秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

死ぬまでに行きたい世界の名城25選「ブラン城」

2012-10-19 | 旅・ルーマニア
世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」(本社:米国マサチューセッツ州ニュートン)
死ぬまでに一度は訪れてみたい世界の観光スポットを
テーマごとにまとめて定期的に紹介する「トリップアドバイザー・バケットリスト」
2012年9月21日第6回目の発表は、「死ぬまでに行きたい世界の名城25選」
ほとんどがヨーロッパの古城ですが、日本からは姫路城が紹介されています。

詳しくは→こちら

1.ノイシュバンシュタイン城 ディズニーランドにある眠れる森の美女の城のモデルの一つ
2.姫路城
3.紫禁城 中国
4.タージ・マハル インド
5.ダノター城 スコットランド 
6.サンレオ イタリア中部『ルパン三世カリオストロの城』の舞台 
7.シャンボール城 フランス中部ロワール川のほとり
8.アイリーンドナン城  スコットランド

そして9番目にルーマニアのブラン城(ドラキュラ城)
紹介の順位はランキングではないそうです。
ルーマニア南部のトランシルヴァニア地方にある14世紀の古城で、ドラキュラ城のモデル。



5月中旬にルーマニアを旅してすでに5ヵ月過ぎました。
バルカンの歴史調べてたらワケわからんようになり、旅行レポートが尻切れトンボになってました。

しかしルーマニアのお城はステキなのであらためて紹介しておきます。
ブラム・ストーカーが描いた小説ドラキュラが住んでる城のモデルとなりました。
ブラショフの郊外の山中に位置する古城です。









この階段を上ると入り口があります。

城の4階層にわたって陶器、家具、武器や甲冑のコレクションが展示されています。





こじんまりとした造りで、周りの森とよく調和してすばらしい。
20世紀になってからはルーマニアの王女が暮らされてたようで女性的なお城でした。





有事の際、この井戸から逃げ道トンネルが続いているそうです。


15世紀、トランシルヴァニアは北のハンガリー人に占領され、南のワラキアにはオスマントルコがせまっていました。
ルーマニア人を率いてよく闘ったのがブラド3世です。
ブラドの得意はゲリラ戦で、トルコ軍の陣営に夜襲をかけては捕らえた捕虜を片っ端から「串刺し」
この残虐ぶりより、ブラド=ツェペシュ(串刺し公)と呼ばれました。

当時トランシバニアはドイツ人の東方植民の最前線でもありました。
「笛吹男に操られた子供達はトランシルバニアに行き着いた」とハーメルンの伝承が残されています。
西欧の人々にとって、トランシルバニアはトルコの征服を免れたキリスト教の「最後の砦」でもありました。

数百年の時を経て、アマチュア小説家ブラム・ストーカーが蘇らせたのがこのブラド公でドラキュラとして誇張して描いたのでした。



猫より犬だらけのルーマニア

2012-06-18 | 旅・ルーマニア
家で猫飼ってますから、どこかへ出かけても猫は目に付きます。
ルーマニアではたった一回だけ猫見たのは、シナイア僧院の古いほうの教会で。
まわりが修道士寮のようになっていて、たぶん扉を開けている修道士の飼い猫でしょうか。

なぜかお隣のブルガリアは犬より猫が多いらしい。

ルーマニアでは犬は放し飼いであちこちで遭遇、ちょっと怖かったです。


この犬は耳に鑑札が留められてあったから飼い犬なんでしょう。


この黒犬はしばらく跡をついてきたのでドキドキしました。
ときに犬にかまれて狂犬病発症もあるようです。


ブラン城へ向かう坂道にもいました。


世界遺産シギショアラの広場にもいました。


車窓から見えた馬や牛も放し飼い




煙突や電信柱上のコウノトリの巣も保護されてるし


きっと動物が自由にくらせるお国柄なのでしょう。



ポリマー紙幣と、十字架いろいろ

2012-06-14 | 旅・ルーマニア
ルーマニアのお札は透かし模様がとてもきれいでした。
紙ではなくてプラスチック製でポリマー紙幣というようです。
ルーマニアの他には、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールなど。
偽造防止に効果があり、コスト高であっても長持ちするため結果的に安上がりになる利点があります。


