ソキョンシクが亡くなったということをデモクラシータイムスの番組で知った。今手元にある徐の『半難民の位置から』(影書房)を取り出して、最初の論考だけを読んだ。
徐は在日コリアンであった。在日コリアンであるということは、植民地出身の親を持つということであり、また差別体験を持つということである。そのような立場から、徐は、人間として考えなければならないこと、知らなければならないことを発信し続けてきた人だ。
私は徐の著書を何冊か持っている。まず『徐兄弟 獄中からの手紙』(岩波新書)である。徐の兄二人はソウル大学大学院に在学中、朴正煕政権の下で逮捕され、いずれも長期にわたって勾留され、激しい拷問を受けた。そのため、徐は家族を支え、兄たちの救出運動をするという厳しい生活を余儀なくされた。
また『プリモ・レーヴイへの旅』(朝日新聞社)。プリモ・レーヴィはアウシュビッツからの生還者である。ユダヤ人である。しかし生還したプリモ・レーヴィは自ら命を絶った。そのプリモ・レーヴィの生の軌跡をたどるために、徐はイタリアに行き、そして考えた。
この『半後衛の位置から』にも、プリモ・レーヴィのことが記されている。「身を灼く恥」という巻頭におかれた文である。徐は、ユダヤ人がナチスドイツによって集団で虐殺されたときの写真を前にして思索する。それはナチスドイツが、ユダヤ人女性を全裸にして、彼女たちを処刑しようとしている場面の写真だ。徐はこう書きつける。
人間は、こんな場面にいたっても眉一つ動かさず、毛すじほどの動揺も覚えることなく、与えられた職務を遂行することのできる存在なのだ。ある者は撮影という職務を、別の者は射殺という職務を。これはたしかに大切な記念写真である。「人間」という存在が実際に示して見せた極限的な冷酷さと鈍感さの。白い屍体が折り重なる溝は、私たちが「人間性」と呼び慣わしてきた通念の、断絶の裂け目だ。
人間は、どのような残酷なこともできる存在である。それは時々、私たちの耳目にも入ってくることだ。私たちは、だから知っている、人間が同じ人間に対して、目を背けなければならないような残酷なことをしていることを。それは今もどこかで行われている。しかしそれを止められない。
徐は、多くの著書の中で、そうした人間の根源に触れる問題提起をする。私たちは、徐の指摘に逡巡しながらも、しかし読み進める。読み進めなければならないのだ。
私たちは人間として生まれてきた。人間とは何か、いかなる存在なのか。解答のない問いを問い続けること、その傍らに、徐の著書がある。読み直そうと思う。もう何度目になるだろうか。