秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

夏みかんスライスマーマレード

2009-08-30 | 旅・中国&四国地方
ジャムの中でもマーマレードが好きです。
緑色のキュウリのように見えるのは、青い時の夏みかん。
ほろ苦さが程よく美味しかった。

SLやまぐち号の出発時間待ちで自分用に購入したお土産です。
山口駅構内売店でジュースも飲みました。
    

  

萩地方は夏みかんの産地です。
スライスマーマレードが気に入ったので、はちみつマーマレードと両方をお取り寄せしました。
   


去年晩秋、近くのデパ地下で「萩の薫」を購入しました。
 2008-11-15

あれから2回は購入したお気に入りグラッセです。
でもいつも売っているとは限らない。

今回の旅は萩には立寄らないけれど、きっとあのあたりでは売ってる名産品だろうから買って帰ろうと思っていました。

下の画像左の「萩の薫」青切りを山口で購入。
右の「夏蜜柑菓子」は、マーマレードを作っている会社「たけなか」のグラッセ。
ジャムを送ってもらうついでに頼みました。

    

味としては、「萩の薫」のほうが私は好きです。
でも長州屋光国製菓本舗さんのほうは、夏みかんスライスジャムがなかったから。

以前記事にした時は、あまりに短い賞味期限に驚いたからです。
砂糖漬けのグラッセが、なんで生鮮食料品並みなんだろうかと。

でも今回、山口県で購入した「萩の薫」は10/17まで2ヶ月以上ありました。
そしてお取り寄せした「夏蜜柑菓子」は9/27まで。

遠隔地で販売するものになぜ賞味期限ギリギリのものを配送するのか疑問です。

ミーハーなもんで

2009-08-29 | 世情雑感
選挙ポスターに、今日午後2時45分民主党党首が守口市駅前にやってくると貼紙されていた。
それで早速視察行って来ました。

駅のターミナルの一番よく見える場所は報道関係者が陣取っていた。
周りの2階通路も人・人・人・・・

   


   

昨日は、自民党の舛添要一大臣が同じ場所に来られてたそうだ。
公明党候補の応援演説なので、動員もあるだろうけれど鈴なりの人が歓声をあげてたと、待ち時間に見ず知らぬ人が教えてくれた。

   

鳩山さんって結構背丈がおありなんだ。
背筋がすっと伸びていて頭一つ高い感じ。

もし世界のVIPと並ぶことがあれば、まぁいいんじゃあないのと、その点に関しては○だと思った。

空の旅・ボンバルディアDHC8‐Q400

2009-08-27 | 旅・中国&四国地方
島根県益田市の萩・石見空港は、1日たった2便しか運行していない。
午前8:50に東京から着いた便が折り返し9:25に東京へ、
夕刻17:00に大阪から着いた便が17:30に飛び立つのです。

地方空港で働いている人はさびしいね。
こんなに新しくてきれいなのに。

  

7/14石見空港で、出発前点検をしていた大阪行きANA1652便で、
エアコンのオーバーヒートを示すランプが点灯し部品交換のため欠航。
乗客21人に影響したというニュースがあった。
ということは、後の便で帰るということは翌日?

   

ボンバルディアDHC8‐Q400機に初めて搭乗しました。
乗り心地はよかった。
プロペラに鳥が巻き込まれたりしないか?
ちゃんと大阪伊丹空港に着くまで心配で、時々窓からプロペラを見てました。
伊丹に着陸して、タラップ降りてバスで空港ビルまで運ばれたのも初めてだった。


あまりに石見空港利用者数が伸びないので、関係者はいろいろ苦心されてます。
10/18には萩・石見空港マラソン全国大会の第二回目が開催されるようです。
ゲストランナーの有森裕子さんと一緒に滑走路を走ることが出来ますよ。

   

そして今回の旅、萩・石見空港利用拡大促進協議会から「特産品プレゼント」がありました。

なんと一人梨5個づつ。
   
太っ腹~!