ルーマニアのお金の単位レウは複数になるとレイとなります。
1レウ紙幣には、十字架をくわえた鷲の絵
ワラキア公国の盾形紋章がデザインされています。
        


ルーマニアでみた十字架いろいろ

聖ニコラエ教会


シナイア僧院


シナイア地方の山の上に十字架が白く光って見えるもバス車窓より撮影失敗。
ブチェジ山頂2284mにある高さ50mの十字架
画像検索でもらってきました。


シナイア僧院で買い求めたクロスペンダントをサギ写で



ルーマニア正教★シナイア僧院

2012-06-13 | 旅・ルーマニア
ルーマニアの旅では、聖ニコラエ教会のほかに、シナイア僧院がルーマニア正教会でした。

ブカレストから車で2時間ほどの距離にあるシナイア地方は、日本で言えば軽井沢。
高級山岳リゾート地で夏は避暑、冬はスキーなどでにぎわうそうです。

1695年に建立されたシナイア僧院があるから町の名がシナイアになりました。

中世のルーマニア貴族カンタクジノは17世紀末イスラエルへ巡礼の旅に出かけた時シナイ山へ行きました。
帰国後にこのシナイア僧院を建てました。
カンタクジノ家の紋章、双頭の鷲の紋章があちこちで目に付きました。






門をくぐると右手に新しい教会。
カロル1世が1846年に建てた新教会は、地元では大教会(ビセリカ・マーレ)と呼ばれています。


堂内の赤を基調にしたフレスコ画と、すでに古色を帯びはじめた祭壇がすばらしい。
教会内の撮影は禁止されてます。



左側の白塀に囲まれた中庭に古い教会(Biserica Veche)






17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴェアヌ公がポーチを増築した以外、当時のまま保存されています。
教会の入口に描かれたフレスコ画は素晴らしい。


外壁はもちろん、教会内もびっしりと描かれています。
ここも撮影禁止でした。
文字が読めない人たちのために、絵でキリストの教えを広めるのに非常に役立つものだったそうです。




カトリックならば正面に祭壇が見えるのですが、
正教の教会では、イコノスタシスと呼ばれるイコン(キリスト、聖母子、聖人などの肖像画)が並べて懸けられた壁でさえぎられています。
イコノスタシスより奥へは、聖職者以外は入ることはできません。


 ↑ ネット検索によりイコノスタシスの画像もらってきました


ルーマニア正教は、キリスト教とは十字の切り方が異なり
タテに降りた手は右から左へとヨコにクロスします。

そして椅子がない立ったままの礼拝が行われます。
足の不自由な人だけのためにわずかな椅子が用意されてるだけです。

カトリックやプロテスタントの教会と違って、礼拝中に聖歌を歌うときはア・カペラ
よってオルガンがありません。



鐘楼下は、イコンなど教会関連グッズが販売されてました。
小さなクロスのペンダントを買い求め気に入ってずっと身に付けてます。
次回クロス特集でレポートしますね。


正教会とは
「正教」は、異端や分離の動きが盛んであった中世に、
ハリストス(キリスト)がもたらした本物の福音という意味で本家のキリスト教の代名詞になりました。

正教会は、聖地エルサレムをはじめとして、
シナイ山、中近東各地、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、ロシア、アルメニア、グルジアなどの地域にキリスト教初代から分布しています。
1200年まえから徐々にバルカンの国々、そしてロシアに広がりました。
教会のかたちは国や民族を単位としていて、それぞれの国の首府に本山があります。

CORONA/コロナ/王冠の町

2012-06-03 | 旅・ルーマニア
旅立つ前の予習で、ブラショフ市の紋章は木の株が王冠をかぶっているのが印象的でした。

先住のルーマニア人を締め出した境界に建つ「エカテリーナ門」
アーチの上には「ブラショフの紋章」がありました。
とある木の株から王冠が掘り出されたという伝説からきているそうです。



ブラショフは太古からこの場所に街が存在していたらしい。
ラテン語で王冠を意味するコロナ(Corona)と言う名前で記録に残った最初は1234年。
後に、ドイツ語でクロンシュタット(Kronstadt)と呼ばれました。
第二次世界大戦後ソ連の占領期には、一時期レーニンという名前になったこともあったそうだ。



ブラショフの街の中心部にあるスファルトゥルイ広場の
画像では左角に黒の教会が堂々とそびえています。

黒の教会 (Biserica Neagra/ビセリカ・ニャグラ)
1385年ごろに破壊された以前の教会に代わり1477年に作られたこの地方最大の後期ゴシック教会。
この教会はカソリック世界が、東方のオーソドックス世界に対して
その威容を誇るために建設されたもので、宗教·政治的なショウ·ウィンドウだったとのこと。

