


Angel Vera Ceramicaと言う山間の窯元で購入した物です。」
確かに南スペインで買ったわ。


このトイレとビデはポルトガルのポルトのホテルで撮影しました。
ポルトガルではビデがついていないとホテルとして許可されないそうです。
ラテン系の国々ではたいていついています。
下半身を清潔にすることにかなりこだわる民族なんですね。
日本ではあまりポピュラーではないので戸惑われる人も多い。
大と小を分けるのか、とか洗濯場所かなどなど。
日本で普及しているウォシュレットは設置が難しいそうです。
TOTOなどがヨーロッパ進出に意欲を燃やしても、
水が硬水でカルシウムなどのミネラル含有量が多いため、
すぐに詰まって後のメンテナンスが追いつかないので断念されているらしい。
水道の蛇口からどうして水を出すのか、
バスタブでシャワーとカランとの切り替えや排水も悩みます。
押してだめなら引いてみな、回したりいろいろいじりまわしてやっとです。
最近は日本でもかなり変わったものがありますが、
イベリア半島ではちっとやそっとでは簡単に水もだせません。
以前西洋金具の不思議というタイトルで記事書いたことありますが、
民族が変わると発想法が根本的に異なるのか驚くことがよくあります。
画像左のドライヤーはコードの始末が面白かったので撮影。
右はホテルの部屋の窓です。
黒いレバーを右に90度倒して、上10度ほどが開く仕掛け。
この窓も閉め方がわからずあけたままお休みになり寒かったという人もいました。
画像なくてご紹介できませんが、
他の都市のホテルでもいろんな窓ありましたねぇ。
金具や道具の使い方の違いを面白がる私と連れはすぐに対応できるので、
他の方の部屋に出張して開けてあげたこともありました。
ポルトガルのテレビのリモコン、
これも皆さん苦労しておられました。
テレビとビデオとラジオなどの切り替えスイッチに気づかれない人が多かった。
Onde a terra se acaba e o mar começa(ここに陸尽き海始まる)
ポルトガルの16世紀の国民詩人ルイス・ドゥ・カモインスの書いた詩の一節です。
ポルトガルといえばロカ岬とファド。
これを見なくして、というぐらい有名でしょう。
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今回のツアーは8日間で159,800円。
これに関空施設使用料2,650円、ポルトガル空港サービス・保安料2,300円、
ドイツが7,200円、そして燃料特別付加運賃23,350円が別途かかりました。
ほとんどの食事と観光がセットになっていましたが、
最初に書いたロカ岬とファドだけがオプショナルツアーで別途料金です。
私たち1行4人はどちらも申し込みませんでした。
自分たちで電車とバス乗り継いでロカ岬に行こうと思っていました。
連れのタニは出発前に頭の中でシュミレーションして、何度ロカ岬へ行ったことか。
たぶんこうした鉄道に40分ほど乗って、シントラでバスに乗りかえれば行けるはず?
ところが私の体調が思わしくなかったこともあり、
連れは何度も空想の中でロカ岬へ行って堪能したこともあり、
たぶん想像するに、潮岬や稚内や長崎鼻とそうたいした違いないやろ?
きっとここがロカ岬って石碑が建ってるからそうかぁと思うだけやで
と、急に話が変わってリスボン市内観光に切り替わってしまいました。
F邸のあるじさんに冬のロカ岬はこんなに素敵でしたって報告する予定だったのに・・・
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ユーラシア大陸の最西端と言われるロカ岬は、
140メートルの断崖で、270度に開ける大西洋が見渡せて、
頂上に十字架を掲げた石造りの碑がただただ建っているらしい。
この石碑に、ポルトガル語でOnde a terra se acaba e o mar começaと書かれているらしい。
これはバスコ・ダ・ガマの偉業を讃えポルトガルの大航海時代を含む歴史を詳しく謳いこんだ、カモインスの9000行からなる大叙事詩の一部だそうです。
彼の棺はジェロニモス修道院の入って右側に安置されていました。
左側はバスコ・ダ・ガマです
今回のオプショナルに7000円で参加した人に聞くと、黄色い花が咲き乱れきれいだったそうです。
そして私たち一行は11、12世紀のイスラム時代を色濃く残すアラファマ地区を歩き回りました。
ガイドさんにこの地区を観光するというと、特にめぼしいものはありませんよといわれました。
でも韓国人のツアーや欧米人らしき学生の旅行者にたくさん会いました。
日本人は見るところが違うのかもしれません。
憧れの市電にも2回乗りました。
ファド記念館も見学し、坂道のリスボン市内を夜までぐるぐる。
それほど大きくない街でしたが、
広場が多くて、その広場から道が放射線状に伸びていることもあり、道を確定するのに神経使いました。
そのため写真にエネルギーを注げなかったので、画像はどれもこれもイマイチ。
丘から見たサン・ジョルジェ城を望むリスボン市・バイシャ地区
エレベーターで丘の上に上がり、山の手の落ち着いた街中を少し歩くと、サン・ロケ教会があります。
1583年日本の天正遣欧少年使節が1ヶ月滞在したイエズス会教会です。
やっとたどり着いたときは午後5時を過ぎていたので中に入れなかった。
マンショ・マルティーノ・ジュノア・ミゲルの4人の少年たちは10年後日本に無事帰国しましたが、1597年にバテレン追放令が出されていて、彼らの居場所はありませんでした。
悲惨な末期を迎えざるを得なかった彼らのポルトガルでの足跡を見たかったのに残念でした。
教会横のケーブルカーは今は廃線となっていたようで、歩いて降りました。
夕方もう歩くのが嫌になって、かといって私一人ホテルに戻るのも不安で、リベルダーデ大通りのベンチで休憩中に撮影しました。
ヨーロッパの街は、クリスマスを彩るツリーやサンタクロースの飾り付けは、クリスマスが過ぎてもすぐには片付けず、1月6日の公現祭(こうげんさい)まで飾られます。
さすが1月も後半に入って、まだ撤去されていない飾りに電気はついていなかったけど。
この飾りつけ期間にいくと、それはそれはきれいです。
日本のクリスマスイルミネーションほど華々しくはありませんが、赤い電灯の灯が、各街ごとにデザインが異なり素晴らしい。
キリスト教徒の長い歴史の積み重ね、
クリスマスだけのえせ教徒とは根本的に違いますモンね。
1/17 旅の最終日
午前中はリスボン市内観光でした。
前夜連れから葛根湯をもらってのんで、ちょっとましな気分。
午後からの自由行動もあるし、張り切ってスタートしました。
発見のモニュメント
海に向かって左側 ↑右側の下から2番目に王妃
この発見のモニュメントはヨットハーバー横に堂々と海を向いて建てられています。
最前線にいるのがエンリケ航海王子です。
バスコダガマ、マゼラン、ザビエルなどが彫られています。
右側のほうに女性で唯一、エンリケ航海王子の母(ジョアン1世の后)。
イギリスから嫁いできて、イギリスと友好関係にあったことが大航海時代の立役者となったといわれています。
この広場には大理石で世界地図が表され、日本は1541年に発見(到達)されたことになっています。
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発見モニュメントと海岸沿いに並んでべレンの塔があります。
打ち寄せる波際に建つべレンの塔に囚人が閉じ込められたとか。
その前の飛行機、これはパリまで大陸間を飛んだリンドバーグよりも○年早く、大西洋を越えた記念モニュメントです。
南アメリカの○○まで誰が成し遂げたかを聞きましたが、メモを取らなかったので何一つ手がかりになるような記憶の断片も残ってなかった。
ポルトガル人は自慢しぃではないので、有名ではないだけだとガイドさんが言ってました。
名前も年号もわからず調べようがなかった。
やっぱり人の少ない南米よりは、「見よあれがパリの灯だ」とセンセーショナルでなくっちゃあ。
アメリカ人はイベント上手ですね。
線路をはさんで反対側に世界遺産「ジェロニモス修道院」
ナザレの広場で干した果物やナッツ類を売るおばあさんです。
少し赤ら顔で体格は立派です。
日本に鉄砲が伝えられた種子島で、初めて南蛮人を目にしたときの印象を、「赤ら顔で大きな鬼のよう」と書かれているそうです。
このおばあさんを男にすればそんな感じがしないでもない。
バテレン(伴天連)とはキリスト教の神父のこと、 転じて、キリスト教の俗称。
ポルトガル語のpadreパードレー(神父)からきた言葉といわれていますが、
この記事を書いていて私が推測した由来は、「バターリャ」から来た者。
あんたどこから来なすった?