日本の空港行政の抱える問題点、まざまざと見せてもらいました。

この空港って、竹下王国の産物なのかしら?
島根2区ってどのエリアかよく存じませんが、
津和野の町の看板に貼られていたポスターには
国民新党の亀井久興さん、元首相の弟・竹下亘さん、
そしてあんなに多数立候補しているのにTVでも新聞でもほとんど報道されない幸福実現党の福相原真治さん。

次の日曜夜、どういう結果がでるか楽しみですね。

空港の話に戻ると、関空は今年で15周年。
そのお膝元・泉佐野市は、財政破綻の「黄信号」にあたる早期健全化団体に転落することが確実になったそうです。

関空ができた時、一般の大阪府民は伊丹はなくなると思ってました。
あの当時はその予定だったはずです。

ところが政治力により、伊丹存続が決まり、さらに神戸まで出来る始末。
神戸が決まった頃の国土交通大臣は扇さんで確か地元神戸だし、その後は公明党の冬柴さんは尼崎。

ほんとになんだかなぁ~ですわ。

おいなりさんと命婦社

2009-08-26 | 旅・中国&四国地方
山の上に津和野城の堅固な石垣が残っているのが見えます。
その右手に、津和野城の守り神とともいわれる太皷谷稲成神社があり、そこまで連なる赤い鳥居が目を惹きました。
この鳥居は津和野町のサイトトップページにも使われています。

ものすごく暑いけど、その太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社へ行くことにした。
   

表参道の263段の石段には、朱色のトンネルのように続く「千本鳥居」が並んでいます。
特に商売繁盛の神様として信仰されていて、お礼やらお願いやらで奉納された鳥居、その数実に千本。
   
ふぅふぅ言いながらやっと上までたどり着くと、予想以上に立派なお社に度肝を抜かれた感じ。
お金持ちの神社と見えて、津和野の町並とは風情が異なり豪華です。
おいなりさんの赤が映えて夏の日差しを受けて輝いていました。

   


ちなみにこの太皷谷稲成神社は、日本五大稲荷の一つだそうだ。
他の4つは、伏見稲荷大社(京都市伏見区)・笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
竹駒神社(宮城県岩沼市)・祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)

豊川稲荷は仏教系で、伏見稲荷などの神道系と稲荷神社には二つの系統があるんだって。

日本全国数万ある稲荷神社で、唯一「いなり」を「稲成」と表記する太皷谷稲成神社。
願望成就の「成る」をもって「稲成」らしいけど、
「こんにちは」とご挨拶してきただけで、特に何かをお願いはしなかった。
でもおみくじひいたら、久々に大吉がでて気分は上々。
   
社殿は何度も建て直されているそうで、新殿のはす向かい、参道の階段上がって右手に元宮がありました。

   

太皷谷稲成神社のサイトにはこう書かれています。
「元宮は昔、御殿様の崇敬神社であった為、城に向かって建てられてあり、城内地である為、庶民は参拝出来ませんでした。
明治になり一般庶民も参拝できるようになりました。
新社殿は津和野町内に向いています」

この元宮でもご挨拶をしていると、右手奥からなんとも涼しい心地よい風が吹いてきた。
その風に誘われるがごとく、どなたかがお呼びになられたような気がして旧社殿の裏にまわってみました。

    
  
なんとなく写真におさめるのがためらわれたので、この画像は神社のサイトからもらってきました。
命婦社(みょうぶしゃ)、稲成さまの使いであるお狐さまが祀られているんだそうです。

「命婦」、うろ覚えですが清少納言や紫式部の文章にもでてきましたね。
命婦の女官は朝廷で大きな勢力を持っていて、天皇の政が円滑にすすめられるように扶助していました。

どうしてこんな名前がついているのだろうと調べてみました。

命婦とは本来、女性(女官、婦人)が内助の功で主人(天皇、夫)を扶助するの意味です。
稲荷大神様をお助けする眷族(けんぞく)の「白狐」をそれにたとえて「命婦」の位を授位されました。

眷族とはその祭神に縁故ある鳥や獣のことで、
八幡宮の鳩、春日大社の鹿、諏訪神社の鷺、日吉神社の猿、熊野神社の烏など。

山陰の小京都・津和野散策

2009-08-25 | 旅・中国&四国地方
新山口を10:41に出発し、12:42津和野着。
山陽から山陰へ数多くのトンネルを抜けて、ゆっくりした汽車の旅を楽しみながらの2時間はあっという間でした。

山あいのつわぶきの里、津和野は白壁と赤い石州瓦の美しい城下町です。
若かりし頃、アンアンやノンノには萩・津和野の旅がよく特集組まれてました。
いつか行こうと思って、早30年が過ぎてた・・・

