最近私の周りで亡くなる人が増えている。
死のことを熱心に考えたのは思春期のころであった。みずからの生に根源的な疑問を抱き、自分自身の生に価値はあるのかなどと思い悩んだことがあった。
私は人生論や文学を読みふけり、まさに煩悶の時期をおくった。
以前にもかいたことがある気がするが、亀井勝一郎の本に「悔いなき死」ということばを発見した。私は「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きることだと結論を出し、その後はあまり悩まなくなった。
しかし今、私は具体的な死を前にしている。親戚に不幸が続き、今や母が入院している。
死は生の終末期に訪れるものであるが、死を迎える本人は、死の当事者としてただ死を死ぬだけである。死にゆく者は死の世界へ跳躍していくか、踏みとどまって生を続けるかのどちらかしかない。
死の問題とは、死を迎える者の周辺にいる者たちの問題ということになるのではないか。
死はすべての生きとし生けるものがいずれかの時期に必ず直面することである。
近年、終活ということばが一般化しているが、私もそれを始めようとしている。死を迎えても家族や子孫に迷惑をかけないようにすることを真剣に考え始めた。
まず蓄積してきた書籍を処分することから始めるつもりである。さらに墓の問題、遺骨の行方などもある。
かつては遺骨は寺院にある墓に葬ることが一般的であったが、寺院が思い切り金儲け主義となっていることから、人々は寺院から離脱するようになっている。家制度が成立した近世以降の葬り方から、人々は逃げ始めている。それはここ30年、その間に賃金は上がらず人々の生活が苦しくなっているがゆえに、将来の展望を見出せない人々が金がかかる死後のあり方を変えようとしているということもある。自民党政権が自分たちだけの金儲けに熱心でありつづけた結果であり、寺院からの逃亡は、少子化、貧困化などと同じ原因から生じているといってもよいのではないか。
安定した生活を望むなら、自民党・公明党政権を倒すしかない。寺院もそうした動きに同調していかないと、みずからの基盤を失うことになるだろう。