バターリャ
おぉ、バタレ、 No バターリャ、 バテレン? Ohイエース!
1/16 旅の5日目
ポルトを出て186kmでバターリャに、その後ナザレ、オビドスをめぐり、リスボンへ。
体調悪いなんてへこんでられないほど、この日もたくさん見学しました。
日本の戦国時代同様イベリア半島でも、国家が固まるまでは、婚姻関係や養子縁組やらあらゆる方法をとって、地盤を固めていきます。
スペインやポルトガルも大航海時代を迎える16世紀までは様々な結びつきがあったようです。
バターリャの街には世界遺産の重厚なバロック様式の修道院があります。
1385年6000名を率いた隊長のジョアンⅠ世が3万人のスペイン軍と戦い勝利を収めました。
まるで桶狭間の織田信長のようですね。
その勝利の記念に建立したのがバターリャ修道院。
そしてアッバス王朝が始まり、5番目の息子がかの有名なエンリケ航海王子です。
1498年バスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわり、インドに達し胡椒を独占、原価のなんと360倍で流通し大儲け、やがて東方貿易など大航海時代をきりひらきました。
その500年を記念して、1998年のリスボン万博が開催されたように、いたるところで大航海時代の遺物や記念ものが世界遺産や観光地となっています。
修道院で暮らす人たちは外を出ることが禁じられています。
そのため横に回廊を儲け、中庭でくつろいだそうです。
無名戦士の墓を24時間守る衛兵たち、
たまたま毎日正午に行われる交代式を見ることができました。
どこの国でも自国のために命をささげた戦士を丁重に弔うのが常識ってもんでしょう。
バターリャでキャベツのスープのランチで一息ついて、次はナザレへ。
イエス・キリストが育った街ナザレはイスラエル北部にありますが、同名の町は世界各地であるらしい。
昔は漁村だったようですが、今はセレブなリゾート地としても有名らしい。
谷間の真珠と称されるオビドスは城壁に囲まれた山間の小さな町です。
13世紀から19世紀にかけ、代々王妃の直轄地として愛され、今もなお中世のままの姿をとどめています。
ほとんど子供たちの姿を見かけませんでした。
街中だったからか、教会めぐりの旅だったからか?
サラマンカの街角で
ジダン選手も子供の頃マルセイユの街の中でサッカーに明け暮れてたんですよね。
リスボン ケーブルカー跡地にて
廃線になったケーブル跡を下っていると、石蹴りながら同じく歩いてた男の子。
顔にまでペイントして幼児教室からの帰りなんでしょうか。
ママと一緒に歩いているところを、
「フォト、OK?」って聞くと絵まで見せてくれました。
リスボン繁華街にて
夕方ヴィトンショップもあるような目抜き通りで、
アコーディオンを弾いて、籠を咥えた子犬で客寄せする未来のミュージシャン?
それともただの物乞いなのか?
あまりに犬がかわいくて50セントを入れてあげました。
トップの画像は、いよいよ帰国の日、
朝7時10分のフランクフルト行きを待っている時、ベンチに腰かけた私たちの前をヨチヨチ歩いてた女の子。
まだ1歳半ぐらいでしょうか?
おしゃぶりが離せないようで、手にしたタオルハンカチはブルーでした。
旅に出てその地の食べ物、飲み物を試してみるのも楽しみの一つです。
今までも中国ではサソリのから揚げ、エジプトでは鳩の丸焼きも食しました。
行く先々のビールもどんな味かなぁ~って。
ものすごくしんどかった帰りの飛行機はさすがにスパークリングワイン小瓶2本にしましたけど。
往路の飛行機内で 帰路の飛行機内で
団体旅行ですから、昼と夜の食事はいつも3皿のみ。
スープ、メインの肉か魚料理、デザート、そしてパンだけ。
水を頼んでもお金がいるから、いつも昼からビールかワインを頼みます。
普段アルコールを飲まれない方からみれば、ほんまにしんどいの
カステリーニャ風にんにくスープ
中にパンが混じって「ふ」のような食感。
皆気持ち悪いって言ってたけど、私は結構おいしかったので完食。
キャベツのスープ
ジャガイモがメインのスープにキャベツが混じって、風邪に効きそうでしたので完食。
たこのガルシア風は、たこをこねこね回してヘロヘロにして茹でたもの?
歯ごたえなんてぜんぜんなし。
柔らかすぎてちょっとねぇ、付け合せのジャガイモはおいしかった。
たこのガルシア風
ポークグリル ますのソテー
付け合せはたいていボイルしたじゃがいも、左の黄色のはサフラン入り?
5日目から歯茎まで腫れてきて、右側では噛みにくくなったけれど、それでも8割がたいただきました。
たらのブイヤベースふう
ポルトガル人はたらをよく食べるそうで、家庭でのたら料理メニューは100種類ぐらいあるそうです。
1998年にスペインを周ったときは南のほうだったからか、必ずサラダがつきました。
各テーブルにオリーブオイルとワインビネガー、塩、胡椒が置いてあって、皿に盛られたレタスやきゅうりに各自で調味料をかけて食べました。
今回は北のほうだったせいか、バイキングでトマトが出たときは取り合いであっという間になくなりました。
最終日に1万円のオプショナルツアー、ファドディナーショーに参加された方にいかがでしたかと聞くと、サラダがおいしかったと答えられたのが印象的でした。
自由時間に八百屋さんでレタスやトマトなど買われて、ホテルで召し上がる方もいたほどです。
北国ではジャガイモばっかり食べているみたいです。
デザートはほとんどのものが甘すぎて・・・
このチョコムースも一口でスプーンを置きました。
甘~~~いぃ
1/15 旅の4日目
朝起きると声が出にくくなっていて、頭も鈍い痛み、寒気もする。
どうやら風邪のウイルスに見事侵入された模様。
朝一番にサンチャゴコンポステーラ大聖堂を見学を終え、
高速にのって232km、約3時間ほどでポルトガルのポルトの街へ。
EUに加盟していまや国境はないがごとく高速道路は繋がっていますが、多少雰囲気が異なります。
ここからポルトガルですといわれたとたん、高速道わきに商業たて看板が現れました。
ここで時計を1時間戻しました。日本からの時差は7時間から8時間へ。
ローマ時代の港町から発展し、ここに成立した王国がポルトガル王国。
イスラム時代を経て、12世紀にレコンキスタで奪回し、大航海時代の歴史を残す世界遺産です。
18~19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になりました。
川沿いにポルトワイン工場がずらっと並びます。
歴史フィルムを見せてもらって、試飲させていただいて、ほんとは甘口ワインは苦手なんだけれど、一番安いのが1000円ちょっとで買えると聞いたので早速購入。
トランクに入れないと没収されてしまいますから、エアークッションで包んで、さらに洗濯物でワイン色に染まってもかまわない服でさらに包んで、・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
予想以上に早くホテルに入れて、夕食まで2時間近くあったので、自由行動で外を歩くことになりました。
ものすごく疲れていて、ホントはベッドで横になりたかった。
ホテルの2軒となりが立派なショッピングセンターで、その地下売り場はスーパーでした。
写真撮るなと手で静止されたけど、最新デジカメは立ち上がりも早いし、シャッター速度ぴか一。ちゃんと写ってた。
何か安い土産ものはないかと、それだけが目的でついて来たんだから。
だってユーロ高で、今回のレートは1ユーロが161円。
3万円を両替してたった180ユーロです。
チョコレート1枚2ユーロちょっとだとしても、それは320円を超える。
これをもらってもとても300円以上とは思ってもらえないよね。
さらに歩いてロータリーのところで屋台の焼き栗やさんがでていた。
10個近く入って2ユーロ、これは安いし、おいしかった。
冒頭の画像、徳井クンにも会えたしね。
25時間フル活動で長い1日だった。症状さらに悪くなる・・・
不二家の華麗なる一族の放漫経営で、もうペコちゃんのお菓子は買わないでしょう。あるある大事典も放映打ち切りが決まったそうです。
信用を築くのには時間がかかるけれど、崩すのはあっという間です。
画像の白い花はこぶしでしょうか?