今は修学旅行なども海外やスキーなど体験旅行へと変化し、かつてのにぎわいはないそうです。

帰路の飛行機までの時間、さぁどこ行く?
朝の雲はどこへやら、ギンギンギラギラの夏の日差しがまぶしい。
暑ぅ~う

お昼ごはんには津和野蕎麦と津和野寿司と名づけられた散らし寿司を食べたけれど、お腹が空いていて写真撮るの忘れた。

   

掘割で優雅に泳ぐ鯉は、観光客にエサをいっぱいもらえてまるまる太ってます。

大阪夏の陣で、家康の孫娘でもある千姫(当時豊臣秀頼の妻)を大阪城から助け出した功績により津和野城主となった坂崎出羽の守が、有事の非常食用にと泳がせるようになったのが始まりだそうです。

この地で生まれた森鴎外の生家や文学記念館、思想家西周の旧家、葛飾北斎記念館や安野美術館も充実してました。
どこも外観だけみて、ウロウロ。
暑くて写真撮るのも面倒で、結局は喫茶店で休憩。

   
95歳の茂子おばあちゃんの作ったしそジュースがさっぱりと美味しかった。
昼下がりには外気温42度になったと喫茶店のマスターが話してた。

でも一つだけ印象に残った場所は、次回に。

AZU猫とESORA

2009-08-24 | エソラ&ゆうり
2ヶ月が過ぎた絵空にアズキさんから手作り猫のプレゼント。
一度に5体も作ったなんて、すごいね。
アズキさんのブログで紹介されています。

素敵な配色で母親である娘がとても気に入りました。
歩き始めた頃ミニーのぬいぐるみが大好きでした。
いつも足を持ちミニーが逆さまになってたことを思い出します。

  

陸の旅・SLやまぐち号

2009-08-23 | 旅・中国&四国地方
新山口から益田までの山口線、津和野まで復活30周年記念SL「やまぐち」号に乗ってきました。

山頭火が愛したまち小郡、新幹線小郡駅前広場の銅像です。
  
「まったく雲がない笠をぬぎ」
雲が切れ晴れてきました。暑くなりそう・・・

「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
春夏秋冬 あしたもよろしゆうべもよろし」

やまぐち号は午前10時41分発、今回は時間がない。
いつかまたゆっくりと山頭火の足跡をたどってみたい。

  

1979年(昭和54)8月、全国で初めてSLが復活しちょうど30周年。
鉄ちゃんたちにとって、貴婦人とも称されるSLの雄姿はぜひとも撮影したい対象なんでしょう。
町や野山、いたるところでカメラを構える老若男子のてっちゃん、時には鉄子さんの姿も見かけました。

駅に着くたびに、停車時間の合間をぬってホームもしくは線路に駆け下りて撮影タイム。
忙しいこと!
  

  

  

5両編成の列車の車内は、レトロに明治風、大正風、昭和風、欧州風とインテリアが異なります。
そして一番最後に展望車。
  

ここは窓ガラスがありませんから、カーブを曲がった時など前を行く車両が撮影できるので人気スポットです。
多くの鉄ちゃんが陣取ってます。

しかし、トンネルに入るとそりゃあ大変。
真っ暗なトンネルに入ったとたん、しゅっぽしゅっぽと吐き出される排煙をそのまま被ることになります。
たまたま運悪くその時デッキにいた同行者は、鼻の穴はもちろん髪の毛もすすだらけになりました。 

海の旅・阪九フェリー「やまと」

2009-08-23 | 旅・中国&四国地方
3月にウズベキスタンへ旅してから、すでに5ヶ月。
どっか行きた~い!
うずうずしながらも諸般の事情で旅立てなかった。
時間を短くすることでやっと実現した「海・陸・空24時間の旅」

神戸から門司まで船の旅からスタートです。
六甲フェリーターミナルまでバスを利用するために、JR住吉駅へ向かいました。
住吉駅から徒歩数分で国道2号線がありそこにバス停がありました。

5:15のバスまでの待ち時間あと10分となったとき、次の信号のところに神社があるのに気づきました。
  
本住吉神社(もとすみよしじんじゃ)です。
日本全国に約600社ある住吉神社のなかで、「元」がつく。
住吉三神鎮祭の根源と伝え大阪の住吉大社は後に祀られたものであるとし
「本住吉」なんだそうです。
バスに乗り遅れたら出航に間に合わなくなるので、ちゃんとお参りできず鳥居越しにご挨拶した。

