芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

合併した市町村の職員配置

2009年01月21日 | Weblog
登米市は9町が合併してで来た市だが、そもそも合併にどのような利点があるのかが9町それぞれの町民が理解していないように思われる。町より市のほうが立派なくらいの理解ではないのだろうか。9町のそれぞれの町との距離は、車で15分程度の距離があり、それを結ぶのは、それぞれの町の個人が持つ車に頼っている。9町の端から端まで車では一時間程掛かるし、市当局が民間バス会社との契約で、一日数本の100円バスを運行している。そのバスは、佐沼という町を中心に放射状に走っているが、その佐沼に病院を集中してしかも倒産状態で充分な診療も出来ず、そこに行くのに隣町から一時間もかかるバスが走り、病人やこの市の住人の大部分である老人が通うには役立たない。町と町との間が全てつながるバスもない。バスを走らせているのはお為ごかしというものだ。
県幹部職員を経験した近所の伊達宗弘氏と話をした時に、登米市職員がそれぞれの町から他の町へ通うような配置にしてあることについて、彼は、発想が逆でなければならない、それぞれの町に詳しい人が窓口に来た人に対応したほうが市民によりよく親切なサービスが出来ると言っていた。私もそれについては賛成であるし、国家政策にただ乗っかっただけの合併をしてしまったからには、市の行政は、市民にいかに便利を提供するかもっと考える努力すべきであろうと思う。少なくてもこんなバスの提供をしながら、年よりの自動車免許証を取り上げて、一年間だけバスをただにするなど、何の役にもたたない。他にもおかしいことが山ほどあるが、言い出したらきりがない。

不親切な佐沼の職員

2009年01月20日 | Weblog
仙台から登米に帰るバスに間違って、若柳に行く人が乗っていた。仙台駅前のさくらの百貨店前のバス停は、登米総合支所行き(とよま明治村行き)と登米市役所行きが同じところに左右並んで列を作るようになっていて、同じ会社の同じ色をしたバスであるから、紛らわしいことこの上ない。総合支所と市役所がどう違うかも分かりにくい。私の東京の周りの人で登米をとめ市とよま町と読める人は来たことのある人でも殆どいない。
とよま明治村行きに乗ると、これが登米市役所行きではないと注意を喚起する車内放送があるが、寒さの中でそれから逃れて夢中で乗った人は、聞き漏らすこともあるであろう。
いずれにしろ、若柳に行く人は、登米市役所行きに乗って、途中の若柳で下りるべきなのだが、登米総合支所まで来てしまったので、先ずは、その人に往復割引切符を譲ってあげ、佐沼行きのバスがまだあるかどうか確かめたところ、約一時間後に米岡を迂回して行くため佐沼まで一時間かかるバスがあることが分かった。直行すれば、佐沼まで15分の距離だが、市民バスは、迂回するバスが多く、不便この上ない。佐沼から乗り継いで若柳に着くのは19:00になるので、タクシーに乗って行くと言う。登米総合支所の役所の人達に向かってもう退勤時間に近い17:00だから佐沼に帰る職員がいたら通勤用車に乗せて行ってくれないかと大きな声で聞いたが、誰も手を挙げない。みな下をむいて仕事をしている振りをする。今の市長のやり方は、旧町の職員を違う町に配置してそれぞれの町の状況を把握させるものであるから、佐沼から通勤してきている職員がいるはずなのに、一人も手を挙げないというこの不親切さ。佐沼まで行けばタクシー代が半分になるが、トヨマからのタクシー代はおそらく6000円前後であろう。足許の覚束ないこの若柳の人に深切にすれば、登米市の人気も上がるであろうものを、そう言う発想の職員はいないのである。