ほんとに春はもうすぐ来るのかしら?
サンチャゴからポルトガルへ向かう高速道路のサービスエリアに咲いていました。
昨今はテロの影響で、空港のセキュリティチェックがとても厳しい。
去年の11月から欧州連合加盟国などの空港を出発するか、乗り継ぐフライトは、液体類の機内持ち込み手荷物に新たな規制が設けられました。
飲料水はじめ、ジェル状、ペースト状のものであっても、一つあたり100ml以下、
すべてで容量1リットルまでを20×20cm以内のビニールに詰めます。
口紅や香水だって含まれます。
往路のフランクフルトでは、購入したばかりのお酒を没収されている人もいました。
これに時間がかかるので、乗り継ぎ時間が少ないと大変です。
ほんとに疲れるし、神経使います。
ゼゴビアの街でみた宝くじ売り場
サンチャゴコンポステーラの街角のポスト
郵便制度だって、信じれなければポストに投函できませんよね。
今回のツアー1行38名に中には、敬虔なクリスチャンがたくさんおられました。
カトリックの方の女性6,7名は、教会へ入るたびにミサなどに参加されたり、祭壇の像をみて涙ぐまれたり、ロザリオを買い求めたり・・・
お忙しいことで、ちょっと韓流ブームに群がる方々とダブってみえるミーハーさがありましたけど。
プロテスタントの方はもう少し客観的に観光されてる感じでした。
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サンチャゴ・コンポステーラの、ロマネスク様式の最高傑作とされる「栄光の門」をくぐると聖ヤコブの柱があります。
右手に巻物を持ち、左手に杖を持った聖ヤコブが長旅の巡礼者を迎えてくれます。 巡礼者はこの柱に手をつき祈りを捧げてきたため、柱には5本指の窪みがあり、この窪みに手を合わせ頭を垂れるのが内陣に入る儀式となっているそうです。
ふざけてごめんなさい
ローマの嘘をついたら手が抜けなくなると言われるライオンの口のような穴があったので、ついはしゃいで同時に左手を入れてしまいました。
煌びやかな中央祭壇には13世紀に制作された聖ヤコブ像があります。
祭壇裏から、階段を上がり聖ヤコブ像の後ろから抱きしめることができると聞いたので、みな順番を待って上がりました。
ほんとは「聖ヤコブ像のマントに口づけすることができ、これが巡礼者の習慣となっている」、今日調べていてわかりましたが私たちは失礼なことをしてしまったかも。
祭壇左横の狭い階段を下り地下祭室へ入ることもできました。
その後9時半からのミサに、生涯で初めて参加することができました。
残念ながら撮影は許可されないので画像ありませんが、それはそれは敬虔なものでした。
3月や7月などは巡礼者でたいそう混むらしく、私たち観光者がこんなにゆっくりと見れるのはラッキーなことでした。
何万キロと歩いてきた巡礼者がごったがえすと、その汗と埃と体臭でものすごい匂いとなるため、きついめの香を天井からぶら下げた大きな香炉でブランコのように揺らせるらしい。
サンチャゴ・デ・コンポステーラについて。
聖ヤコブは元ガリシヤ湖の漁師であり、弟のヨハネと共にイエスに従った。
スペインで布教活動を行ったが、いまいちいい結果がだせなくて、エルサレムに戻るがヘロデ王に断首され十二使徒最後の殉教者となった
伝説によるとヤコブの棺は波にもまれ、エルサレムからこの地に流れ着いた。
その棺を9世紀に星に導かれた羊飼いが墓を発見し小さな教会が建てられた。
サンティアゴ・デ・コンポステラという町の名はラテン語の「Campus stellae」(星の野)または「Compositum」(墓場)に由来するとネット検索したら書かれていました。
添乗員さんにコンポステーラを問うと沼だと言われてましたけどね。
その後教会は破壊されたが、フランスからロマネスク様式が伝わると1071~1152年にかけて僧正ディエゴ・ペラエスにより再建され、その後の増改築により現在の姿となったそうです。
サンチャゴ、これはスペイン語です。
チャゴはラテン語でヤコブ、フランス語読みでジャック。
エルサレムと、ヴァチカンのサンピエトロ寺院とともにキリスト3大聖地のひとつです。
サンピエトロはイタリア語で、ピエトロはラテン語でペトロ、英語読みならピーターですって。
イエスキリストの12使徒のうち、左右を固めるペトロとヤコブ。
どちらも死後何百年もたってから偶然発見?
そして時の権力者のなんらかの思惑により、墓のあったところに教会が建設され、聖地となったらしいです。
10世紀前後といえばぼとぼち中央集権国家が出来上がりだして、イスラムに席捲された地を取り返すべく十字軍を送り出していた頃です。
いまなお世界各地で宗教と政治でもめていますが、あの頃も激しいレコンキスタの時代だったのです。
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レオンから48kmで、アストルガの街に着きました。
ここにはガウディが作った司教館があります。
現在巡礼博物館となっていて入場料が必要ですが、安いツアーは含まれていなくて、見たい人はどうぞ、
なんてほとんどの人が観光するスポットなのにね。
司教館越しにアストルガ大聖堂
アストルガの大聖堂は15世紀末から2世紀にわたり建築され、後期ゴシックからバロックの様式が見られます。
18世紀のリスボン大地震の修復もあり、石材の色も右と左では異なっていました。車窓より
車道と平行して、サンチャゴへの巡礼の道、
青と黄色の看板にホタテマークが描かれています。
最後のきつい峠からかすかにサンチャゴが見える見晴台です。
伊勢のおかげ参りや四国お遍路からは、とうてい想像もできないほど過酷な巡礼道です。
ヨーロッパの街のあちこちにあるモニュメントはどれも素敵ですが、今回もすぐにシャッター押したくなるものがたくさんありました。
最初の画像はサラマンカのものです。
夕刻の走行中にすごく深い霧に包まれて心配しましたが、無事235km走り終えて無事レオンに着きました。
バス中は暖房がきいてサイドから噴出す熱い空気をコートで覆っても、日中は大きな窓からお日様に追いかかけられて暑い。
そして夜のホテルは予想以上に乾燥しています。
顔につける化粧品を体につけても乾燥はとまらずかゆい。
連れのタニにメンソレータムをもらってちょっとましになった。
乾燥対策として寝る前にはバスタブにお湯を張ったり、濡れたバスタオルを室内に置いて、さらにマスクを装着して寝たけどあまり効果がなかった。
おまけに2時間おきにもよおす尿意。
時差ぼけも加わって、夜中の4時ごろからはもう寝付けなくなったので、ストレッチやパワーヨガをして夜の明けるを待ちました。
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1/14 旅の3日目。
レオンはベルネスガ川のほとりに開け、旧レオン王国の首都だっただけに立派な街並みでした。
サントドミンゴ広場の正面には19世紀後半に建てられたガウディ作のカサ・デ・ロス・ボティーネスという建物があり、現在は銀行として使われているそうです。
ベンチに腰掛けるガウディ像
13世紀に現在の姿となったレオン大聖堂右手の銅像・子供とお父さん
こういうのはちょっと珍しいね。
教会中のステンドグラス、撮影失敗ながら、光の帯が荘厳でしょう~
サン・イシドロ寺院はじめ、スペインなどラテン諸国の教会にはマリア像がメインとして祭られていることが多いそうです。
マリア信仰が厚く、スペインの女性の60%の名前にマリアが含まれているそうです。
サンチャゴ・コンポステーラへの道標が見られるようになりました。
ホタテの紋章は聖ヤコブが漁師出身だったから選ばれたらしい。
でもまだここから350kmもある。
サラマンカは学生の町ともいわれ、1218年創立後、やがてローマ法王がボローニャ、パリ、オックスフォードとともに四大大学の一つに認定。
16世紀にはヨーロッパ各地から大勢の学生が集まり、現在も学生さんの姿をたくさん見かけました。