阪九フェリー「やまと」8月21日午後6時半出航。

  
1000円高速のあおりも合って不況にあえぐフェリー業界。
乗船率は確認していませんが、指定席より自由席に空きが多い感じでした。

最上階の7階にお風呂があって、夜と朝の2回入ってきました。
施設も清潔で利用者で混雑することもなく快適でした。
潮風にあたってねちゃついた肌がさっぱりして、まるで温泉旅館に泊ったような気分。

食事は6階にあるレストランで。
デリカテッセン式で、すでに作り置きされているメニューを各自でセレクトしてその代金を支払うシステムです。
オーストラリア産のステーキは注文後焼いてくれます。
1,200円にすれば肉の臭みもなくて美味しかったです。
午後8時を過ぎると麺類メニューが注文後作ってくれるようでした。

最初の画像は明石大橋をくぐった時のもの。
瀬戸大橋のときはすでにベッドに入っていて見にいけなかったし、
しまなみ街道の橋のころもバク睡してた。

朝5時半からまたお風呂が使えるので、朝陽を見ようと看板へ出たらたぶん夜中の雨で濡れていた。
門司港に着いた時もまだ小雨が降っていた。
  

陸海空24時間の旅

2009-08-22 | ケータイ・スマホから
昨日夕方6時半神戸から出航して、すでに今日家に戻りました。
メール送信するはずが、どう手順間違えたのか携帯の電源がなくなり、家に戻ってからになってしまった。

船の上から撮影したのがわかるようアングル探っていたら、見ず知らずの男の子がポーズとってくれました。
後で送ってや、なんて言われてもアドレス知らんし・・・
これからデジカメ画像整理して順次アップしていきます。

ひすいの不思議

2009-08-19 | 古代史のミステリー
前日8/18の記事 翡翠 のウンチクの続きです。 宝石としての翡翠について興味おありの方はこちらからご覧ください。

去年8月8日出雲大社へ行った時、賜った翡翠タイプ勾玉のストラップです。 翡翠が1500円で買えるわけもなく、グリーンアベンチュリンかと思います。
ただ単に記念に何かと思っただけで、
その時は下図↓の翡翠勾玉の重要文化財が出雲大社にあることは知らなかった。

     
                    奈良の飛鳥寺にも↑

全国各地で出土する縄文の翡翠(硬玉)の大半は、新潟県の糸魚川周辺で産出したものだったのです。
5000年前の縄文時代から古墳時代まで硬玉の翡翠が勾玉の材料とされてきました。
大珠・勾玉・丸玉・丸輪などが作られ、翡翠の加工をしていた遺跡も見つかっています。

これまで青森県内の縄文遺跡から出土た翡翠は、650点以上に及び、糸魚川産という分析結果が出ています。
糸魚川産の翡翠は硬玉(ジェダイト)で有名でアジア各地に運ばれていたそうです。
朝鮮半島の三国時代の遺跡からも翡翠の勾玉が遺物として発掘され、糸魚川産の翡翠が、朝鮮半島に渡った事が証明されています。     

   

古くは瑪瑙やその他の宝石とともに「玉」とよばれ、ことに翡翠は金以上に珍重されたそうです。
秦の始皇帝の遺体も玉で覆われていたとか。

翡翠は硬度こそダイヤに劣るけれども堅度(粘度)のある鉱物で、非常に壊れにくく、ヨーロッパ先史時代で翡翠製の石斧が出土するそうだ。
中国では精細な彫刻をほどこした置物や実用品が多数作られ、玉の玉彫工芸は今でも重要な位置をしめています。
北京オリンピックのメダルにも玉が使われていましたね。

    
これは2002年上海で購入したお土産の残りです。
翡翠といえば中国と思い込んでいますが、中国では硬玉(ジェダイト)は産出しません。

13世紀に今のミャンマーで鉱脈が見つかったジェダイト。
それまで玉と云われてきたネフライトに似てはいるがもっと美しい石だったので、雲南商人によって持ち込まれ、19世紀には2つは全く別の鉱物だということが判明したのでした。

翡翠と書いて「ヒスイ」とも「カワセミ」とも読みます。
ミャンマーで産出する翡翠には、その地域特有の赤い土に長い間埋もれていたために、石の表面が赤く染まっていることがあります。
ところが切断すると緑色。
そこで背が青緑で、腹が赤い鳥「カワセミ」になぞらえられました。
「翡」は雄のカワセミ、「翠」は雌のカワセミという漢字で、麒麟とか鳳凰とか鴛鴦も、前が雄の名・後ろが雌の名の熟語になってるって面白い。

