私は宗教というものが存在することは認める。たとえば現在のように新型コロナウィルスが次々と感染者を生み出しているとき、なぜ私が感染してしまったのか、なぜ他の誰々ではなく私なのか、などという疑問をもつ。こうした個の不安を和らげてくれるものの一つとして宗教があり、そういうものとして働く可能性がある。実際、個人に不幸が襲いかかったときに、宗教団体が近づいてきて、不幸の原因の宗教的解決を図ることがありうる。そういう例を私は知っている。
私は、宗教というものに根本的な疑義を抱いている。宗教史として、神道や仏教などの歴史を研究することもあるが(たとえば秋葉信仰)、その信仰対象である神や仏を、私は信じない。
さて、『アエラ』という雑誌で、佐藤優という人物が創価学会の池田大作のことを連載しているという。私は『アエラ』を読んでいないので、佐藤の文も読んでいない。しかし佐藤優という人物には、いかがわしさを持ってきた。私が読んでいる新聞とか雑誌で時に彼の文を読むことがあった。私はそこにぬえ的なもの、彼の論調の奥にあるものが暗黒のベールに隠されているように感じた。したがって、もし『アエラ』を読んでいても、彼の文章は読み飛ばしていたことだろう。
その『アエラ』の佐藤の文章に警戒感をもって批判している文を読んだ。創価学会=公明党は、私が常日頃批判している安倍政権の強固な支持勢力である。最近は来なくなったが、選挙が近づくと知り合いの創価学会員が自民党候補への投票を求めてきたことがあった。私の居住地には、公明党の候補者はいない。
その創価学会のトップ(であった?)池田大作を、彼が書いたとされる文献をもとに「内在的に理解」するのだそうだが、この前の研究会で某氏を評価する報告に対して、私はその人が書いていることは資料としてつかうのは当然ではあるが、そればかりでは評価は違えることがある(どんなことでも、自分が考えていないことでも書くことはできる)、その人物が何をしたかをも含めて評価すべきだと。
佐藤は、池田が書いたものだけで評価しているという。それは間違いだ。
AERA連載「池田大作研究」に抱いた、拭い切れぬ違和感