地産地消

2009年01月19日 | Weblog
今日、たまたま仙台で延命餅を買いに行ったら、店が閉まっていた。この前店の休業日を聞いたら、特別な糸のことで、店は8:00からで売り切れたら閉めるとのことだった。13:00頃行ったら閉まっていたということは、今日はもう売り切れたのであろう。今時珍しい店だ。大福をその日のうちに作って売り、その日のうちにお召し上がり下さいと言う。
保存剤を入れていないから、安全な食品の代表格であろう。しかも美味しいのだから言うことない。次回はもっと早く行かねば。
以前京都のお菓子を良く貰ったりしたが、赤や緑黄色の色が綺麗なお菓子だったが、着色料を使っていた。見た目に良いが、体には良くないであろう。尤も京都でも、その日のうちに食べるようにという食品は結構ある。
人気の豆腐などは、東京でも売っているが、あれはどういう保存の仕方なのか。
食品もやはり、地産地消が良いのだろうが、建築材もそうであろう。材木なども米国からの輸入品には、思いがけない乾材シロアリなどというものがくっついてきているらしい。日本のシロアリは駆除しやすいが、乾材シロアリは殆ど駆除不可能であるらしい。
安い外材や外米を輸入することで、思いがけない病虫害までも輸入しているのだ。


インド、中国、日本の植民地化の歴史

2009年01月18日 | Weblog
坂本龍馬や、岩崎弥太郎を支援したグラバーの背景にいた英国の会社は、インドを支配した東インド会社を出身母体とするジャーディン・マセソン社であるが、上海や香港で中国支配をもくろんでいた貿易会社だ。ということは、日本の支配をも狙っていたことがわかる。
中国では、お茶も扱ったが、インドからアヘンを中国に売りつけ、いわゆる三角貿易をしていた。中国側がそれを嫌って抗議したが、アヘン戦争によって中国の植民地化を強めた会社だ。
日本では、横浜現シルクセンターの地にジャーディン・マセソン商会を造り、そのジャーディン・マセソン商会の横浜支店長に現麻生首相の祖父吉田茂の養父を任命した。吉田茂は、その養父健三の莫大な遺産を継いだという。ジャーディン・マセソン商会は、おそらく、日英同盟の下で日露戦争の武器調達で相当もうけたのではあるまいか。我が家の書院の間に掛かる額に「胸懐海の寛さ 芳賀君の為に清嘱』という書を残している沼南島田三郎は、日露戦争開戦に大反対した代議士だ。日露戦争に勝った日本の国民は、日本が植民地を有する列強に仲間入りしたと勘違いさせられて、明治維新を進めた一派によってあたかも勝てるかのように思い込まされ、前の悲惨な大戦に突入させられた。
しかし、坂本龍馬を始め、明治維新を推進した若者達を支援したのは、英国であり、米国なのであり、植民地政策は、ついには、インド、中国に次いで日本をも植民地にして現在に至っているのだ。

仙台一高同級生との酒飲み話

2009年01月17日 | Weblog
長田、白幡両君と会ったとき、白幡君に三菱の創業について、T.B.グラバーが関与しているよなと言うと、知らないと言ったが、グラバーが武器商人であることは認めていた。
長崎のグラバー邸を昔何度か見物したことがあるが、武器商人であったことなどを説明されなかった。グラバーは、幕末から明治維新の戊辰戦争にかけて幕府方と倒幕方の両方に武器を売って大もうけし、あのような立派な洋館に住むことが出来たのだ。土佐出身の三菱の創業者岩崎弥太郎や、一般的日本人が好きな坂本龍馬を物心両面で応援したのでもある。グラバーの日本人妻との間の子供は、倉場富三郎と名乗って、創業期の三菱の役員になっているようだ。その確認を白幡君にしたかったのだが、トーマス・ブレーク・グラバーについても詳しくは知らないようだ。T.B.グラバーは英国の植民地経営に掛かるユダヤ系企業を背景にした政商であったが、米国のJ.P.モルガンをも背景にしていたようだ。J.P.モルガンの後身モルガン・スタンレーはブッシュ政権の経済閣僚を輩出している、米国の国家資本主義を代表する会社だ。米国政権に取っては倒産を避けたい最も重要な会社であるから、公的資金を何兆円でも際限なくつぎ込むことになる会社だ。倉場富三郎は第2次世界大戦の時に日本の戦争内閣からスパイ容疑を掛けられたが、日本の敗戦直後に自殺したと言われる。
長田君が日本は常に外圧に弱いと言うので、その関連で第2次世界大戦での敗戦後だけでなく、明治維新も、大化の改新から壬申の乱にかけてもそうだったことを、「竹取物語」の内容に即して話したら、一つ利口になったと喜んでいた。「竹取物語』と百済、新羅・唐の関連については、白幡君に三菱のOB会で話をさせられて、そのことを飲んだ時に長田君にもしていたと思っていたが、長田君には初めての話だったのだ。
現在の日本は、外圧に弱いも何も、米国に無条件降伏した米国の植民地なのだ。