サラマンカのマヨール広場ではいろんな人たちが思い思いのことをしていました。
お揃いの赤いコートとキャップをかぶったおっちゃんたちは、地元サッカークラブの応援団だそうで、鼓笛隊のように行進していました。
たいがいは談笑していて、こんなおっちゃんは珍しい。
以下の写真はゼゴビアでの撮影ですが、
写真を撮っていてもすぐに寄ってきたりします。
犬を散歩させてるおっちゃん
スペイン人がじっと見てくるのは、知らない人でも挨拶するタイミングを見はかっているんだそうです。
私はいたってフレンドリーにできているので、気軽にご挨拶交わしてきました。
仕事をしている風でもない、浮浪者風体でもないおっちゃんたちがうろうろしているところでした。
初日の長い空の旅が終わり、夜遅くにマドリッドのホテルに入りました。
髪を洗って荷物の整理をしている間に、髪のしんまで乾き、これはやばいなと思っていたら、案の定、翌朝は喉が少し痛かった。
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1/13 旅の2日目。
朝8時15分出発、1時間ほどでゼゴビアのローマ水道橋に到着。
セゴビアの水道橋は紀元前1世紀中頃に築かれ、
各地に残っているローマ水道橋のなかでも、最も保存状態が良いそうで1985年世界遺産に登録されました。
2万個以上の石が積み上がり、128個のアーチがつながり800mほど続きます。
30m近くある高さで姿かたちの美しい迫力ある遺跡でした。
1kmを18cmの勾配、
この差で常に少しだけ水を流すことができるそうですが、あの時代に知りえていたことが不思議なほどで、ローマの土木技術の高さを今に伝えています。
19世紀まで使用されていて、今も水を通すことができるそうです。
ゼゴビア大聖堂の横を通り、空に浮かぶ気球を眺め、
石畳を200mほど下るとゼゴビアのアルカサル。
ウォルト・ディズニーが白雪姫のイメージに合った城を探しまわり、これをモデルとしたそうです。
ちなみに東京ディズニーランドのシンデレラ城は、ドイツで有名なノイシュバンシュタイン城がモデルです。
セゴビア大聖堂側より正面から見た城
セゴビア城を真後ろの修道院側の霜の降りた芝生から見た風景
高い断崖の上にそそり立つ城を見ると、これが要塞(アルカルサ)として機能していたことがわかります。
戦略的な意味をもった建造物をお城といわずアルカサルというらしい。
このアルカサルは14世紀の中頃築かれ、16~18世紀まではその一部が牢獄として使われていたらしいけれど、外観を眺め写真を撮っただけで、中には入れませんでした。
そこからまた小1時間バスに乗り、世界遺産城塞都市アビラを観光。
11世紀に レコンキスタの拠点となるべく築かれた砦です。
見晴台から、88の塔と9つの門からなる全長2572mの延々と連なる城壁の威容がみられ、絵を描いているおっちゃんがいました。
次のサラマンカでお昼をいただけたのは午後2時ごろになっていました。
スペインの街並みは、建物や入り口周りのデザインが素晴らしいこともさることながら、ゴミの落ちていないことにも驚きます。
夜中に外で大きな音がすると窓からのぞくとゴミ収集車が来ていたり、昼間でもブラシがついた車や大きな吸い込みホースのついた車がしょちゅう走っていました。
ゴミ箱も街角だけでなく、ゼゴビア城など観光地でもあちこちに。
税金がこういったことに使われるんだったら文句ないなぁ~
街道筋のわきや、野原、耕作地などに大きな商業たて看板は規制されているそうです。
アビラの街並み
オリーブ林