蝉丸神社は、逢坂峠から大津に下ると旧東海道沿いに3社あります。
住所は3社とも大津市内ですが、
大谷にある蝉丸神社は逢坂峠の京都側、関蝉丸神社の分社です。
旧東海道沿いの小さな広場、左奥に「蝉丸大明神」の石燈籠が両脇に立ってます。
由緒には以下のように書かれてあります。
「当社は天慶9年(946・平安中期)、蝉丸を主祭神として祀る。
蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲玄翁の神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許によって始めて興行することが出来た。
その後、万治3年(1660・江戸初期)に現在の社殿が造営され、街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を併せ祀っている」
急な石段を上がった所の鳥居をくぐり右に曲がると舞楽殿、その奥に透塀に囲まれて本殿。
古びた社殿の右手に小さな祠ありましたが、どなたが祀られているのかわかりませんでした。
こちら蝉丸神社は、蝉丸を主祭神とすることからしても、名前どおり本来の蝉丸神社なんでしょう。
逢坂峠を下る途中にある「関蝉丸神社」上下2社は、
嵯峨天皇(在位809~23)のときに猿田彦命と豊玉姫命を祀られ、
円融天皇(在位969~984)の代に蝉丸を合祀したとされています。
関蝉丸神社は、上・下二社をもって一社を構成していて
上社は旧片原町に鎮座し「坂頭の社」「関大明神蝉丸宮」とも称し、
下社は旧関清水町に鎮座し「坂脚の社」「関清水大明神蝉丸宮」とも称します。
関蝉丸神社については稿を改めます。
さて、先の記事でもふれたように、蝉丸は坊主めくりで有名な札です。
蝉丸ルールというローカルルールがある地方もあるようです。
私が子供の頃はどんなルールだったかもう記憶のかなたですが、
それでも蝉丸という名前とその歌だけは覚えていました。
これやこのゆくもかえるも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関
確かに、逢坂峠は山城国と近江国の国境で、ココから畿内と畿外を分かちます。
この関から東を坂東、東の国。
いずれも異界であり他界です。
逢坂峠に坐す関明神も、境を守る塞の神、悪霊の侵入を防ぎ土地を鎮める神です。
蝉丸に代表されるような峠に住む人々は、その塞の神に仕える司祭者であったともいわれています。
蝉丸は盲目ということで普通の人ではなかったのです。
異形者は町を追われるのです。
『関清水大明神縁起』では、蝉丸は醍醐天皇(在位897~930)の皇子で
盲目であるため王宮に居ることがかなわず逢坂山にただ一人流刑の身となった…
京都新聞「ふるさと昔語り」(136)蝉丸と逆髪
蝉丸は平安時代前期の歌人であり、琵琶の名手でもありましたが、生没年不詳です。
さまざまな伝説が残されています。
能の「蝉丸」も有名です
一般的に能では、怨霊として登場するシテが供養をうけて、最後には成仏して退場するというものが多い。
しかし、蝉丸は最後まで悲嘆の中にいるという意味では残酷な能といえるらしいです。
蝉丸の墓が福井県丹生郡越前町にあります。
諸国を流浪の果て、越前に来て陶の谷にたどり着いた蝉丸はやがて病気になり
「私が死んだら七尾七谷のまん中に埋めてくれ」と遺言し亡くなった。
蝉丸の名前から連想繋がりで、小倉百人一首の5番目に猿丸大夫の歌があります。
奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき
猿丸大夫も三十六歌仙の一人とされていても、蝉丸同様、生没年不明です。
以前、滋賀県の瀬田から岩間寺に参詣して宇治田原に出る途中で
猿丸神社を通り過ぎました。
綴喜郡宇治田原町大字禅定寺小字粽谷44
お参りはしませんでしたがとても印象に残っています。
猿丸は名前、大夫とは神職のひとつ。
特に神楽や奉納舞のような芸能で神様にお仕えする職業なのですが、
あまりにも正体不明なので、政変で敗れた皇子の世を忍ぶ名前だとか、
没落した皇族や有力政治家だった人物が名前を出せないでいる、などと憶測されてきました。
蝉も猿も、名前にしてはなんか不思議でひっかかるものがあります。
「蝉丸 猿丸」で調べていると 以下PDFがヒットしました。
蝉丸を探せ - むかしの日本講演
出雲の山の民かも と書かれてありました。
とても興味深いです。
蝉丸の墓がある福井県丹生郡越前町は、江戸時代中期に越前国葛野藩(かずらのはん)があったところ。
8代将軍徳川吉宗は、綱吉から越前国丹生郡3万石を与えられた。
そしてなんと、福井県丹生郡越前町織田(おた)が織田家ゆかりの地。
この越前織田庄で1800年の歴史を持つ劔(つるぎ)神社の神官を務めた忌部氏が先祖です。
織田信長は祖先にゆかりのある越前の獲得に執念を燃やし幾度も越前攻略を企てた。
たかが百人一首、されど…
なんかありますね~