1689年オスマン帝国との戦いで、ハプスブルク帝国軍が侵入してきた際の大火の煙で黒くなったことにより、その名がつけられた。





教会内119枚のオリエントカーペットのコレクションがみごとで
南東ヨーロッパ最大の機械式オルガン(1839年製、73ストップ、4000本のパイプ)が有名らしい。





城壁で囲まれた旧市街にドイツ人やハンガリー人、
先住のルーマニア人は城壁の外スケイ地区に追いやられました。
境界に立つ現存のスケイ門は1828年改築。
カソリック教徒とルーマニア人の正教徒を隔てる門です。

ブラショフの町は、1211年ハンガリー王の命令で、
ドイツ騎士団がハンガリー国境を守るための要塞を築いたことから始まりました。
ドイツ語名「クローンシュタット」、英語では Crown City を意味し、
中世ラテン語名の Corona/コロナ と同じであり、市の紋章に反映されています。
   
  1666年の本の挿絵にあるクローンシュタット(ブラショフ)の町

スケイ門の左側にエカテリーナ門があります。


スケイ門より先にエカテリーナ門が1559年に建設され城内への南の入り口となっていました。

ドイツの植民地なので、ルーマニア人は市民とみなされていなかった。
彼らは市内で商いをすることすら許されていなかったので、羊飼いか密輸で生計をたてるようになった。
また、ルーマニア人の信仰する正教会はトランシルヴァニア中で公式に認められていなかった。

スケイ地区に建つルーマニア正教の聖ニコラエ教会



この場所には14世紀からの木造の教会があった。
教会には18世紀のフレスコ画が描かれ、数多くのルーマニアの古美術品が保存されています。
この教会に隣接して16世紀には初のルーマニア語による学校があり、現在で博物館になっています。

教会内は撮影禁止だったので、ルーマニア正教については
次のシナイア僧院でレポートします。


気温から予想する洋服選び

2012-05-31 | 旅・ルーマニア
守口市のただいまの気温20度、ほんの30分前は17度で少し寒かったです。
一昨日はにわか雨が何度かあり、阪急電車に雷落ちたりしたようです。
お天気すっきりしませんね~

日本で暮らしてても、毎日の洋服暑かったり寒かったり…。

旅立つ前は持っていく洋服、毎度の事ながら悩むもの。
世界の天気で調べると首都のブカレストは少し日本より低い程度であまり変わらない。
しかしトランシルヴァニア地方は山を越えて行く内陸部、
まぁ信州へ行くようなものでしょうか。

その中心地ブラショフの街で2泊しました。








現地の人も薄めコートやセーターとか着られてました。

事前調査で天気予報をみると、雨95%、気温3~9℃
これにはビビリました。
傘はもちろん、レインコート。
さらに、ユニクロのプレミアムダウンがかさばらないので持って行きました。







ルーマニア初日、国民の館にて


出発の時は深夜便でドーハ乗換え、ルーマニアには昼すぎ到着。
家を出たときのそのままの洋服でブカレスト市内観光をしました。

最終日はシナイア観光後空港へ向かい18時頃の帰国便に乗ります。
朝洋服を決めて荷物を詰めるときにコート類も入れました。

帰路も、手荷物を少なくするため往路と同じ薄着。
シナイア地方は標高800m以上の軽井沢のようなリゾート別荘地で、
羽織ものがスカーフでは少し寒かった。
 


最終日はちょっと失敗でしたが、後はおおむね洋服選び大成功!
MSN 世界の天気は役に立ちますよ。

ビエルタン要塞教会の鍵

2012-05-29 | 旅・ルーマニア
ルーマニアは東ヨーロッパの黒海の西側にあります。
黒海沿岸以外は地続きということは、
いろんな民族が入れ替わり立ちかわりやってきやすいということ。

紀元前はダキア人が暮らしていたようです。
2世紀初めから3世紀後半までローマ帝国の支配下に置かれます。
ルーマニアROMANIA、国名の由来は「ローマ人の国」
国民は「ローマ人の末裔」を自認すると記されています。


4世紀、世界的な寒冷化によりゲルマン民族大移動でローマ帝国滅亡。
その後中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。

中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があったが、
完全な独立ではなくオスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。
そうした時代に造られたのがこの要塞教会です。


ルーマニアのほぼ中央に位置するビエルタン
1283年の文書にその名がはじめて出ており、ザクセン人のトランシルバニアにおける最古の集落です。


幸運にも、山あいのビエルタンにはオスマン・トルコ軍の攻撃はなく、
そのため教会だけでなく、人びとの住居なども破壊されることなく現在までその姿をとどめています。





あたり一面、とてものどかな景色が広がっています。
赤い屋根の集落と緑の丘陵、あたかも中世の村がそのまま残っているがごとくです。


三重の防壁に囲まれた堅固な教会は、入口からは見えません。


入口左横に、ハチミツと花粉を買ったお店があります。




100mほどの屋根付き階段を昇ります。

現在の聖堂は後期ゴシック様式で1487年から1524年に建造されました。
教会の中にはトランシルバニアで最大級の祭壇
  


パイプオルガン

そして聖具室の入り口扉の鍵


1900年のパリ万博で金賞を受けたそうです。
4種類は鍵で動かし、残り15種類はレバーで動かすようになった非常に複雑な仕組みが採用されています。
1515年に地元中世ザクセン人の親方たちが作り上げた素晴らしい技術工芸品です。
当時の仕組みは今でも機能しており、この鍵があるから世界遺産に登録されたともいわれています。





塀から見えた村の家の屋根には目がついているように見えます。
この小窓は通気換気だけでなく、見張窓でもあったようです。


東京から8890km離れたシギショアラの時計塔

2012-05-26 | 旅・ルーマニア
TMさんのブログ、スカイツリー開業記念「私の写真館」
スカイツリーの「藍白」という色を実現したのが「大日本塗料」
とコメントで触れられてました。

この夏の節電乗り切れるか瀬戸際の関西企業。
スカイツリー建設は関西企業の高い技術力の証明になった…に興味津々。

  


プレジュールに続いて、ビエルタンの要塞教会についてレポートするつもりでしたが、
急遽、シギショアラという町の時計塔に変更。
帰国後一番最初にスマホより送信した画像が、
 この塔から見えた山の教会でした。



60mの塔の上に登ると、各方位に世界の都市名とそこまでの距離が記されていました。


ドラキュラの家としてレストランになっている
Casa Lui Vlad Dracle (ヴラド・ドラクルの家)で予定通りランチ食べました。







右角の鹿が目印のホテルはチャールズ皇太子も宿泊されたとか。
トランシルバニア地方のドイツ系住民の生活や建築様式に造詣深く、
何軒か家を所有されていて、頻繁にトランシルバニアを訪問されるらしい。




シギショアラは「トランシルヴァニアの宝石」と称えられる、
ドイツからの入植者によって築かれた美しい街でした。
故郷から遠く離れた地で暮らすことになったザクセン人が
迫り来る異民族の襲撃の恐怖に打ち勝って築いてきた中世の街並みが残っています。

「シギショアラ歴史地区」は世界遺産に登録されています。

プレジュメール要塞教会

2012-05-26 | 旅・ルーマニア
天井に設置された先の尖った木の柵は敵が侵入したら降りてくる仕組み。
中央が1本折れてるようなのは、誰かか、何かに刺さったのかな。

3日目、ブラショフ市街から約15kmほど離れたプレジュメール要塞教会へ。
門をくぐり木戸を開けてもらって入場します。
堅牢な造りで、厳重な警戒。
地続きで異民族の敵が攻めてくるという恐怖と不安。
陥落し征服されたら皆殺しでしょう、きっと。
日本は海に囲まれてるから、ここまでスゴイ砦を見たことがなかった。




要塞教会とは、トランシルヴァニア地方独特の建築で、軍事要塞化した教会です。

かつてはトランシルヴァニアだけで600近くの要塞教会があり、
現在もその半数近くが残っていますが、大部分は荒廃したり閉鎖したりしているらしい。
地域住民の高齢化、住民の流出、修復予算不足、…
特に保存状態がよく美しい7つの教会が世界遺産に登録されています。

プレジュメール要塞教会は、世界遺産「トランシルヴァニア地方の要塞教会群のある集落」の一つです。







12世紀頃のモンゴルに始まり、タタール、オスマントルコ
異民族の侵略に備え教会を中心にして囲むように防御壁が造られています。
なんと14回ものオスマントルコの攻撃に陥落しなかった頑丈さです。

センターの教会









壁の高さは12m、外壁は擁壁になって異民族からの侵入を防ぎます。
厚さ9mほどの壁の内側が3階建ての集合住宅になっていて、なんと273室も。
中央に教会がなければ、中国の客家の土楼みたいです。





敵が攻めてきたら、村の人々は要塞教会があるこの壁内に避難して籠城します。
2か月間の避難生活ができるほどの食料を備蓄していたらしい。





窓から石や排泄物を投げたりして応戦したそうです。
壁の内側は暗いけれど、排泄するトイレとなる穴の下は青空だった。

なんか想像を絶するすさまじさです。
かつての日本は恵まれた地理環境にあったから、わきが甘いのかもとつくづく思わされました。




エアメイル届いた

2012-05-25 | 旅・ルーマニア
1週間前の5月18日夕方、ルーマニアのブラショフで赤いポストに投函。
貼紙とかあってあまりきれいじゃあなかったので、
届かないかもと思えたので記念撮影しました。





アロー・プラザという宿泊ホテルの横にあったポストです。
ホテルのフロントで投函依頼するのではなくて、自分で投函しました。

1週間でちゃんと届きました。
エアメイル切手代は3.2レイ(100円程度)
信じるに足る国のようです。

リラ(英語名ライラック)の咲く頃

2012-05-24 | 旅・ルーマニア
英語の Lilac ライラックを、フランス語では Lilas リラと呼ぶ。
知らんかった…。
フランスで「リラの咲く頃」とは、一番良い気候のことを指すそうだ。

ルーマニアのトランシルヴァニア地方、プレジュメール要塞教会で満開でした。



リラ(ライラック)のウンチク

和名:紫丁香花(むらさきはしどい)

学名 Syringa vulgaris
Syringa : ギリシャ語の「Syrinx(笛、パイプ)」が語源。
      枝から笛、パイプを作ったことから。
vulgaris : 普通の、通常の

開花時期は、4月中旬から5月初旬。
ヨーロッパ南東部バルカン半島やアフガニスタンが原産。
ライラックは英語名でイギリスでは5月祭の花になっている。
冷涼地を好み、日本では札幌市の花でもあり、ちょうど今ライラック祭り。
ハート型の葉っぱ、花は紫・白・赤など色さまざまで密生して咲く。
とてもよい香りで、香水の原料にもなる。
花びらはふつう4枚だが、まれに5枚のものがあり、それを見つけると幸せになれるという言い伝えがある。


世界遺産「プレジュメール要塞教会」について次回書きます。

「とちのき」は「栃の木」「橡の木」とも書く

2012-05-24 | 旅・ルーマニア
栃のみせんべいや栃のみ餅は知ってた。
しかし栃の花はお相撲さんしか知らなかった。

まるで巫女の持つ鈴のような円錐形。
花の集合が立ち上がり薄いピンク色の中に紅が混ざってたりもする。
それはそれは見事で、ルーマニアのあちこちで見かけました。

栃の花だと分かるまでずいぶん時間がかかりました。


奥に写った煙突にはコウノトリ。
2005年1月にモロッコ行った時にもコウノトリいました。
あちらで冬を過ごし春になったら地中海を渡って来るのだそうです。



ブラショフで泊まったホテル横に植わった栃の木




パリの街路樹で有名なマロニエというのはセイヨウトチノキでした。
「マロニエ」の花は「栃の木」そっくりで ほとんど見分けがつかないが
「マロニエ」の葉っぱはふちがギザギザらしい。


栃の木のウンチク

とちのきは「栃の木」「橡の木」とも書く
「と」は数字の十で、実が多い木の意味から。

学名 Aesculus turbinata(栃の木)
Aesculus hippocastanum(フランス語名マロニエ:marronnier)


Aesculus(アエスキュラス)は、ラテン語のaescare(食う)語源、実が家畜の飼料などになるところから
turbinata : 倒円錐形の
hippocastanum : トチノキの古名。"馬の栗"

白い花がロウソク状に盛り上がって咲く。
花からは蜜が、種子からはでんぷんがとれる。
特にトチ蜜(とちみつ)は最高品質のものとして知られている。
また、材は家具や楽器などに使われる。


セントジョーンズワート

2012-05-22 | 旅・ルーマニア
ブカレストの空港で購入したもの

左:ツイカというスモモの蒸留酒を買ったつもりが、よく見たらプラムかも。

右:花の香り付けしたオリーブオイルのつもりで購入したけど、
よく見たらバルサミックオイルって書いてある。
これって食用のオイルとして口に入れても大丈夫なんでしょうか?
それともボディにぬるエッセンスオイル?