この大昔より大切にされてきた玉、ギョクと呼びますがかつては「カシュ」と呼ばれたようです。
ネフライトの有名産地はタクラマカン砂漠の和田(ホータン)付近、あのウイグル自治区のカシュガルは「カシュ」が語源だそうです。
「カシュ」は西方に渡り→クシュ→ヤシュ→ヤスピス(ギリシャ語)、ラピス(ラテン語)に。

翡翠の産地は世界でも限られ、日本のほか、ミャンマー、ロシア、アメリカ、中米などが主な産地として知られています。
糸魚川はミャンマー・中米と共に、世界三大翡翠産地の一つに数えられています。

翡翠の代表産地である新潟県、越後は古代の「越(こし・高志)の国」「カシュ」が訛ってコシになったとも考えられるそうですが、真逆に「コシの国」産がカシュになまったのではないかしら。

ところが奈良時代以降その翡翠の存在は全く顧みられなくなった。
翡翠の産出が再発見されたのは1938年(昭和13年)
日本で翡翠が採れていたという事実は千年以上も忘れられていたのです。
約5000年間も続いた翡翠の文化は、古墳時代中期から後期にかけて衰退し6世紀ごろには姿を消してしまいます。  

マヤ文明パカル王の翡翠仮面
人類が翡翠に注目し、加工と精神生活に取り込んだ文化圏が世界にもう一カ所あります。
オルメカ・マヤ・アステカ文化圏では、紀元前1200年ごろから紀元前後にわたって文明が栄え、遺跡からは翡翠の仮面などが発見されています。
中米の翡翠は、グアテマラやコスタリカで産出したものだったことも分かっています。

メキシコ南部ユカタン半島中央・パレンケの密林にあるマヤの遺跡。
ここで見つかった古代王朝第11代の太陽王パカル・ヴォタンの翡翠の仮面、これがまた興味深い。

長くなるのでまた次回に。


翡翠

2009-08-18 | シチの目
画像右の象の置物は7.8年前台湾で買いました。
100ドルぐらいだったと思います。
鼻を上げた象さんは開運グッズだと聞いたもんでつい買ってしまった。

その後、台北故宮博物院にある有名な白菜の翡翠をみたら、がっかりしたものでした。
あの白菜の翡翠は硬玉です。

画像左手の指輪は、プラチナ枠でもあるしその色からすると硬玉かと思われます。

     

翡翠と呼ばれる天然石は、硬玉(本翡翠・ヒスイ輝石・ジェダイト)と軟玉(チャイナジェード・透閃石・ネフライト )の2つあり、両者はまったく別の鉱物です。

台湾翡翠などはネフライト、そのほか中国で格安で売られているもの、また日本でも安値で販売されているものがネフライトです。
一方ジェダイトは、ミャンマーをはじめ、日本などでも産出される硬玉でとても高価な宝石です。

観光地で高額で購入したからといってジェダイトとは限りません。
ボラれたケースのほうが多いので、海外での購入はおススメできません。

この2つの見分けはとても難しい。
市場に出てしまうともう分からないといわれています。
さらに削りカスの粉を樹脂で固めたり、鮮やかな緑に染色したり、全く別の鉱物であったり・・・
いろいろな加工品や模造品が多いのが翡翠です。
昨今の染色技術は、肉眼による鑑別が不可能な域にまで達しています。

翡翠がほかの宝石類と異なる大きな違いは、岩石であることです。
ルビーやエメラルドなどは1つの大きな結晶をカットしてつくられます。
翡翠は鉱物がいくつか集まって個体を形成するため、顕微鏡でみると「ひすい輝石」の細かい結晶がいろいろな方向に向いて緻密な塊を作っています。

いくつかの鉱物を含む、これが翡翠の最大の特徴であり問題ともなります。

純粋な翡翠には色がなく、他の鉱物が入りこむことによって発色します。
そのかわりに、他の宝石と見分けがつきにくいこと、そしてその含有率によって翡翠ではなくなってしまうことです。
他に染めや人口物、流通名称などによって、その見分け方が困難となります。

   

