浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ただの・・・・・

2023-12-04 19:57:53 | その他

 書棚にあった『夏目漱石と西田幾多郎』(岩波新書)を、寝室にもっていき読みはじめた。私はなかなか寝付かれないたちで、活字に眼をとおしていないと眠気がやってこない。

 ふとこの本を読みはじめたのだが、これがなかなか面白い。幾つかの本を並行して読んでいるが、さらに並行して読む本が増えてしまった。

 夏目漱石も西田幾多郎も、反骨の人であることが指摘されている。いずれも父親の愛情がない、あるいはきわめて少ないという境遇に育つ。そういう境遇から育った者は、「権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすい」(30頁)とのこと。2歳で父が病死している私も、家父長的な父親の支配を受けなかったからか、反骨精神をもち反権威的な精神を有している。

 学位授与を拒否した漱石は、「小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮したい希望を持って居ります。」と手紙に書いている。

 私も、小田実の「人間みんなチョボチョボ」だという信念を持っている。漱石と同じような感覚だろう。

 だが、いろいろな人と交わると、あまりつきあいたくない人たちと遭遇する。たとえば、肩書きをいっぱい書いてある名刺をもった人、「僕って偉いでしょ」とばかりに自慢話を繰り広げる人、今まで関係なかったのにあたかも今まで関わりがあったかのようにしゃしゃりでてくる人、話のなかに功成り遂げた人の名前を出してその名前で自らをかざろうとする人、そういういや~な人がいて、そういう人たちとも話をしなければならないこともある。あ~いやだ。だから私は、そういう人たちがいるところには行かなくてもよい状況をつくりだそうとしてきた。だから静岡市にはもう行かない。「オレが、オレが・・・」という人、権威にすがり、みずからを売りこみたい人が集まるところには顔を出さないのだ。

 ちなみに、田中正造の名刺は、「田中正造」とだけ書かれている。私の名刺は、住所氏名だけのものと、今年まで主宰していたある催しを主催する「〇〇実行委員会」の名刺だけをもつ(それはもう終わった)。私も「ただのなにがし」で最後まで生きていこうと思う。漱石と異なり、私は最初から最後まで「ただのなにがし」なのだから。

 夏目漱石全集を私は持っているが、この本を読んで、漱石が反権威の人であることがわかった。これで全集を読もうという意欲が湧いてきた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

種子島

2023-12-04 19:57:53 | 政治

 今日は太陽がでない。太陽がでないと、寒い。部屋をしめて電気ストーブで暖をとる。

 今日の『東京新聞』は種子島の現状を報じている。近くにある馬毛島に軍事基地が建設されることとなり、たくさんの作業員が種子島を拠点にして、日々馬毛島に通っているそうだ。

 島の各所にコンテナハウスが建てられ、そこが作業員の宿泊所となる。ホテルはいつも満室、賃貸住宅も賃料があがっているという。

 漁船は、漁に出るよりも、作業員を馬毛島への海上タクシーとなっている。

 種子島の生活は変わってしまった。カネが、おそらくたくさん投下されていることだろう。ホテルや地主は笑いが止まらないだろう。カネ、カネ、カネがばらまかれる。今までの日常がなくなる。

 軍事基地の建設をめぐって、島内には大きな対立が生まれた。日本の対米隷属の軍事拡大政策により、南西諸島の島々で起きていることだ。

 カネは、人びとが何を差し置いても欲しい。あのマイナンバーカードのとき、2万ポイントが付与されると報じられると、数多の人びとがそのポイントを求めてマイナンバーカードをつくろうと行列をつくった。浅ましいと私は思ったが、それが人びとの習いなのだろう。

 カネの魔力に負けない人の方が少ないと思う。カネよりも、平和で静かな日常が欲しいという人の方が、おそらく少ない。

 馬毛島に軍事基地ができると、軍用機が無数に飛来する。米空母の艦載機が、馬毛島でタッチアンドゴーを行うそうだ。自衛隊機よりも米軍機のほうがずっとやかましい。種子島を騒音が覆いつくすだろう。

 下手にカネをもらうと、必ず何かしらの害がついてくる。種子島の人びとは、基地の完成後、きっと後悔することになるだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本大学はやはり「日本大学」だった

2023-12-04 19:57:53 | 社会

 日本大学が記者会見を開いた。私は一部をユーチューブでみたが、日本大学が長い間培ってきた風土はまったく変わっていないことがよくわかった。すべての大学が道理に基づく運営がなされているわけではないが、日本大学はさすがであった。長い黒歴史を引き継ぐ「素晴らしい」会見であった。

 要は、でたらめ、きちんとした道理に基づく方針をもってこの問題に対処するのではなく、その場しのぎ、場当たり的なものであった。

 林真理子は作家のようだが、人間としての資質に問題ありと認識した。この人の文は読む必要がないと判断した。

 なおジャニーズ問題や宝塚について精力的に報じている『週刊文春』などは、この問題を報じていない。どこのメディアも、経済的利害にもとづいて行動している。メディアへの不信が強まるだけである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミュージカルと演劇

2023-12-04 08:23:29 | 演劇

 私は若いころから音楽座のミュージカルが好きだ。最初に見たのは、「シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ」であった。とても感動した。

 演劇は、劇を通して現実や社会にある様々な問題、生き方などを考えるためにあると思う。しかしミュージカルは、生きているって素晴らしい!と思わせてくれるものだと、音楽座のミュージカルを見て思った。

 それ以降、劇場に足を運んだり、ビデオで見たりして様々な音楽座の出し物を見てきた。それぞれの作品に、それぞれ言いたいことはあるが、しかしすべてを通して、音楽座のミュージカルをみることは、楽しい。

 音楽座が、YouTubeチャンネルでオーディションの光景を公表している。

 私は今まで何度か宝塚も見に行っている。宝塚は豪華絢爛そのもので、照明といい、衣装といい、お金をかけてどうだ美しいだろう、という見せ方だ。しかし、私から見れば、二部構成の一部の劇は学芸会のようにしか見えなかった。

 宝塚は、ひとりの自死によって、その内部が明らかになった。舞台で活躍している人びとは、しかし奴隷的境遇のなかで演技していたことが明らかになった。おそらく、ひとりひとりの演技も、演出家らの上意下達的な厳しい指導のなかでつくられたものなのだろう。

 宝塚を見ても、生きているって素晴らしい、楽しい、というような感動は得られなかったことを思い出す。

 音楽座のオーディションを見ていて、ひとりひとりの創造性がぶつかり合い、そしてその結果ひとつになって舞台がつくりだされていることを知った。ひとりひとりの創造性を大切にしながら舞台づくりをしていると思った。

 だから音楽座のミュージカルは、楽しいのだ。

 宝塚のような人間の個性や創造性を押し殺すことによってつくられる舞台を見ることはないだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする