まだ見てなかった「おくりびと」、昨夜地上波初登場ということで放映されてたのを視聴した。
印象に残ったのは「いしふみ」です。
かつて人が言葉を持たなかった頃、自分の想いを相手に伝えるために言葉のかわりに石を渡したと言われてました。
確かに、川原や海辺、山でもきれいな石を拾いたくなるものです。
しばらく飾っていたり、誰かにあげたり…
そこまで思いをこめたものではないけれど、確かエジプトで拾った石あったと出してきたら、
もぐちゃん早速反応。
これって人間のDNAに組み込まれた「いしふみ」の習慣の名残なんだろうかとググってみました。
でもヒットするのは「おくりびと」のことばかり。
貝殻や石などを拾って、気持ちをのせてプレゼントするというのは、たぶん古今東西してきただろうけれど、特にふれた記事は見つけることができませんでした。
検索していているうちに興味の対象が変化しました。
どうやら石に彫られた文字、石文碑を「いしふみ」というようです。
「つぼのいしふみ」
日本三古碑の一つで、昔から歌枕として知られ平安時代以降多くの歌人が「つぼのいしぶみ」を題材とした歌を詠み、京都の文化人の間でつとに有名でした。
源頼朝や西行法師、そして芭蕉も読んでます。
ところが「つぼのいしふみ」は現在二つあります。
壺の碑(つぼのいしぶみ)
仙台市と松島の中間に多賀城遺跡、その南門の近くに有名な壺の碑は、江戸時代に土中から発見されました。
碑面には、多賀城の位置、724年に大野東人によって創建されたこと、762年藤原あさかりが修造したことが刻まれており、多賀城改修の記念碑と考えられています。
芭蕉が、多賀城の碑を「つぼのいしふみ」だと感激して書き付けたためか広く世に知れ渡ってしまったそうです。
もう一つの「つぼのいしふみ」というと、
都母の石文(つぼのいしふみ)
都母(つも)と言う古代地名で爾薩体(にさたい)の北部。
昭和24年青森県東北町石文(いしぶみ)地区の雑木林でで偶然発見され、今は東北町の「つぼのいしぶみ保存館」に保存されています。
刻まれた『日本中央』4文字は「ひのもとのまなか」と読むそうだ。
征夷大将軍坂上田村麻呂がアテルイの乱を鎮圧するため東北に赴いた時、弓のはずで巨石に「日本中央」と刻んで建立したと言われています。
アテルイの碑が京都清水寺にあり、首塚が大阪の枚方市にあるそうだから、平安時代の認識はこちらのほうかも。
しかし坂上田村麻呂がこの地に足をのばした記録はなく、実際は次の征夷大将軍・文屋綿麻呂が刻んだとの説もあるそうです。
またなぜ日本中央と刻んだのか、本当はいつの時代に作られたのか、ミステリーは深まるばかり。