翡翠のウンチクはまだまだ続きますが、次回に。

水都大阪、かつての地形

2009-08-16 | 古代史のミステリー

大阪内陸部の茨木市になんで海ゆかりの神社があるの?
磯良疣水神社へ宮参りに行った時、北海道出身の婿はそう尋ねました。

 私だって子供の頃、なぜ二上山や生駒・葛城・金剛山を越えた奈良に都が出来たのか不思議だった。
1960年代の義務教育の教科書には河内海・河内湖っていうことは載ってなかったと思う。
江戸時代には河村瑞賢が大和川の流れを変えて治水に努力したと習いました。
瑞賢は、洪水がおこる原因は淀川と大和川の河口出口を塞ぐかたちになっていた九条島にあると判断し、九条島を貫くかたちの新しい水路、安治川も掘削したそうです。  

 

しかし「縄文時代には現在の大阪平野は河内海だった」
これは知らなかった。
この事実をきっちりと知ったのはここ数年です。
きっと日本各地、今の海岸線で歴史をふりかえると納得いかないものも、かつての地形を知ると見えてくるものが多々あると思います。  
    小倉百人一首 19番 
伊勢(平安時代の女性歌人、三十六歌仙の一人)
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

万葉集 丹比真人の歌にも難波潟がでてきます。
難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子ども 汝が名告らさめ

学生時代にこうした歌を知った時は、現在の海岸線の延長上で難波潟を想像していました。
しかし大阪湾はかつて現在のような海岸線ではなかったのです。
上町台地は半島のように突き出して、東側は生駒山脈の手前まで内海でした。
その内海にかつての淀川と大和川が流れ込んでいたので、土砂が堆積し河内潟としての面積が増えていき、同時に淡水化がすすみ河内湖となっていく。
内海と外海の潮の干潮が激しかったため、「なみはや」「難波」の語源のもとになったそうだ。  

    
頻繁に洪水を起すので、仁徳天皇が上町台地の先のほうに堀江運河を掘削したと伝えれられます。
大川は最古の人工河川との説が有力で、東に広がる河内湖の水を海に逃がしたものであろうとされています。

現在の大阪城があるところ、そこは古代難波宮があり、前方後円墳があったとも言われています。
淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点であると同時に、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。

 

そして時代は下り室町末期、
その地に蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、それが後の石山本願寺となります。
一向一揆の総本山となった石山本願寺は、織田信長が11年間もの間苦戦した堅牢な「仏法の城」でした。   

大阪城天守閣蔵「石山合戦配置図」
よく判別できないけれど、このあたりが水路だらけだったことがよくわかります。

1578年(天正6年)本願寺に物資補給する毛利水軍を、織田の九鬼水軍が大砲三門を備えた鉄甲船で撃退し、大阪湾の制海権を握る。
このように石山合戦は11年間にわたって攻防戦を繰り返しましたた。
信長は安土城の次には石山に城を築こうと考えていたなどとも言われています。

古代の難波宮や古墳の石垣は築城にずいぶん役に立ったことでしょう。


ティファニーのデザイナー

2009-08-12 | ブランド
一粒の大きさがだいたい13~14mm珠で迫力あります。
透明な水晶、紫がかったアメジスト(紫水晶)、ピンク色のローズクォーツ。
虎目石、ラピスラズリぐらいまでならご存知の方も多いことでしょう。
孔雀石、インカローズ、フローライト、ブルーレース、・・・
とても全部の石の名前がわからない。

これらの石全部で27個、自由に繋げてといわれたら、どういう順番でつなげましょうか。
ココがデザイナーの腕の見せ所。
あたかも宝石で遊んでいるような強烈な色彩と大胆なデザインが魅力的です。

シルバー冠の片方に、Tiffany & Co 925 
もう一方に、Paloma Picasso (パロマピカソ)の刻印があります。
ということは、このネックレスはパロマピカソデザインだったのです。

ティファニーのサイトで、パロマピカソデザインで調べるとなんと21ページに渡り商品が掲載されていました。

カーネリアンだけを繋げたネックレスは\140,700。
この画像のようないろんな石を繋げたタイプは載ってなかった。
たぶん1点物ですね。

ティファニーといえばシルバーアクセサリーがお手頃価格で有名です。
パロマピカソデザインのものは、ラブ&キス、ラヴィングハート、テンダネス ハート、・・・

つぎつぎ眺めているだけでも楽しいですよ。

パロマ・ピカソはあの偉大なる芸術家「パブロ・ピカソ」の娘です。
舞台衣装のデザインを手がけていた彼女は、イブ・サンローランにジュエリーデザインの才能を評価され、才能を開花させていきます。