昔の仲間達と飲む

2009年01月16日 | Weblog
先日、仙台一高の同級生、長田、白幡両兄と飲んだが、私が、今の世界不況を招いたのは、ブッシュであり、その政策をそのまま日本にもたらしたのが小泉、竹中であると言ったら、長田兄は、以前からその支持者であるから、いかにも竹中がいいそうな、まだ十分に新資本主義が日本に徹底していないからだとのたもうた。長田兄は、警察官僚であるから、比較的政治家の擁護に回るのであるが、いまだにそうである。一方、昔の旅行社の退職者達と飲んだら、今の日本の大量の失業者は、小泉、竹中によってもたらされたのだと言っていた。それについては、資料を縦横に使って湯浅誠氏が、小泉、竹中批判をしていて、それが論座賞と平和ジャーナリスト賞を2重にもらっている。白幡氏は、元三菱銀行の社員で、やはり、小泉、竹中とその後を引き継いだ内閣に対して批判的である。
昔の旅行社の退職者達は、今の内閣を選挙で政権交代しなければならないというのと、民主党になっても昔社会党が取った時に変わらなかったように変わらないであろうという意見だった。これが、今の日本の一般的な考えなのであろう。

仙台の延命餅

2009年01月15日 | Weblog
仙台の新寺通りに延命餅を売る店がある。新寺通りは昔、新寺小路と言っていた通りだ。登米と仙台の間を行き来するときバスがその道を通る。バスから目にしていて、かねてから気になっていたので、先日、買いに行った。延命餅は、大福で、1個105円だった。試しに食べてみたら、餡を包んでいる皮が薄くて良く伸びる。味もいい。餡だけも売っていた。仙台の他の店でも買えるか聞いたら、そこでしか売っていないと言う。大福は比較的小さいので10数個とがんずきを5個ほど買った。朝8時から営業していて、売り切れたら閉店だそうだ。本日中にお召し上がりくださいと言われたが、食べきれずに、翌日に持ち越したら保存材を入れていないからであろう、皮が硬くなっていた。しかし、温め直して食べたら皮も柔らかくなって美味しかった。
売茶翁の生菓子も良いが、この延命餅も良い。仙台にはこのような良い店が今でもあるのだ。

守んツアンの川柳「河北」に掲載される

2009年01月14日 | Weblog
一昨日、守んツアンの家にこの前、作って持ってきてくれた酢豚の入れ物を返しに行ったら、お茶をご馳走になり、そのうち守んツアンの家で飲もうということになり、輝ちゃんも呼んで、私は、車で送ってもらい先日、伊藤哲郎さんが持ってきてくれた沖縄最古の蔵元の「琉球」という泡盛を取りにいったん家に帰った。途中輝ちゃんも乗せ、守んツアンの家に戻り、守んツアンの奥さんの手料理で飲んだ。守んツアンの奥さん、とし子さんは、料理が上手で、いつも我が家で飲むときは何かしら料理を持ってきてくれる。年末は、茶碗蒸しまでいただいた。最後にごぼうご飯までいただき、残ったのをおにぎりにして、明日の朝食にどうぞと渡された。朝から大雪で寒いから何もしないでお湯を沸かすだけで朝食にあずかれる。
守んツアンは、川柳を良くするようで、「河北新報」に2回のせられたと、その1句を見せられた。
「病葉や」で始る句であった。「わくらば」と読んだら、今まで読めた人が誰もいなかった、と、何度も感心してみせたので、私に読ませて、試したのでないかと思われた。私は読むのが仕事だったのだから、読めて当たり前で、守んツアンこそ、響きのいい言葉を選んでいるじゃないですか、と持ち上げた。守んツアンの川柳の正確な句は覚えていないが、川柳にありがちな品のないのとは違い、なかなかセンスがいいものであった。

