演劇の台本である。本書にはほかの作品も掲載されているが、推薦されたのはこの「・・・つばき荘」なので、それに関してのみ記す。
まず読んでいて、これは台詞を覚えるのがたいへんだなと思った。登場人物は3人である。その3人が、ことばを連ねることで進行する。そして舞台は、「つばき荘」という精神病院のなかの診察室、保護室など狭い空間である。
東日本大震災のなかで福島原発が爆発し大量の放射性物質が流出した。当然危険地域から離れなければならないのだが、当該地域にある精神病院や老人施設が見棄てられた事例があった。この戯曲の背景には、その事実がある。
台詞の中に、
「私はとてつもなく大きなものに見放され、置き去りにされている」がある。これが一つのモチーフとなる。それは原発事故のような事故の際だけではなく、日常的に人びとは、「知らなくていい。考えなくていい。」(これも一つのモチーフである)のなかで生きていて、どうするかを決定するのは自分以外の誰かなのである。これらは精神病院のなかで語られているのだが、しかし、日本全体で、日々、人びとは「見放され、置き去りにされている」し、「知らなくてもいい。考えなくてもいい。」「意見を持たなくていい。」という状況の中で生きているのであって、精神病院にいる患者だけではない。
しかしそういうなかで、みずからの意思を明らかにする者がでてくる。原発事故が起きた場合のことを想定して対策を立てるべきだという意見である。しかしそれを経営陣が消し去ろうとする。カネがかかるし、そんなこと「できるわけがないじゃないか」。それがこの戯曲の葛藤である。
私が知らなかったことが台詞の中にある。
「昭和39年、西暦1964年に精神病の青年が駐日アメリカ大使ライシャワーを刃物で刺すという事件が起きました。政府はアメリカへの体面を保つために、精神病者の「隔離」を開始。国策としてです。それで精神病院建設ブームが始まった。政府は精神病院の開設基準を緩和し、病院建設への低金利の融資を行った。入院患者一人に対する医師の数、看護師の数を減らして人件費を切り詰め、高い収益を保証したことが功を奏し、医療のことなんか何も知らない金持ち連中が精神病院の経営に乗り出してきた。その一つがつばき荘です。今でも日本の精神科医一人あたりの患者数は35人、イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、フランスといった先進国の中では断トツ。2位のイギリス、ロシアが10人ですから、日本は3倍を超えている。医療の質は低い。精神病院は劣悪なまま、改善しない。国策だから、儲かる仕組みを変えたくない奴らがいる。肝心なところはほったらかしで、いたる所ごまかしだらけ。でもこの船に乗っていれば絶対に安全なんです。何千何万という人たちがこの船に乗って生活している。歪みは一部の人たちに押し付けられますが、見て見ぬふりを通せば気持ちよく乗り続けることができる。原発と一緒でしょ。米軍基地とも似ている。飲み込むしかないんだ。将来どうなるかなんて知ったことか。今を生きるだけで精一杯。心の中でみんなそう思ってる。」
この戯曲で、日本の精神病者への隔離政策の発端を知ることができた。ここにもアメリカが入ってくる。
「生き延びるかどうかを決めるのは自分を自由と思えるかだ。高木君。自由だ。自由が大事なんだ。」(56頁から引用。42頁にも、同じような台詞、「生きるか死ぬかを決めるのは自分を自由を思えるかどうかだでな」がでてくる。しかし「自由を」は「自由と」すべき、誤植だろう。)これもモチーフの一つである。
それはまた「名前を取り戻す。あなたの正しい名前を。」という台詞につながる。精神病院の院長山上の台詞、「子供の頃からですよ。求められている役割を素早く理解して果たすことができた。家でも学校でも。それで認められた。そうできることが嬉しくて、うまくやれないと悲しくて、役割が手に入らないともっと悲しい。役割を手に入れて上手にこなすことが私のやりたいことになった。」につながる。そこには「あなた」がなく、「自由」もない。そんな状態では、「あなた」の名前なんか必要ない。「あなた」は誰でもない存在なのだ。「名前を取り戻す」とは、「あなた」自身を取り戻す、回復する、確立することなのであり、そこにこそ「自由」がある。
さて「つばき荘」は、まずはその病院の理事長の「唾(つばき)」なのであり、「つばき荘」は同時に日本全体でもある。「いつかどこかで誰かが吐いて、大地をよごし、生活を破壊して、人間の尊厳を踏みにじるつばき」、それが日本を覆っている。
院長の山上は、雨となって降ってくるその「つばき」を飲みこみ、からだに受けることによって、「自由」になるのであった。
演劇を見て、同じような感想が書かれるようでは、面白くない。様々な解釈が可能となるような演劇を、私は好む。これは様々な感慨を鑑賞者に生みだす劇だと思う。この劇については台本だけを読んだのだが、精神病院が舞台であっても、そこでかわされる台詞には普遍性があるし、現代日本社会への怒りも表出されている。「つばき荘」という架空の精神病院を舞台にすることによって、日本全体の病理を示しているように思える。
そして打開する途は、自由な個の誕生である。他者ではなく自らが決定し、他者の期待に添うような生き方ではなく、自らが自由に選び取る生を生きること、それが示されている。
」