ローソクの灯りで境内を照らす幽玄の世界
柴籬(しばがき)神社のサイトからもらってきました。
8月8日午後8時8分、境内にろうそく400灯の庭灯が設置されるんだそうです。
チャンスがあれば行って見たいけど、夜だし、道がややこしいところなので、
逆さ虹を見た先週日曜、母に会いに行った帰りに寄りました。
近畿道を松原で降りて脇に入ってすぐのところにある柴籬神社
第16代・仁徳天皇の第3皇子、後の第18代・反正(はんぜい)天皇が祀られています。
都を難波から河内の丹比に移し丹比柴籬宮を造営したのが、この神社あたり。
日本書紀の反正天皇元年条には、
「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎわ)ひ天下太平なり」とあるそうだ。
柴籬宮を知ったのはつい最近ですが、三国ヶ丘高校のすぐ近くには反正天皇陵があり、高校時代何度かその前を通ったことがありました。
多遅比瑞歯別命(タジヒノミズハワケノミコト)ともよばれます。
古事記によると、反正は歯が丈夫な上、歯の長さ一寸(約3センチ)広さ二分、上下等しく整い玉を貫くようであったという。
このため、反正は瑞歯別(みずはわけ)天皇と呼ばれたのです。
そして「此の天皇、御身の長、九尺二寸半」って、めっちゃ大男やん。
数値はかなり大げさに書かれているとしても、長身で歯がキレイで印象に残る方だったのでしょう。
歴代の天皇と毛色が違うことに興味を持ちました。
現在も「歯」の神さんとしても信仰されていて、歯神社の前には「歯磨き面」が建てられており、面の歯を指先でなぞれば霊験あらたかとか。
8/8大阪府下唯一の歯の祭典で催され、最初の画像のろうそく400灯が境内に設置されるんだそうです。
もう一つ興味深いこと。
兄の履中天皇のために住吉仲皇子を討ったその功績により、履中天皇の実子をさしおいて、履中天皇在位中に皇太子に立てられました。
この天皇の事跡は記紀にはほとんどないが、その際のエピソードが履中天皇紀に残されているそうだ。
「近つ飛鳥博物館」のサイトによれば
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。
「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域で、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。
柴籬神社のサイトから、その当時の状況をかいつまんで。
仁徳天皇の第1皇子おおえのいざほわけのみこと(第17代・履中天皇)は仁徳天皇崩御後、大嘗祭のとき大御酒に浮かれて難波の宮で熟睡されていた。
そのときに弟の第2皇子墨江の中王(住吉仲皇子)が天皇を殺そうと、難波の宮に火を放つ。
天皇は阿知の直に助けられ羽曳野市野々上で目覚め、難波の宮が燃えているのを遠望される。
大坂山の入り口「羽曳野市飛鳥」に到着されたときに一人の女人から、大坂山は多くの兵が塞いでいるから、遠回りになっても大和へは竹内峠越(北葛城郡当麻町竹内)をすすめられた。
無事に天理市布留町にある石上神宮におはいりになると、第3皇子である弟の瑞歯別の命が兄に拝謁を申し入れる。
「墨江の中王と同志であるまいかと疑っているので語り合うわけにはいかない。同志でないのなら、難波に下りて墨江の中王を殺してこい」と命じる。
瑞歯別命は難波に引き返して、墨江の中王に仕える側近の隼人の曾婆加里(ソバカリ)に「お前の主人を殺せば、お前を大臣にしよう」とそそのかした。
曾婆加里は自分の主君が厠に入られたのを伺って矛で刺し殺す。
約束どおり多くの官人の前で大臣の位を授け、大坂の山口(羽曳野市飛鳥)で酒宴を盛大に催す。
曾婆加里喜んで顔を隠すほどの大きな盃で酒を飲んでいたときに、命は薦の下に隠していた剣で曾婆加里の首を斬り殺す。
そこでそこを号けて難波より近いので【近つ飛鳥】という。
その後、大和(奈良県高市郡明日香村)に到着して「今日はここに留まり、禊斎し明日天皇に拝謁しよう」
そこでそこを号けて難波より遠いので【遠つ飛鳥】という。
★この逸話でへぇ~と思うこと
仁徳天皇の最初の皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)との間に出来た子供が
1.大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)
2・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、墨江之中津王)
3・瑞歯別尊(みずはわけのみこと、反正天皇)
4・雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)
崩御後、同じ母から生まれた皇子たちが次々と天皇に立位する時代の流れの中で、どのようにしてあの巨大な古墳が造られたのでしょうね。
仁徳天皇陵を少し発掘しただけで、日本史は根底から塗り変えられるだろうと言う説もあります。
履中天皇が逃げられた天理の石上神宮は物部氏の総氏神です。
この石上神宮は今年春先にお参りし記事にしました。
2/11
神鶏と牛、実は・・・
2/14
お守り☆玉のを
住吉仲皇子の側近の曾婆加里は隼人だとわざわざ書かれています。
隼人って、しばしば大和の政権に反抗したがヤマト王権の支配下に組み込まれた部族名ですよね。
やがて古代日本の律令制に基づく官職のひとつとなり、軍事に従事していたようですが。
仁徳天皇は土木事業をたくさん行われ「難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき」
この墨江の津(すみのえのつ)は住吉津として、古代日本の重要な港となります。
住吉津から東へ向かうと奈良盆地の飛鳥に至り、遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神に祈りを捧げた後住吉津から出発しました。
たぶん住吉仲皇子は、この住吉津の采配を任され、海軍をつかさどっていて力を持っていたのかもしれないですね。