鹿児島の維新館で知りえたことがたくさんあります。
へぇ~、知らんかったと思ったこと、忘れないうちにお伝えします。
日本最初の洋式軍艦「昇平丸」
安政2年(1855)薩摩が造ったこの船に初めて「日の丸」が掲げられました。
もともと天照大神が神様なぐらいだから、日本は太陽崇拝です。
「太陽神」を表す「日の丸」は、日本では古くから紋章として朝廷や武将たちに使用されてきたようで、江戸幕府も御用船の旗印として使っていました。
幕末になって黒船が来航し、日本の船と外国の船を区別するために、薩摩藩主島津斉彬が「日の丸」を日本のすべての船の船印とすることを提案。
討議を重ね、安政元年(1854)幕府は「日の丸」を日本の船の総船印に採用しました。
明治3年(1870)には日本遊船商船規則の中に規定され、以後国旗としての機能を果たすようになったと、今回知りました。
以前聞いたことなので真偽は不明ですが、
この日の丸のデザインをフランスが気に入り、何百万フランかで買いたいといったほど、この日の丸のデザインはセンスがいいらしい。
「日の丸揚げて」が問題となりだして何十年になるのでしょう。
私が子供の頃は直立して国旗掲揚に、何の疑問も抱いていなかったのに。
「日の丸」といえば続いて国歌「君が代」
これについても維新館ではこのように書かれていました。
明治2年(1869)薩摩藩はいち早く軍楽隊を組織し、
伝習生30名を横浜に派遣して、英国軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンのもとで学ばせた。
これが日本の洋楽導入の始まりであり吹奏楽の発祥となった。
そのときフェントンから「日本に国家はないのか、歌詞があれば作曲しよう」と言われ、大山巌らが薩摩琵琶曲の一つ「蓬莱山」から君が代の一説を歌詞に選んだ。
フェントンは早速曲をつけ、明治3年明治天皇の御前で薩摩藩軍楽隊によって初演された。
しかしその後歌詞と洋風メロディーとの違和感が各所から指摘され、明治13年(1880)楽曲の改定があり現在の国家「君が代」に到る。
君が代は、世界で唯一の短調の国歌ともきいたことがあります。
これもまた子供の頃、
「巌となりて」を 「岩音鳴りて」と思いこんでた。
「君」を天皇だと思ったこともなかったし。
ただ単に美しい調べの国の歌だと、
それではダメなんですか?
国旗や国歌なんて、どこの国も成立にいたっては、似たり寄ったりではないのかなぁ~
グローバリぜーションが進んでも、民族の誇り、旗印はいるよね。
維新館入り口すぐのところに「郷中教育」を紹介したコーナーがあります。
その真ん中の柱に書かれていた言葉
「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ひにせずば甲斐なし」
まさにそのとおり! 「実践」は重要です。
薩摩藩は藩校とは別に、学問や心身の鍛錬を目的とした独自の学びの場がありました。
今でいう町内会ごとに縦割りで年長者が年少者を指導する仕組みで400年の歴史があり、これはイギリスのボーイスカウトに継承されているとか。
ここで行動力や結束力を身につけた藩士の多くが、幕末維新期の原動力となったようです。
やがて明治政府ができて、明治4年(1871)廃藩置県断行。
4ヶ月して政府首脳は大挙して渡米、留守を預かった西郷隆盛を中心とする留守政府は思い切った改革を行いました。
地租改正・徴兵令・学制の交付
めっちゃ大事なことやん!
統一国家として要、礎となるところです。
留守政府が決めていいのってびっくりです。
しかしどれについても各地で反対一揆勃発、こうしたことから西南の役に繋がっていったのでしょうね。
この辺は駆け足で見学したのでよくわかりません。
今なお薩摩切り子は、江戸切り子と並んで超高い。
こうした伝統工芸でお金を儲ける事も考えていたのには脱帽です。