近世においてアイヌ民族がいかなる支配を受けていたか、その詳細を学ぶことができた。松浦武四郎が残した本には、それが記されていた。シャモと呼ばれていた和人が、アイヌ民族を搾取収奪し、抑圧してきたことが描かれていた。
北海道に一度しか足を運んだことのない私には、アイヌ地名と今の地名とが次々と現れてくるのだが、私にはちんぷんかんぷんで、地名の説明のところは多く読み飛ばした。地名にこそアイヌの生活が込められているのだが、やむを得ない。
読んでいて、松浦を、花崎がこう評価していることに同意する。
私が松浦武四郎から学ぶべき第一のものと考えるのは、真実を追求することを通じておのれ自身が変わっていった、その在り方である。植民地を支配する民族の一員であり、しかもその政府の官吏になりながら、当時実質的に奴隷化されていた土着先住民族アイヌへの搾取と虐待を知るや、それを排除すべく批判し、直言し、彼らの友となろうとした生き方である。その自己変革はなお不徹底であり、日本国家の支配構造への認識において甘かったと、今日の眼で見、言うことはできるが、武四郎を凌駕してそのような道を歩んだ人物を寡聞にして私は知らない。
彼の旅の大部分は、和人としては単身ないし若い役人ひとりを同伴してのものであって、アイヌの案内人や村人と寝食を共にし、苦楽を分かち合い、悲喜を同じくしたことが、彼を変えた原因であることに間違いはない。心して学ぶべき点である。
武四郎はまた、歩く人だった。歩きながら考え、歩きながら観察し、歩きながら記録した人だった。したがって、彼の目の高さはその地で暮らす人びとと同じ高さにあった。自然のうちから感謝して人々の糧を得、子を育て、隣人と談話や歌舞を楽しみ、やがて土にかえる人生を世々送る人々に、神につうずる心と振る舞いを感受することができた人だった。彼自身は特に宗教深く信仰する人ではなかったが、他人の苦しみ、悲しみ、喜びに素直に共感できる人であった。(328~9)
私はとても立派な人物だと思う。
また、蝦夷地の地名を「北海道」に変えた際、松浦の提案が通ったという説明がある。私はそれを知っていたが、正確にはこういうことのようだ。
彼は、明治2年7月17日、「道名の儀につき意見書」を政府に提出している。その中で彼は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の六つを原案としている。そのうちの北加伊道と海北道とを折衷したようなかたちで「北海道」が正式名称に選ばれるのだが、彼が北加伊道を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイノーと呼びあってきたからというところにあった。北加伊道が北海道に変えられたとき、そこに込められた大事な意味を消された。(12)
蝦夷地の地名が北海道とされたあと、松浦は高給の「開拓判官」の役職を辞し、位階も返上した。明治政府によるアイヌ政策の片棒を担ぐことができなかったのである。
良い本である。アイヌ民族の苦難の歴史を知るとともに、アイヌ民族の誇り高い人びともみることができる。