派遣村に70歳代の女性ボランティア

2009年01月13日 | Weblog
『河北新報』に辺見庸が『水の透視画法』という文章を連載している。文章に凝る人で、しかも物事をしつこく追求して書いているので、面白く、愛読しているが、13日の文化欄に載った「年初のたより」「こころばえと憂愁と」というサブタイトルで、書いている中に、いつもくれる70歳代の女性が珍しく元旦より遅れてくれた年賀は、いつもの細かい字で新年の決心などを書き込んで来るのが、今回は、のっけから「轍鮒の急にたちあがれ!」と記し湯浅誠氏が村長を務める日比谷の派遣村で飯炊き、ゴミ拾いなどのボランティア活動をしたという内容だったそうだ。東京近郊の人かどうか知らないが、宿泊もその派遣労働者達と一緒にしたのかどうかわからないが、あまりに元気で、私にはとても真似が出来ない。以前のプログで私は、もうボランティアは出来ないから、せめてカンパを送るくらいだと記したばかりで、このように元気な後期高齢者がいるのに驚いた。それにしても、テントに宿泊しながらそのようなことをするには、身体がついて行けないと思うが、私はやはり、田舎からせいぜい応援するだけである。70歳代でそこまでするというのは、あるいは、せずにいられないほどにことはそれほどに急を要しているということか。そこまで深い理解をしている人は、おそらく、今の政治の無策を憂いてのことであろう。世も末と思っておられるのであろうが、ここに現れているのは、そのような考えをお持ちの方の本の一部と思われる。

自己責任に帰せられる野宿者

2009年01月12日 | Weblog
書院の間にある島田三郎の書「胸懐海闊」は、多分「胸ふところ海の寛さ」を意味するのであろうが、その額の下に、黒柿の箪笥がある。母のものだが、一番上と横の小ダンスが開かなかった。去年末に母の末妹が来て、その鍵を持っていると言って、開けてくれた。小ダンスから母の父である祖父の遺言状が出てきた。以下のようなことが奉書紙に筆で記されていた。
  子孫の厳守すべきこと
一 正直たるべし
一 依頼心を起こさず独立独行すべし
一 遺産は吾がものと思ふべからず自らの汗に成りたるものは勝手たるべし
一 保証連帯等は決して為べからず止むを得ざる際は、可能の範囲に於いて恵与せよ
一 日常生活は収入以内に於いて為せ
一 学問は脳力体力を考慮し無理をせざること
一 一躍千金を望むべからず富士山も一粒の土砂より成ることを知れ
一 飲酒を慎め
一 自由放縦は身を滅ぼす基たるを知るべし

なぜこれを公表したかと言うと、『反貧困』を読んで、上記の一般常識的な考えを変えさせられたからだ。
曾祖父が家産を傾け、その上借金も残ったと推測される家に育って苦学した祖父・明が保証人になるなというのは理解できる。しかし、『反貧困』で湯浅誠氏は、そのNPO「もやい」で野宿者にアパートに住ませる為に保証人になっているのだ。これは危険なことであり、湯浅誠氏は多くの反対を受けたらしい。その借家の保証人になった数は、1000軒を越えるようだ。
上記の遺言状は、日本人には一般常識的なことで、全てを自己責任においてするように子供の頃から教育されているのだ。
しかし、湯浅誠氏は、殆どの野宿者は自己責任を自らに課して、生活保護法以外に救済の仕組みがない社会で、どん底まですべり台を滑り落ちて野宿者になっているのだと言う。貧困のスパイラルに墜ちると、その歯止めは日本社会になく、上記の常識によって自分を責める為、どん底まで陥るのだと言う。
大戦に負ける以前の祖父の時代は、古き良き江戸時代の名残があったので、慈善的な救済も行なわれていたのであるが、新資本主義を標榜する小泉・竹中以来の日本には、その気持ちの上での余裕もなくなったのであろう。