1980年ティファニーのコレクションを発表。
美しいコントラストと大胆で力強いフォルムが魅力的で、独創的な世界観を生み出していきます。
その後も、連続性のあるモチーフや独特なカラーコンビネーションを生かした作品を次々と生み出し世界的な評価を得ています。

マスカット・オブ・アレキサンドリアの和菓子

2009-08-11 | 日々是好日
日本国内でいう「マスカット」とは、マスカット・オブ・アレキサンドリアのことです。
この生のマスカットをまるごと使用した繊細な果実菓子、源吉兆庵の「陸乃宝珠」

求肥で包んでるそうですが、まわりはザラッとした砂糖菓子のような感じ。
噛むと中からマスカットが出てきてジューシーな果肉と果汁、
美味しい

和菓子って高いものだけど、マスカット一粒で252円とお値段もいい。
でも作る手間と技術を考えるとそんなものかな。
8個で2100円なら夏の手土産にはおススメです。

娘が店のスタッフに宮参りまで無事育ったことへのご挨拶で持ってきてくれました。
自分ではなかなか買われへんやろうって、
さすがわが娘、よく分かってる。

エソラとイソラへ

2009-08-09 | エソラ&ゆうり
今日は、絵空の宮参りでした。
大阪では昔から男の子には大、女のこは小の字を額に書きます。

なぜか調べたら、「日本の通過儀礼」八木透 編によると
「宮参りの子供の額に『犬』の字や、男児なら『大』、女児なら『小』の字を書くという例は全国で聞かれる。
これは本来は『アヤツコ』とよばれ、もとは二つの線が斜めに交わる形状を指し、かまどの墨や、鍋墨で『×』のしるしをつけるものであった。
それがいつしか『犬』や『大』の文字に変わり、また鍋墨では汚いので紅が用いられるようになった。
ゆえに『大』や『小』の文字には特別な意味はないのである。
アヤツコは異なった世界が交差することを意味する印で、それが転じて魔よけと見なされるようになったものと考えられる」
だそうです。
 
  
  

磯良疣水神社でお祈祷予約は朝10時だったにもかかわらず、駐車場が満員で少し離れたコンビニに駐車して歩いていきました。
朝早くからやけに参拝客が多いなと思ったら、「玉の井」(疣水)の霊水を賜る方々だったのでした。

    
御祭神・磯良大神は海の神です。
それでか、○に巻貝が描かれています。
珍しいなぁと婿がまず気づきました。  

古代の海人族である九州安曇氏の祖神です。
博多湾で金印の出土した志賀島が拠点だったそうです。
神功皇后三韓への御征途に際し、住吉三神とともに水先案内をされて航海の安全に功があったと伝えられます。

『太平記』には
「神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。
そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。
磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功した」
この海流の中から亀に乗って出現したという場面を描いたものが、福岡県福津市の宮地嶽神社の安曇磯良出現之図。

  
  
婿は頭を垂れてくぐらなければいけないほどの、普通より低い鳥居。
その左手に覆屋で囲われた井戸があります。
これが「玉の井」
ここから2台のポンプで拝受所へ送水し、2つの神水口から常に流れだしています。

  

一人10リットルまでで容器に詰めて持ち帰えることが出来ます。
しかし水はそれほど勢いよく出ないし、どなたも限度いっぱいいただくので行列ができてます。
もちろん私も並んでペットボトル2本賜ってきました。

かつては新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社だった疣水神社。
1669年に天照御魂神社が現在の地に遷座されてより独立、今やこちらのほうがにぎわっているのはこの玉の井のおかげ?


対馬の民間伝承によれば、海童「磯良」イソラが海神の娘豊玉姫命の子どもとして登場します。
イソラは亀に乗って海中を往来し、あるときは童子の姿、またあるときには老翁の姿で人々の前に姿を現した。
イソラはふだんは海底に住んでいるため、顔にはカキがへばりつき醜い顔をしていたとされます。

イソラのイメージが老翁や童子の姿になるのは、
ユングの深層心理学の立場からすると老賢者(Old Wise Man)の元型に関連づけてみることができるそうだ。
われわれに知恵を与え、その人の進むべき道を示唆する指導者的な役割を果たす元型です。

絵空は磯良大神にあやかり健やかに賢く育ちますように。