オイルに浸かった黄色い花はセントジョーンズワートだと思い込んでたけど、
「Ulei de galbenele」と下に書かれてある。
galbenele で画像検索したら違う花だった…。


脱法ハーブとか違法ハーブとか、世間を騒がせています。
しかし今の日本人、特に私ですが、あまりに植物のこと知らなさ過ぎる。
街路樹の名前も、咲き乱れる花の名前も、もちろんハーブも。

以前ローズマリーの名前が分からなくて、このブログで名前教えてと尋ねたことあります。
ローズマリーだと思いますよとコメント残してくれた「あっちゃん」
ハンドルネーム見たときピンと来たけど、
今回の旅に一緒だった妹が、自分が投稿したと初めて名のりましたわ。
妹は植物にめっちゃ詳しいです。


前置きが長くなりましたが、
セントジョーンズワートについて調べて、ふ~んなるほどと思ったことを記録にとどめて置きます。



セントジョーンズワートは英語です  St. John's wort
Johnジョンはラテン語でヨハネ。
聖ヨハネの日(6月24日)の頃までに黄色い花が咲き、伝統的にその日に収穫されたためその名が付いたそうです。

聖ヨハネが殉教したときに、その血液から芽生えたと言い伝えられています。
実際、花びらをすりつぶすと赤い液体が出てくるようです。

十字軍に従軍した兵士たちが打ち身や切り傷の特効薬として、
この草を良質の油に漬けてハーブオイルをつくり携帯したとも。


「聖ヨハネ祭の前夜に不思議な出来事が起こる」
「聖ヨハネ祭の前夜には、魔女や精霊が現れる」
というヨーロッパの言い伝えは、その夜を舞台にしたシェークスピアの『真夏の夜の夢』の背景ともなっています。

ヨーロッパでは、中世よりうつで悩む人や切り傷、やけどなどの治療薬に利用されていました。

昔はうつは、人に悪魔が乗りうつって起こる病気と考えられ、
セントジョーンズワートはうつを改善する効果が高いと
「悪魔ばらいのハーブ」とも呼ばれることもあるようです。

現在でも、ドイツを中心にヨーロッパではうつの改善に多く利用され
アメリカでは主に精神の安定やリラックス効果を目的に利用されています。

セントジョーンズワートには、他に、消毒効果や鎮痛作用があります。
切り傷、やけどの治療にも使われています。
患部にセントジョーンズワートを粉末状にしたものや、葉をあてがっておくと、患部の化膿を防ぎながら痛みを鎮める効果があります。

 @@@@@@@@@@

全然関係ないけど、この記事最初にスマホより投稿した時間
2012-05-22 22:33:55

なんか数字並んでてすごくない?

魔女のいる国

2012-05-22 | 旅・ルーマニア
現代に魔女が職業として存在する国ルーマニア
旅立つ前に予習した記録「森のむこうトランシルヴァニアのヴァンパイア 」
コメント欄で国が魔女に税金徴収する話にも触れました。
 → 2012-05-12

なぜに魔女かという原点の一つに
呪いとかおまじないとか以前に、薬草やハーブの扱いに長けた民族であると書かれてあるのを見ました。

そうした流れより、美容とかアンチエイジングにも国をあげて力を入れているんだと。
お土産にジェロビタールの保湿クリームは買おうと思っていました。

添乗員さんに出会ってすぐそのことを伝えましたら、
ブラン城入口近辺に土産物屋さんがたくさんありそこで買えるだろうと。
見学後30分程度の自由時間にその界隈の薬局でどうぞと教えてもらえました。

