年早春にチュニジアを旅しました。
その時の記録で

地中海の女王☆カルタゴ - 秋麗(あきうらら)

グッドタイミングなことに、産経新聞で「地中海のきらめく至宝」というタイトルで「古代カルタゴとローマ展」に関する記事が4回(2/9・11・12・15)連載されました。さす...

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「フェニキア人は卓抜したモノづくりと航海技術で知られ、
地中海の東から西方へ、そして大西洋へと国際交易網を築き、植民を進めた。
紀元前814年には、チュニジアの首都チュニス近くの海岸に、
フェニキア本土から、王家のきょうだい間の相克を逃れてきた王女エリッサの一行が舟で到着する。
エリッサは先住民から土地を手に入れ住み着いた。
ここよりカルタゴが創建された、とされる」

王女エリッサは土地を分けてもらうに当たり、牛1頭分の皮だけの土地といわれたそうだ。
それでその皮を細く長いひも状にし、
その紐で囲った土地をゲットするという機転を利かせた英知ある女王だったと伝えられています。


なんか似てますでしょう、やり口が。
伏見稲荷大社が藤森神社から境内を手に入れたのにも似ています。
未だに藤森の祭りのだんじりが伏見稲荷の前にきて、
土地返せ〜、今日神さん留守って、やりとりするんだとか。






榎本神社場所のわかりやすい画像もらってきました。

六甲山と瀬織津姫 236 「ワニ」を歩く | 追跡アマミキヨ

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 東大寺の大仏殿から春日大社(奈良市春日野町)へ。 〜平城京擁護のため国譲りを達成された最強の武神 である武甕槌様(鹿島)を神山御蓋山(みかさやま)に奉還...

追跡アマミキヨ

 

こちらのブログによりますと、
今の榎本神社と、御蓋山浮雲峯遥拝所は対角線上にあると記されています。

そして、

「くだんの春日大社・榎本神社は、祭神を猿田彦神とするが、古くは巨勢姫明神だったという説がある。


巨勢祝(こせのはふり)と言えば、日本書紀の神武即位前記に、「和珥の坂下に巨勢祝という者あり」と、

抵抗勢力の長(?)として記されている。和爾氏とは神武以前からの大和豪族だったと分かる。

和爾町には、「和珥坂本伝承地」の石標が随所に。

巨勢祝(または巫女)が祀ったのが春日御蓋山の祭神か。」



神奈備サイトの春日大社 奈良市春日野町 も参考になりました。

鎮座地は春日野と呼ばれていた。

おそらくは和珥氏が齋祀る神社であった春日神社が現在は榎本神社として本殿より奥の回廊内に祀られているが、この神社が地主神とされる。

祭神は巨勢姫明神とされていたが、江戸時代に猿田彦明神となった。

この神と春日明神との間には土地交換説話があると言う。

すなわち榎本明神の領分である御蓋山と春日明神が一時的に鎮座した安倍山(桜井市安倍)を交換したと言うものである。

巨勢姫明神は『日本書紀』神武即位前紀の「和珥の坂下に巨勢祝といふものありて」と帰順しなかった土賊として登場する巨勢祝と無関係ではなかろう。

また、安倍山であるが桜井市大字外山に宗像神社が鎮座、「春日の宮」とよばれていたそうで、その辺りだったのか。 

平城京遷都の際、藤原氏の手で春日野地域が宮古の範囲に入れられている。

長安のように四角からはみ出ているにもかかわらずである。

藤原氏が平城京全体の鎮守として和珥氏春日氏小野氏などの先住者に圧力をかけたのであろう。