天王寺駅から北へ15分ほど行くと、四天王寺があります。
10年ぶりぐらいで行ってきましたが、以前はそれほど神社仏閣に関心なかったので過去に気づかなかった点が何箇所かありました。
通常、寺の南門が正式な門で、四天王寺の正門も本来「南大門」です。
しかし多くの人は天王寺駅や地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘駅から歩いてくると自然と「西門」の大鳥居から境内へ入ることになります。
で、なんとなくこの門が四天王寺の表門だと思ってしまいます。
「石の鳥居」から奥に「極楽門(西門)」が見えます。
かつて上町台地の西側は海で、海に沈む夕日が美しく、この西門を出るとすぐ西方浄土に連なっていると信じられていました。
今でも古代人が夕陽を眺めたこのあたりを「夕陽ケ丘」と呼びます。
春秋の彼岸の中日のみ、境内西側に立つ「石の鳥居」の中に夕日が落ちます。
「日想観(じっそうかん)法要」が執り行われ、参詣者らが境内の真西に沈む夕日に向かい静かに手を合わせるのだそうです。
かつて境内西側は海で、太陽が真西に沈みゆく光景に極楽浄土を思い、信仰したことに由来する修行が日想観です。
ほとんどの人は西側の石の鳥居から入る、
ということは「浄土」から参拝していることになってしまうけど、いいのかな?
鳥居といえば神社の結界を示すと思っていました。
寺なのにどうして鳥居があるの?
真ん中に掲げられた扁額には何と書かれてあるのだろう?
こう思う人は多いようで、四天王寺のサイトには以下のように説明されています。
「扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあり、
これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、 ここが極楽の東門の中心である』の意です。
この額は箕の形をしており<チリトリ>のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。
もとは木造でありましたが1294年に現在の石造となりました。
寺に鳥居は奇異に感じますが、 元来鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので神社に限ったものではありません」
そしてこの鳥居は日本最古の石造りの大鳥居の一つとされており、重要文化財に指定されています。
1294年(永仁2年)に再建され、日本三鳥居の一つです。
(吉野・銅の鳥居/安芸の宮島・木の鳥居/大阪四天王寺・石の鳥居)
西大門の四柱にコマ状の小さな車輪が付いています。
転法輪といわれ、参詣者はこの門をくぐる時に車輪をまわして通ります。
法輪は、お釈迦様の教えが他に転じて伝わるのを輪にたとえたもので、仏教の象徴です。
合掌し、「自浄其意(じじょうごい)(心が清浄となりますように)」と唱えて軽く右にお回し下さい。
チベットのマニ車みたいと、四天王寺のサイトで確認しました。
「元来、西の大門と呼ばれていましたが、戦後再建されてからは極楽に通ずる門の意味から極楽門と呼ばれるようになりました。
この門にはあまり他所ではみられない「転法輪」という手で回すコマ様のものが4基ついていますが、
これはブッダが教えを説かれることを表す法輪(チャクラ)を小さくしたもので、
手で回すことにより「仏の法(のり)を教えて下さい」と挨拶代わりにしたのが起源です」
四天王寺を創建した聖徳太子は、私達世代にとっては以前の一万円札です。
高額紙幣の代名詞としての「聖徳太子」
あれほどのスーパースターと習ってきたのに、
今や歴史の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたり
『聖徳太子はいなかった』という本なども出版されたり諸説噴飯です。
聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位して用明天皇となられた頃、
仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立していた。
たった2年で用明天皇は逝去され、皇位を巡って争いになります。
蘇我×物部の対立は激化、父も母も蘇我氏と繋がる厩戸皇子は当然蘇我軍に加わり参戦します。
厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。
この戦いで物部氏は破れ没落。
戦後蘇我馬子は崇峻天皇を擁立するも、いうことを聞かないので暗殺します。
593年天皇家史上初の女帝である推古天皇を新たにたてました。
このときわずか19歳で厩戸皇子は摂政に。
見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺を建立しました。
墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されています。
直径約55メートルの円墳。
墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれているそうだ。
よっぽど怨念が怖くて、でてきて欲しくない人たちがいたってことですよね。
四天王寺は当初、四つの院を持っていました。
孤児や高齢者など身寄りのない人を救済したり(悲田院)
病いを持つ人に医療を施したり(施薬院,療病院)
学問や精神的な救済を目的としたり(敬田院)
人々の日々の生活に密着した救済・文化センターのような所でもあったそうです。
今でも大阪の民衆の心に深く根付いてるのは、
こうした記憶がめんめんと受け継がれてきたのかもしれません。
創られた太子信仰だけで、関西人の心深くこんなに永い時代を超えて浸透するのかな??