いわゆるドラキュラ繋がりのヴァンパイアや魔女のスーベニアには見向きもせず
  

限られた時間内に急いで薬局へ


売場にはジェロビタールのクリームが何種類もあってお値段もいろいろ。
買いたい個数と値段を計算して悩みながら
手持ちのルーマニア紙幣を使い果たして購入しました。

その後、ブラショフ観光で時間がとれたからとデパートへ案内されたら

ここでも販売されてたけど、すでに手持ちの紙幣はなかったのでした。

このデパート地下は食品売場がスーパー形式でした。
数ある商品の中からルーマニア産を探すのは至難の業。

チョコレートなどはスイスやドイツなどのブランドも多いし、
うっかり中国産をわざわざ東欧で買わないよう
皆さん細かい字に目を凝らして選別しました。



その中で見つけたハーブティー、セントジョーンズワート茶。
Sunatoare / St.John's Wort / 和名オトギリ草

ツアーの仲間が、寝つきがよくなる効果と思いますと教えてくれた。
値段は忘れましたが超安いと思った記憶だけ残ってます。

ちょっと調べてみたら、興味深いことが分かりましたが長くなるので次回に。

画像の右手、ビニール袋に入ったものは蜂が固めた花粉(Polen)です。
ビエルタン要塞教会の入口でハチミツ売場がありました。



おばさんに(私より若いかもしれないけれど、おねえさんでもないしね)
これは何ですかと尋ねると、
おそらく蜂が固めた花粉だと言われたのではないでしょうか。
元気になるんだと、力こぶポーズのジェスチャー交えて語ってくれました。

味見したら、あまり美味しいものではないけれど、
サプリメントだと思えば天然100%で格安でした。

往きて還らず~生きて帰れた!

2012-05-21 | 旅・ルーマニア
今年正月の初詣に伏見稲荷でひいたおみくじが最悪だった話
  → おみくじ「凶後吉」
覚えていてくださっている読者もおられるかもしれません。

「旅立ち いきて帰らず」
できたら今年は変な国へ行かんほうがいいよ
と、同行したアズキさんに言われてました。

その卦を忘れたわけではないけれど、
春先にルーマニア6日間10万円という格安ツアーを見つけたら、
すっかり行く気満々になってしまいました。

当たるも八卦、当たらぬも…
しかしやはり気になるもの。
海外保険はいつもより掛け金500円ほど高いのにしました。
そして、今年賜ったすべてのお守り持って行きました。


さらに、私が不在の家で何かあっても困るから、
龍の絵馬に護っていただこうと最終投稿記事として出かけたのでした。

添乗員さんの機内持ち込みキャリーバッグには
インパクトあるアップリケがぶら下がっていました。

中2の娘さんが、母の日のプレゼントに手作りしてくれたんだそうです。
道中安全を祈ってのママの顔アップリケだと、うれしそうに語られてました。
そしておにいちゃんからは、金属板の手製キーホルダ。



きっと護っていただけたんだろうと思います。


最終日、シナイア観光後、18:25のカタール便に搭乗するためブカレスト空港へ向かっていました。
クリックで拡大します
帰路のバス道中より雨足がきつくなりだしました。

ブカレストまであと1時間ぐらいのところで、事故直後の現場に遭遇したのです。





★この3枚の画像は、むごい場面を隠すために修正したわけではありません。
雨で濡れたバスの窓ガラス越しにアイフォンで撮影したものです。
車窓撮影はデジカメに比べてアイフォンはブレが少ないなぁと感心してました。
自動修正してくれるスグレモノです。
この事故現場画像も修正してくれたとしたら、
ホンと、人工知能で、ちょっと怖いかも。


もう少し遅ければ道路閉鎖などで交通渋滞に巻き込まれていたかもしれません。
そしたら帰りの飛行機乗り遅れたかも。

実は、2日前の往路、
ブカレストよりトランシルヴァニアのブラン城へ向かっていた時にも、交通事故現場に遭遇したのでした。
あっという間に通り過ぎて写真撮影できなかった。
ペシャンコになった乗用車、粉々になって飛び散ったフロントガラスを掃除されてました。

ひょっとして同じ道路で近い場所だったかもしれません。

このときは対向車線で、数十キロの渋滞が発生していたのでした。




もし渋滞に巻き込まれていたら、ブラショフの観光は予定通り行かなかったことでしょう。

この後、ガソリンスタンドでトイレ休憩になった時、
後から来たトラックに前のスペースを譲るためにバックしました。
たまたまその時バスに戻ろうとしてたので横に立って見てました。

なんと観光バス後部の底板が突然外れて垂れ下がった!!




ドライバーさんと現地ガイドのアレックス君とで外した鉄板を
とりあえず下の収納庫にしまって応急処置完了。

やれやれでした。
ヘタしたら、地面でこすって火花散ってガソリン引火したり、
あるいは走行中に外れて後続車の事故に繋がったり、…。

出発前の天気予報は、雨95%
にもかかわらずお天気に恵まれ、傘を使ったのはほんのわずかでした。

ご加護に感謝します。